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平方イコルスン 『駄目な石』 : 〈非合理的会話〉に込められたもの

書評:平方イコルスン『駄目な石』(白泉社・楽園コミックス)

「読む人を選ぶ作品」という言い方は、作品の魅力がわからない読者を見下しているようで、あまり好きではないのだが、まぎれもなくこの作品は「わかりにくい作品」であり、読者側に「わかろうとする意志と努力」の求められる作品だとは言えるだろう。つまり(決して駄洒落ではなく)読者の側に「読解への意志」が求められる作品なのだ。

登場する女子中学生たちは、みんな大真面目である。それぞれが自分の想いを信じて、それをストレートに表現しているのだが、だからこそ、小説やドラマ、マンガなどの虚構作品における「整理された説明的なセリフ」に慣らされている読者には、それがしばしば意味不明なものに聞こえる。
しかし、作中人物同士の間では、それで十分に会話が成立している。なぜか?

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しかしながら、実のところ私たちだって、日常的にはそんな会話で十分こと足りているのではないだろうか。「あれ、やって」「いいから」とかいった言葉で、家族などの親しい間柄ではその言わんとしているところが十分に伝わるのであり、それこそがリアルな会話なのだ。そして、本作で描かれているのも、そうした「会話」の一種なのである。

それにしても「マンガ(虚構作品)なんだから、読者に意味が通じるように、発話をわかりやすく調整しろよ」という読者の要望が出てくるのは当然だろう。しかしまた、作者が描きたいものは、そんなものではないというのも明らかなのではないだろうか。

作者が描きたいものとは、登場人物である女子中学生たちの「忖度なしの真剣な会話=自分の想いを伝えるための会話」なのである。伝えたいのは、「意味」ではなく、彼女たちの「想い」なのだ。
そして、それは多分、私たちの多くが失ってしまったものなのではないだろうか。

大人になると、私たちは「先方に正しく意味・意図を伝えることを第一とする」だろうし、それ以上に「相手を不愉快にさせず、むしろ好感を持たれるような発話」に努めるだろう。それが「社会人」としての当然の配慮だからである。しかし、そのことで私たちは、ある種の「言葉」を失うと同時に、何か「大切なもの」を失ってはいないだろうか。

平方イコルスンのマンガに対しては、単純な理解・共感というのは容易ではない。
しかし、必死に、そして滑稽なまでに自分の想いを伝えようとし、そんな自分を疑わない彼女たちに(そして作者に)、私はいつしか惹かれている。彼女たちのことを「理解している」とは到底いえないだろうが、彼女たちを愛おしく感じるようになっているのだ。
「なんだかよくわからないけど、いいなあ。この必死さ」などと、ニコニコしながら彼女たちを見守り、応援してしまう自分がそこにいる。

一一そんな作品があり、そんな読者がいてもいいのではないだろうか。

初出:2020年12月20日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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