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つくみず 『シメジ シミュレーション 04』 : 決定不可能な世界

書評:つくみず『シメジ シミュレーション 04』(KADOKAWA・MFCキューンシリーズ)

前巻第3巻では、本作の「不思議な世界」が、じつは主人公「月島しじま」「お姉ちゃん」によって作られた世界であるらしいことが明かされる。
どうやら、「ここ」ではない「現実の世界」らしき世界において、月島姉妹はなんらかの理由でイジメに遭っており、「お姉ちゃん」は妹を守るためにも、他の世界へ脱出したいと考えて、この作品で描かれた「不思議な世界」を創造したようなのだ。

そうなると当然、「この世界」は、本当に「創造」されたものではなく、「お姉ちゃん」の見ている「夢」あるいは「脳内世界」であって、実在しないのではないか、そこに登場するのは、しじまを含めたすべてが、「お姉ちゃん」に夢見られているだけの「夢の登場人物(存在)」であり、彼らは一見、一人で考えごとをするなどの「内面」が描かれているようには見えるけれども、そこまで含めて、すべては「お姉ちゃんの主観」の中にしか存在しないものなのではないか一一と、そう疑われてくる。

第3巻では、それまでの「ちょっと不思議な世界」を、「さらに自由な世界」へと改変しようとする「お姉ちゃん」に対し、その企てを阻止しようとする、「庭師」を名乗る不思議な少女が現れて、「お姉ちゃん」と対決するものの、「この世界」においては「神」にも等しい「お姉ちゃん」の前に、なすすべもなく敗れてしまう。

(第3巻より)

「お姉ちゃん」は、より自由な世界へと世界改変を実施し、その世界は「ちょっと不思議」程度では済まない、きわめてシュールなものへと変わる。
その世界(この新たな世界)では、すべての住人たちが、それぞれに望むものを実体化させることができるのだ。つまり、なんでも自由に手に入る世界なのである。

しかし、ここで当然、疑問になるのは「個々の求めるものがぶつかった場合にはどうなるのか?」ということだ。
だが、それは、個々が、この世界の中に、それぞれに望む「小世界」を別々に作ればいいのだから、何も問題はない、ということになっているようだ。

だがまた、この世界のすべてを、すべて自分の意思に従わせたいという欲望を持った人がいた場合にはどうなるのか?
一一その答は、どうやら、まだ与えられていないようで、本作の一見「のほほんとした世界」にあっては、そこまで極端な欲望を持つ人はおらず、みんなが、自分の周囲において、その時々に求めるものを実体化すること(小世界を形成すること)で満足し、仮に自分の欲望したもの、例えば「家のかたち」などが他者によって改変されてしまったとしても、それをまた自分の力で簡単に元に戻せるのだから、大きな問題にはならない、というようなことのようである。

そんなわけで、本巻第4巻では、そんな「すべてが自由になる」シュールな世界が、しじまと「しじまちゃんが大好き」でいつも一緒にいたがる「まじめちゃん」の二人による「愉快な日常」を通して描かれていく。

そうした中で、読書大好き少女の「よみかわ先輩」と「お姉ちゃん」との、「この世界」についての、次のような対話がなされる。

よみかわ先輩「…ねえ、どうしてあなたにばかり、世界がそんなふうに見えているのかしら」
しじま姉「そんなふう?」
よみかわ先輩「この世界を作り変えたんでしょ? なぜあなたにだけ、そんなことができるのか」
しじま姉「…………」
よみかわ先輩「こんなふうに考えたことはない? この世界はあなたの見ている夢で、だから世界を作り変えることだってできる」
しじま姉「……本ばっか読んでるやつは変なことを考える。お前は、自分の存在も否定するのか?」
よみかわ先輩「しないけど… あなたの考え方の話よ」
しじま姉「私は、お前や自分の妹が意識を持ち、考えていると思っているし、そしてこの世界では、各人の意識は現実に表れる。それが何よりの存在表明で…。それ以上の議論は無意味だろう」
よみかわ先輩「〝我ら〟思う故に〝我ら〟あり、って感じ?」
しじま姉「そうかもな」

(P71〜72、原文に適宜句読点を加えた)

見てのとおり、よみかわ先輩は当然の「認識論的」な疑問を呈し、それに対して「お姉ちゃん(しじま姉)」は、いかにも「物理学者的リアリズム」で、「目の前の現実」の「実在」を主張する。

「お姉ちゃん」にとっては、よみかわ先輩の疑義は、例えば「もし、この世界に神がいたとしたら、私たちとこの世界は、神が見ている夢なのかもしれない」といった、いかにも文学趣味の「抽象的な議論」のようにしか思えない、ということだろう。

だが、「この不思議な世界」が、よみかわ先輩の指摘するとおり、「お姉ちゃん(しじま姉)の見ている夢」ではないかという疑義を、論理的に否定することはできない。

それは、私たちが「現実に生きている、この世界」と思っている世界についても言えることで、いま私が考え、このレビューに書いているこの「意識」すら、「神」の作った「物語」かもしれないという疑義が、論理的には否定できないのと同じことなのである。
(じつは、私は存在せず、書いているのは「神の指示を受けた、チャットGPT」かもしれないではないか)

したがって、ここで「お姉ちゃん」は、よみかわ先輩の「当然の疑義」をにべもなく否定するけれども、じつのところ、この世界は「お姉ちゃんの見ている夢」かもしれず、じつは「お姉ちゃん」自身が感じていながらも否定したい疑義を、「夢の中の、よみかわ先輩」に代弁させているだけ、なのかもしれない。
あるいは、この二人の対話自体が「しじまの見ている夢」の中のものでしかない。一一つまり、「この不思議な世界(改変前も後も)」は、じつは「お姉ちゃんが作った世界」ではなく、「お姉ちゃんが作ってくれた世界だと、しじまが信じている、しじまの夢」なのかもしれない、ということだ。

したがって、「この不思議な世界」の正体は、今のところ「誰にもわからない」。
「作中人物」の誰にもわからないのは無論、読者にもわからないし、もしかすると「作者」にもわからないのかもしれない。

たしかに、作者は、その特権において、この作品に描かれた世界の「正体(正解)」を決定し、それが「唯一の真実」だと主張することはできるだろう。
だが、それは、あくまでも「作者の意図」でしかなく、そもそも作品というのは、「作者の意図」に縛られない、読者の「多様な解釈」を許すものなのだから、「作者の意図」というのは「作者の見ている夢(解釈)」に等しく、結局のところ、それを「唯一の正解(世界の解釈の絶対的決定)」とすることなどできないのではないか。

ともあれ、「この不思議な世界」を自分が作ったと考えている「お姉ちゃん」としては、「この(人工的な)自由な世界」は、まだまだ不完全で、より完全な自由を実現するためには「新しい計算式」が必要だということで、さらなる研究を続けている。

ところが、この「新しい計算式」開発の中で、事故が起こってしまう。
「お姉ちゃん」が求めている「より自由な世界だけれども、単なるカオス(混沌)ではない世界」であるために必要な「個人を個人たらしめ、世界をカオスの淵に落ち込ませないように固定している、個人の界面」を、「新しい計算式」開発の中で、うっかり揺るがしてしまった結果、そこで「別のお姉ちゃん」が生まれてしまったのだ。

この「別のお姉ちゃん」は、「より自由な世界」を実現するためには、「この不思議な世界に、カオスをも取り込んで、進化させる必要がある」という、言うなれば「過激思想」を持っており、それを実現するために、多くの人が集まる、しじまたちの学校で開催される「文化祭」に、その「カオスを呼び込むための仕掛け」をする。

そこで、「お姉ちゃん」は、しじまに「彼女を止めて(別のお姉ちゃんの企てを阻止して)」と言い、しじまはその「仕掛け」がなされたらしいコンサート会場へと急行するのだが、その途上で、ふと、自分は、今も、これまでも、自分の意志で生きてはおらず、いつでも周囲(お姉ちゃんやまじめちゃんなど意志)に流されて生きてきた、ということに気づき、自分が今から為そうとしていることの「正しさ」に疑問を覚える。
はたして「別のお姉ちゃん」による「より自由な世界の実現」という企ては、間違っていると言えるのだろうか?

じっさい、「お姉ちゃん」の「より自由な世界への改変」という企てだって、すべての人が、納得しているわけでも、満足しているわけでもない。
「庭師」さんは、もっと「秩序ある世界」を求めていたのだが、「お姉ちゃん」の力の前に、屈服せざるを得なかっただけなのだ。一一それなのに、「お姉ちゃん」の企ては正しく、「別のお姉ちゃん」の企てが間違っているなんて、本当にそんなことが言えるのだろうか。

そんな迷いの中、しじまがコンサート会場に到着したちょうどその時、「別のお姉ちゃん」の仕掛けである歌詞が歌われ、しかも、しじまは、そのコンサート会場にいる自分自身の姿をも見るのである。

『そして曲の
 最後のパートが始まった
 私たちは知ったのだ
 一一その瞬間
 この世界が遥か遠くの
 昔から流れ続けていた
 たったひとつの歌だった
 ということを』

 (P128〜129)

こうして、「お姉ちゃん」の作った世界は、「別のお姉ちゃん」の介入によって、「新たな不思議な世界」へと改変された。

しじまが目を覚ますと、しじまと真面目ちゃんの二人だけが、不思議に生体的な構造物らしきものがびっしりと林立する、その手前の、少しひらけた砂浜めいたところにいることに気づく。

『目が覚めて
 しばらく……
 ………
 まだ胸の
 一番深いところで
 あの戦慄が
 鳴り続けている気がした
 それは中心から
 全体へと広がってゆき
 やがて私そのものと
 区別がつかなくなった』

 (P130)

一一私はここで、『新世紀エヴァンゲリオン』「人類補完計画」発動後に、シンジとアスカの二人だけになった、あの「砂浜」を思い出した。
カオスまで取り込んで、すべてが自由になった世界とは、「人類補完計画」に酷似しているとは言えまいか。

しかし、しじまはこの「新しい世界」を、否定も拒絶もする様子はなく、ただ、いつものように、ぼんやりと受け入れているように見える。
そして、その横では、まじめちゃんが珍しくも不安そうに、しじまに「これから、どうしよう」と声をかけている。

(『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』より)


(2023年4月26日)

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