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遠藤達哉 『SPY×FAMILY 3』 : 〈隠した私〉を知らない私

書評:遠藤達哉『SPY×FAMILY 3』(ジャンプコミックス)

すでに大ヒット作している本作だが、本巻ではさらなる飛躍を感じさせるものがあったので、その点について書きたい。

私は、第2巻のレビューで、とにかく作者は「カワイイ」を描くのが抜群にうまい、ということを書いた。これに異論のある人は、ほとんどいないだろう。
しかし、私の指摘は「カワイイは、人間に最も本能的な部分に、機械的に訴える力を持つものである」と指摘することで、作品の価値を、意識的に「相対化」していもした。つまり、本能的な部分に訴えるだけでは、娯楽作品としては十分でも、芸術作品としては二流である、という含みを持たせてもいたのである。

さて、この第3巻では、私が2巻までの限界と見ていたものを、超える契機が感じられた。それは、いささかベタな言い方だが「人間を描く」という展開を、この作品が見せ始めたということだ。

本作は、簡単に言えば「コメディー(喜劇)」である。
そして「喜劇」とは、「ギャップ」によって「驚きの快感」をひき起す物語だと言えるかも知れない。「美男美女がドジ」だとか「可愛い少女がコマッシャクレている」とか、その「ギャップ=不釣り合いさ」の「意外性」が、人の快楽中枢を刺激するのである。

そして、そうした点からすると、本作の主人公3人は、いずれも、その極端な「ギャップ」に生きている人間だと言えよう。3人とも「普通人」を装ってはいるものの、じつは「スパイ」「殺し屋」「超能力者」であり、それがバレては生きてはいけないので、そうした「正体」を偽っているわけなのだが、その「正体」を「隠そう」として無理をしたり、それが「バレそう」になって慌てたりする、そんな「起伏=ギャップ」のある行動や感情が、読者には「楽しい」と感じられるのである。

しかし、ここで気づくべきは、彼らは「自分の正体」を、それぞれ「スパイ」「殺し屋」「超能力者」だと思っているが、しかし、それは果たして「正しい認識なのか」ということである。
かれらは、たしかに「特殊な職業」や「特殊な能力」において、「普通の生活」ができない状態におかれているからこそ、ことさらに自身を「普通の人間」に見せかけようとしている。そこには、否定的な意味での「自分は普通ではない」という「劣等感や負い目」に似たものが存在している。彼らは、個人的な意味で、望んで「スパイ」「殺し屋」「超能力者」になったのではない。そうなるしかない、それを選ぶしかない事情があって、それになってしまったのだ。
だから、そうした特殊事情が無かったならば、じつは彼らとて、ごく「普通の人」なのである。

むろん、こういう解釈には「スパイ」「超能力者」は当てはまるとしても、「殺し屋」の場合には、いささか無理があるだろう。現実的には、「殺し屋」のヨルが、現実にあのままの人間だったならば、彼女は、いくら人間としての美点を持っていたとしても、やはり人格的カタワとしての「サイコパス」ということになるだろう。
本作では、そのあたりを「コメディー」ということで、ごく常識的に処理しているけれども、本作でところどころ描かれるように、彼らが自分で思っているほど「特殊な人間ではない」ということに気づいていくためには、いずれヨルの「サイコパス」的な側面の「乗り越え」が必要となるだろう。

むろん、本作は「コメディー」として、このままでも十二分に面白いのだから、そんな無理な挑戦などしなくてもいい、という意見も当然あるだろうし、その意見も決して間違いではない「無難な選択肢」だと思う。

しかし、3人の「本当の自分への気づき」が描かれ始めたからには、いつかはそこまで踏み込んで欲しいと、一人の読者として、私は期待してしまう。
もしも、そこまで踏み込んで3人を描けたならば、この物語は、単なる娯楽作品として消費されるに止まらず、多くの読者の思い出に刻まれる作品になるだろうと思うからである。

娯楽作品が悪いとは言わない。そうした作品は、是非とも必要である。しかし、それに止まる必要もまた無いのであるから、そこを超えていける作家には、それを超えていくことを期待するのは、決して間違ったことではないはずだ。

私は、遠藤達哉に、そこまで期待したいと思っている。

書評:2020年1月4日「Amazonレビュー」 
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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