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藤生 『えりちゃんちはふつう』 : 表現による 〈ささやかな救済〉

書評:藤生『えりちゃんちはふつう』(白泉社)

どう表現したらいいのだろう。重く静かに心の痛むような自伝的エッセイマンガだ。

特別に面白い話も、変わった話もない。この手のマンガでよくあるように、語り手である主人公は、貧乏な家に生まれて、親にもあまり可愛がってもらえず、大好きな友達や先生との関係も、終ってみれば、いつも一方通行だったことに気づいてしまう。それでも、主人公は、しかたないなとでもいうように、それを受けとめようとする。自分が傷ついているというのは分かっていても、それを認めたからといって救われるわけではない。いや、余計に傷つくだけだ。それなら、その悲しみに気づかなかったかのようにして、やり過ごすしかないではないか。

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そんな主人公を救ったものは唯一、マンガを描くことだった。
だがそれは、それが楽しかったからということではない。
自分のなかにどんどんと貯まっていく、悲しみや怒りややるせなさといったものを、マンガに移すことで、マンガによって美化して変造することで、主人公は「つらさに堪える主人公」を相対視し、自身のつらさを、自身の中から物語の中へと封印してきたのではないだろうか。

それでも、つらいものはつらい。誰かが温かく手を差し伸べて、黙って抱きしめてほしい。そして、そこで全てが終っても良いような安心のなかで寝りたい。

つらさに堪えて、人に優しくできるような人間になること。それはたぶん、誰よりも自分自身に対する救いとなるのだ。
「そんな人もいるのだ。現にここに」という救いを、自分で生み出すための物語。

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ここには、表現することによる救済がある。
それですべてが解決するわけではないとしても、一瞬でも、この現実のつらさから解放してくれる「やさしい物語」を信じたい。そのなかで生きたい。そんな切なさが沁み入る作品だ。

主人公よ、それでもきみは、つらい生を生きる人たちの希望である。
それだけは忘れないでいてほしい。

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初出:2019年5月31日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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