にゃるら 『承認欲求女子図鑑 ~SNSで出会ったヤバい女子たち~』 : 環境としての〈承認欲求〉
書評:にゃるら『承認欲求女子図鑑 ~SNSで出会ったヤバい女子たち~』(三才ブックス)
「承認欲求」をキーワードに、現在の流行文化の中で承認競争を闘っている、若い女性たちへのインタビュー集である。
先日、自伝的エッセイ集『僕はにゃるらになってしまった ~病みのインターネット~』のレビューで紹介した、オタク文化ライターの「にゃるら」による、ライターとしての仕事だ。
『僕はにゃるらになってしまった』は、「note」やTwitterにアップされた文章、つまり無報酬で好きに書いた文章をまとめたものだが、本書の場合は、ライターの仕事として、書籍化を前提になされたインタビュー集であるから、『僕はにゃるらになってしまった』とは、かなり趣きが違っており、その点では、少々食い足りなかった。
インタビュアーとしての「にゃるら」のスタンスは、当然のことながら「聞き出し役」であって、自分の意見は基本的に表明しないし、インタビュイーの意見を否定したり批判したりすることなど、当然ない。無論、内心では、いろいろ思うところもあるだろうが、それは「この仕事ですることではない」ということであろう。
説教めいたことを口にすることはなく、むしろ当然のこととして、相手の生き方を肯定し、おだてて、気持ちよく喋ってもらう、ということになる。
そんなわけで、どうしたって、にゃるら自身の「個性」は控えめで、本書の売りは「刺激的な業界裏話」的な部分になってしまう。
しかし、その点では、私はそれなりに「時代の風俗文化」や「新旧の若者文化とその精神史」的な本も読むようにしてきたから、内容紹介文や見出しから受けるほどのインパクトを、内容そのものから受けることはなく、「まあ、だいたいそんなところだろうな」という感じであった。
例えば、続編が出るほどの評判になった、ノンフィクションライター永沢光雄のインタビュー集『AV女優』(1996年)なども読んでいるが、こちらの内容は、次のようなものであった。
この内容紹介を見ていただければ、にゃるらによる本書『承認欲求女子図鑑 ~SNSで出会ったヤバい女子たち~』が、永沢光雄の『AV女優』の系譜に属する本、一一と言うか、直系の子孫であるというのは明らかだ。
永沢光雄が『AV女優』で読者に垣間見せた「流行文化の影の部分」が、時代の変化によって「色づけ」こそ変わっているだけで、基本的なところでは、さほど変わったという印象はない。
だから、本書『承認欲求女子図鑑 ~SNSで出会ったヤバい女子たち~』がどんな本かといえば、永沢光雄の『AV女優』に、以前レビューで取り上げた、社会学者・佐々木チワワの『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』を掛け合わせて現代化(同時代化)し、それを若者向けに、読みやすく「薄めた」もの、といったことにでもなろうか。
つまり、永沢光雄の『AV女優』は、かなり突っ込んだところまで話を聞いており、決してインタビュイーの話したいことを聞くだけでは満足せず、その奥をしっかりと聞き出しているし、そのぶん内容的に重くもなっている。
また、佐々木チワワの『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』の方は、社会学者の著作だから、フィールドワークとしてのインタビューは行ってはいるものの、そのあとに「分析」と「問題提起」が続いて、こちらもその意味では、社会問題を扱う「重い」著作となっている。
言い換えれば、にゃるらによる本書は、もともと、そこまでやる(突っ込む)つもりはなく、ただ「現代日本の最先端文化の闇の部分」を象徴するかのような若い女性たちの話を、彼女たちが話したいと望む範囲で話させ、それで良しとするものであり、それこそ、いかにも「イマ風」に淡白なインタビュー集となっているのだ。
例えば、本書には、こんな面白い会話が、そのまま収録されている。
非常に微妙な会話である。
言うまでもないことだが、本書でインタビューを受けた若い女性たちは、にゃるらが自分たちに理解のある「仲間」だという意識と親近感を持っている。だから、安心してインタビューも受ければ、思っていることを、比較的正直に吐露したりもしたのだ。
そして、にゃるらの方も、それは重々理解しているから、年長者じみた「助言」などしようとはしないし、それが無効なこともよく知っている。
それでも、彼自身、「経験者」として、心からの助言をしたいという気持ちはある。だから、軽い口調で、
と、自らをわざと「年寄り」めかし、冗談めかして言う。
ここでのポイントは『若いうちはいいけど』という、エクスキューズだ。
無論、にゃるらの本音としては「できるかぎり薬はやめたほうがいい。あとで大変になるから」ということなのだが、それは「世間のおじさん」でも言うことであり、そんな言葉は、彼女たちには届かないというのを知っているから、少しニュアンスを弱めて(薄めて)、『若いうちはいいけど』を付け加えた。
無駄だとわかっていても、言わずにはいられなかった、ということである。
しかし、その「助言」への反応は、予想どおり、
というもの。
無論これは、褒めているのでも感心しているのでもなく、「あなたも、おじさんと同じことを言うんですね」という、失望をからめた、暗になされた批判である。
そこで、にゃるらは、すかさず、
と、また冗談めかして、自分の「無駄な助言」を中和しておいて、さっさと話を進める。
という質問に対して、めりぴょんは「自殺するため」にやったこともあり、死にかけたという事実を吐露する。
すると、にゃるらは、
と、あえて「軽い口調」で、喜んで見せる。
すると、めりぴょんは、その言葉が「本音」から出たものであると思いたくて、あえて、
と「確認」するのだが、ここで、にゃるらは、
と、あえて「冗談」で、それをかわす。
つまり「さほど本気で心配したわけじゃない」というニュアンスを、あえて伝えたのである。
すると、めりぴょんは、その返事に、こう「苦笑」したのだ。
この「苦笑」が意味するのは、
「結局、自分のことは自分にしかわからない。君の痛みがわかるよなんて、軽々しく言うやつなんか、ぜったいに信用できない。その意味では、君が生きててくれて僕は嬉しい、なんて真顔で言わない、にゃるらさんは信用できるし、そんなにゃるらさんに甘えてしまった自分は、まだまだ甘いなあ」
ということなのである。
つまり、ここに表れているのは、今の若者たちの「人恋しさ」と同時に、「人と関わることでの、傷つきへの怖れ」だと言えるだろう。
この二つが「二律背反」するものであると知っていながら、それでも求めずにはいられない、若者たちの、矛盾した「傷つきやすい心」。
本書では「承認欲求」がキーワードとなっているが、結局のところ、「承認欲求」の問題とは、この「人恋しさと、人間関係における傷つきへの怖れ」の問題であるとも言えよう。
「承認」とは、「他者の評価を求めること」であり「人の好意を求めている」ということで、簡単に言えば「人恋しさの充足」である。
一方、「承認」を得るために、誰にでも使えるツールとしての「インターネット」は、その反面「人を傷つける(否認する)道具」という側面を持っている。
したがって、「承認欲求」を満たすために、彼女たちは何らかのかたちで「インターネット」を利用しているし、利用せずにはいられないのだけれど、まさにそのために、深く「傷つけられてもいる」のである。
「承認と否認」はワンセット、「人恋しさと傷つきやすさ」もワンセットであり、最も強く生きられる人間とは、「承認」もいらないし、特に「人恋しさ」も感じないような図太い人間だということになるのだが、「インターネット時代」においては、昔のように「放っておかれる」という機会が減少し、「承認されたくても、その機会がない」というような環境にもないから、今の若者たちは、「承認と否認」「人恋しさと傷つき」のフィールドで否応なく苦しむことを、宿命づけられているとさえ言えるだろう。
したがって、彼女や彼らに対して、「人の評価なんか気にするな。自分の好きなように生きれば良いんだよ」といったような「大人の助言」は、完全に無効なのだ。
だから、にゃるらは、あえて突っ込まないで、適切な距離を取ろうとする。
あえて、引き受けない、背負い込まない。一一それが、彼の考える、今の「優しさ」なのであろう。
無論、私は、これに「物足りなさ」を感じはする。
だが、ほかに「より良い」アプローチがあるのか、責任の取れるそれがあるのかと問われれば、「ない」としか言えないだろう。
永沢光雄の『AV女優』が描いて見せたような「直接的な人間関係の難しさ」だけではなく、今の若者たちは、昔にはなかった「間接的な人間関係の難しさ」をも抱えこんでいて、それは「直接的な人間関係」よりも、断ち切りがたい困難であるというのは、明らか事実だ。
「救いと苦しみ」「天国と地獄」が一体化してしまった時に、私たちは、何を求めたら良いのだろうか。
はたして、それをひとまとめにして「解脱する」ことなど、はたして可能なのだろうか?
その「正解」を持つ者など、たぶん、どこにも存在しないのであろう。
(2023年4月16日)
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