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にゃるら 『承認欲求女子図鑑 ~SNSで出会ったヤバい女子たち~』 : 環境としての〈承認欲求〉

書評:にゃるら『承認欲求女子図鑑 ~SNSで出会ったヤバい女子たち~』(三才ブックス)

「承認欲求」をキーワードに、現在の流行文化の中で承認競争を闘っている、若い女性たちへのインタビュー集である。

『 裏垢・クスリ・パパ活 SNS世代の女子たちの心の闇を覗き見る

Twitterで自撮りエロ写真を売ったり、裏垢でフォロワーとヤリまくったり、クスリに手を出したり、リスカを繰り返したり。認められたい! 目立ちたい! という承認欲求をこじらせた女子たちは、今日もSNSを徘徊する。そんなヤバい女子たち15人の話を聞き、その闇と生きざまを覗き見よう。
AV女優、声優、Vtuber、同人作家などオタク産業で活躍する女子たちにもインタビューし、それぞれのお仕事の本当のところを教えてもらった!

主な登場人物
●エロ自撮りをアップしまくる裏垢女子
●セックス依存症のオタサーの姫系女子
●男レイヤーを食いまくるコスプレイヤー女子
●性癖を活かしてリョナ漫画を描く同人女子
●現役AV女優かつ元地下アイドル
他多数!   』

先日、自伝的エッセイ集『僕はにゃるらになってしまった ~病みのインターネット~』のレビューで紹介した、オタク文化ライターの「にゃるら」による、ライターとしての仕事だ。

『僕はにゃるらになってしまった』は、「note」Twitterにアップされた文章、つまり無報酬で好きに書いた文章をまとめたものだが、本書の場合は、ライターの仕事として、書籍化を前提になされたインタビュー集であるから、『僕はにゃるらになってしまった』とは、かなり趣きが違っており、その点では、少々食い足りなかった。

インタビュアーとしての「にゃるら」のスタンスは、当然のことながら「聞き出し役」であって、自分の意見は基本的に表明しないし、インタビュイーの意見を否定したり批判したりすることなど、当然ない。無論、内心では、いろいろ思うところもあるだろうが、それは「この仕事ですることではない」ということであろう。
説教めいたことを口にすることはなく、むしろ当然のこととして、相手の生き方を肯定し、おだてて、気持ちよく喋ってもらう、ということになる。

そんなわけで、どうしたって、にゃるら自身の「個性」は控えめで、本書の売りは「刺激的な業界裏話」的な部分になってしまう。

しかし、その点では、私はそれなりに「時代の風俗文化」や「新旧の若者文化とその精神史」的な本も読むようにしてきたから、内容紹介文や見出しから受けるほどのインパクトを、内容そのものから受けることはなく、「まあ、だいたいそんなところだろうな」という感じであった。

例えば、続編が出るほどの評判になった、ノンフィクションライター永沢光雄のインタビュー集『AV女優』(1996年)なども読んでいるが、こちらの内容は、次のようなものであった。

『養父に犯された少女、音大生から転身したお嬢さま……
42人のAV界で活躍する女性たちの半生を描いた、12万部突破の伝説のインタビュー集。
1991年から96年にかけてアダルト・ビデオの世界で息をしていた少女たち。昨日のことのようで遠い昔のあの頃、一人の女の子が傷つき苦しみながらようやく辿り着いた場所。それがAV。一人の女の子が軽やかに笑いながら駆け抜けて行った場所。それがAV。そんな彼女たちの姿を炙り出した記録集である。

解説「人と出会うこと、話を聴くこと」大月隆寛

目次
冬木あづさ/吉沢あかね/希志真理子/藤岡未玖/森川いづみ/幸あすか/有賀ちさと/白木麻実/川村弥代生/沢口梨々子/姫ノ木杏奈/小沢なつみ/有森麗/卑弥呼/桜井瑞穂/片桐かほる/藤田リナ/沙羅樹/永嶋あや/安藤有里/風吹あんな/細川しのぶ/倉沢まりや/美里真理/水野さやか/日吉亜衣/南条レイ/桂木綾乃/森川まりこ/宏岡みらい/氷高小夜/白石奈津子/栗田もも/中井淳子/山口京子/観月沙織里/白石ひとみ/片山唯/刹奈紫之/松本富海/柚木真奈/川上みく』

この内容紹介を見ていただければ、にゃるらによる本書『承認欲求女子図鑑 ~SNSで出会ったヤバい女子たち~』が、永沢光雄の『AV女優』の系譜に属する本、一一と言うか、直系の子孫であるというのは明らかだ。
永沢光雄が『AV女優』で読者に垣間見せた「流行文化の影の部分」が、時代の変化によって「色づけ」こそ変わっているだけで、基本的なところでは、さほど変わったという印象はない。

だから、本書『承認欲求女子図鑑 ~SNSで出会ったヤバい女子たち~』がどんな本かといえば、永沢光雄の『AV女優』に、以前レビューで取り上げた、社会学者・佐々木チワワ『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』を掛け合わせて現代化(同時代化)し、それを若者向けに、読みやすく「薄めた」もの、といったことにでもなろうか。

つまり、永沢光雄の『AV女優』は、かなり突っ込んだところまで話を聞いており、決してインタビュイーの話したいことを聞くだけでは満足せず、その奥をしっかりと聞き出しているし、そのぶん内容的に重くもなっている。
また、佐々木チワワの『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』の方は、社会学者の著作だから、フィールドワークとしてのインタビューは行ってはいるものの、そのあとに「分析」と「問題提起」が続いて、こちらもその意味では、社会問題を扱う「重い」著作となっている。

言い換えれば、にゃるらによる本書は、もともと、そこまでやる(突っ込む)つもりはなく、ただ「現代日本の最先端文化の闇の部分」を象徴するかのような若い女性たちの話を、彼女たちが話したいと望む範囲で話させ、それで良しとするものであり、それこそ、いかにも「イマ風」に淡白なインタビュー集となっているのだ。

例えば、本書には、こんな面白い会話が、そのまま収録されている。

『「昔は歌舞伎町になんでも薬を出してくれるクリニックがあったんですけど、今は舐めた態度でいくと怒られるようになったので、今後はますます市販薬のブロンや金パブでのOD(※ オーバー・ドーズ=薬物の過剰摂取)が流行るんじゃないかと思っています」
「どちらも若いうちはいいけど、大人になってから副作用の重さを知るので、ODはよくないですね」
「わりと真面目なことも言うんですね」
 どうか読者の皆様も薬物の乱用をやめましょう。
「本になるんだから、一応ね。めりぴょんはODもしていましたか?」
「よくやっていましたね。ODしすぎて病院で胃洗浄までいきましたよ。睡眠薬最強とうたわれていたベゲタミンAをODしていました。芥川龍之介も同系統の薬で死んでらしいです」
「ODは自殺目的?」
「はい。自殺のためにやっていました。自殺未遂は何度も」
「それは大変だ。今こうして生きていてよかった」
「よろこんでくれますか?」
「生きてくれないと本に書けませんでしたからね」
「確かに(笑)。(以下略)」
(P29〜30)

非常に微妙な会話である。

言うまでもないことだが、本書でインタビューを受けた若い女性たちは、にゃるらが自分たちに理解のある「仲間」だという意識と親近感を持っている。だから、安心してインタビューも受ければ、思っていることを、比較的正直に吐露したりもしたのだ。

そして、にゃるらの方も、それは重々理解しているから、年長者じみた「助言」などしようとはしないし、それが無効なこともよく知っている。
それでも、彼自身、「経験者」として、心からの助言をしたいという気持ちはある。だから、軽い口調で、

「どちらも若いうちはいいけど、大人になってから副作用の重さを知るので、ODはよくないですね」

と、自らをわざと「年寄り」めかし、冗談めかして言う。
ここでのポイントは『若いうちはいいけど』という、エクスキューズだ。

無論、にゃるらの本音としては「できるかぎり薬はやめたほうがいい。あとで大変になるから」ということなのだが、それは「世間のおじさん」でも言うことであり、そんな言葉は、彼女たちには届かないというのを知っているから、少しニュアンスを弱めて(薄めて)、『若いうちはいいけど』を付け加えた。
無駄だとわかっていても、言わずにはいられなかった、ということである。

しかし、その「助言」への反応は、予想どおり、

「わりと真面目なことも言うんですね」

というもの。

無論これは、褒めているのでも感心しているのでもなく、「あなたも、おじさんと同じことを言うんですね」という、失望をからめた、暗になされた批判である。

そこで、にゃるらは、すかさず、

「本になるんだから、一応ね。」

と、また冗談めかして、自分の「無駄な助言」を中和しておいて、さっさと話を進める。

「めりぴょんはODもしていましたか?」

という質問に対して、めりぴょんは「自殺するため」にやったこともあり、死にかけたという事実を吐露する。
すると、にゃるらは、

「それは大変だ。今こうして生きていてよかった」

と、あえて「軽い口調」で、喜んで見せる。
すると、めりぴょんは、その言葉が「本音」から出たものであると思いたくて、あえて、

「よろこんでくれますか?」

と「確認」するのだが、ここで、にゃるらは、

「生きてくれないと本に書けませんでしたからね」

と、あえて「冗談」で、それをかわす。
つまり「さほど本気で心配したわけじゃない」というニュアンスを、あえて伝えたのである。

すると、めりぴょんは、その返事に、こう「苦笑」したのだ。

「確かに(笑)。(以下略)」

この「苦笑」が意味するのは、

「結局、自分のことは自分にしかわからない。君の痛みがわかるよなんて、軽々しく言うやつなんか、ぜったいに信用できない。その意味では、君が生きててくれて僕は嬉しい、なんて真顔で言わない、にゃるらさんは信用できるし、そんなにゃるらさんに甘えてしまった自分は、まだまだ甘いなあ」

ということなのである。

つまり、ここに表れているのは、今の若者たちの「人恋しさ」と同時に、「人と関わることでの、傷つきへの怖れ」だと言えるだろう。
この二つが「二律背反」するものであると知っていながら、それでも求めずにはいられない、若者たちの、矛盾した「傷つきやすい心」。

本書では「承認欲求」がキーワードとなっているが、結局のところ、「承認欲求」の問題とは、この「人恋しさと、人間関係における傷つきへの怖れ」の問題であるとも言えよう。

「承認」とは、「他者の評価を求めること」であり「人の好意を求めている」ということで、簡単に言えば「人恋しさの充足」である。
一方、「承認」を得るために、誰にでも使えるツールとしての「インターネット」は、その反面「人を傷つける(否認する)道具」という側面を持っている。

したがって、「承認欲求」を満たすために、彼女たちは何らかのかたちで「インターネット」を利用しているし、利用せずにはいられないのだけれど、まさにそのために、深く「傷つけられてもいる」のである。

「承認と否認」はワンセット、「人恋しさと傷つきやすさ」もワンセットであり、最も強く生きられる人間とは、「承認」もいらないし、特に「人恋しさ」も感じないような図太い人間だということになるのだが、「インターネット時代」においては、昔のように「放っておかれる」という機会が減少し、「承認されたくても、その機会がない」というような環境にもないから、今の若者たちは、「承認と否認」「人恋しさと傷つき」のフィールドで否応なく苦しむことを、宿命づけられているとさえ言えるだろう。

したがって、彼女や彼らに対して、「人の評価なんか気にするな。自分の好きなように生きれば良いんだよ」といったような「大人の助言」は、完全に無効なのだ。

だから、にゃるらは、あえて突っ込まないで、適切な距離を取ろうとする。
あえて、引き受けない、背負い込まない。一一それが、彼の考える、今の「優しさ」なのであろう。

無論、私は、これに「物足りなさ」を感じはする。
だが、ほかに「より良い」アプローチがあるのか、責任の取れるそれがあるのかと問われれば、「ない」としか言えないだろう。

永沢光雄の『AV女優』が描いて見せたような「直接的な人間関係の難しさ」だけではなく、今の若者たちは、昔にはなかった「間接的な人間関係の難しさ」をも抱えこんでいて、それは「直接的な人間関係」よりも、断ち切りがたい困難であるというのは、明らか事実だ。

「救いと苦しみ」「天国と地獄」が一体化してしまった時に、私たちは、何を求めたら良いのだろうか。
はたして、それをひとまとめにして「解脱する」ことなど、はたして可能なのだろうか?

その「正解」を持つ者など、たぶん、どこにも存在しないのであろう。


(2023年4月16日)

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