見出し画像

佐々木チワワ 『 「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』 : 一億総〈ぴえん〉化した日本

書評:佐々木チワワ『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』(扶桑社新書)

「ぴえん」という言葉が目を惹いた。見たことも聞いたこともない言葉だが、どうやら例によって、流行中の「若者言葉」らしい。で「ちょっと勉強に読んでみるか」と読んだところ、抜群に面白かった。

しかし、これは誰が読んでも面白いという話ではない。私が昨今、引っかかっていたこと、それに発する問題意識にピタリとハマった内容だったため、「目から鱗」の面白さだったのである。

どういうことかというと、例えば、今年「note」を始めてから何度か言及していることなのだが、「note」に「投げ銭」みたいなシステムがあったり、ど素人の文章に「課金」が設定されていたりといった、私に言わせれば「プロのライターごっこ」みたいなもの、あるいは「フォローをお願いします」みたいな「パトロン乞食」みたいなことを恥じない様子が、私にはじつに気持ち悪かった。

カネももらうのなら、プロになってからしろよ、というのが私の感覚だし、そもそもカネをもらうのなら、もらうに値する「中身のある文章」を書けよ(書けるように努力しろよ)と思うのだが、どうも「note」利用者の少なからぬ人が、そこに何の疑問も感じずに「どこかで聞いたような話(無料記事)の二番煎じ」を垂れ流していること、その域を出ていないことに、自覚もないから抵抗もないらしい。私は、そんなところに「違和感」を感じ続けていたのである。

画像11

じつは先日、フォロワーなのかそうでないのかも知らない方から、サポートとして500円を送ってもらったのだが、私はそもそも「サポート」というものがよくわかっていなかったし、ネットにアップした文章でお金をもらおうなんて思ったことがなかったので、その方へはお礼を述べた上で「でも、知らない方からお金をいただくのは落ち着かないので遠慮したいのだが、どうしたらいいのかな?」というようなレスポンスをお送りした。そしてあれこれ検索して、サポートを非設定に切り替えたのだが、はたしてこれは相手の方にも伝わっているのだろうか。
ともあれ、デフォルトでこんな設定になっていることすら私は知らなかったし、そもそも興味がなかったのである。

私はこれまでに何度か、文庫本の解説文など原稿料が発生する文章を書いたことがある。これは出版業界の友人が「これ、書いてみない」と、私好みの話を持ってきてくれたので引き受けたのだが、私はあくまでもアマチュアなので「原稿料はいらないけど、そのかわり好きに書かせてください」という条件で引き受けた。私にとっては、1回きりの数万円のカネよりも、自分の納得できる文章を書き、それを広く公けにすることの方が重要なので、そういう条件をつけたのである。要は、カネで買われて文章を書いたわけではない、ということだ。

それでも、原稿料をくれたところもあったし、あまり儲けが出そうにない本の場合は、原稿料の代わりにその本を10冊とかもらうことにした。そうすることで、少しでも売り上げに貢献できたようなかたちになるからだ。そもそも、売れてほしいと思わないような書籍に文章を書く気などないから、これは当然である。
「note」を始めた頃に、自己紹介がわりの文章として「私自身などどうでもいいんだけれど、書いたものは読んで欲しいので、自己紹介します。」というタイトルの記事をアップしたけれど、これは今も昔も変わらない、私の気持ちであり本音である。

とにかく、書いたからには、多くの人に読まれたい。これは「支持されたい」とか「褒められたい」とかいうことではない。「支持もされるし、反発もされる」で良いのだ。とにかく、多くの人に読まれ、多くの人の心に爪痕を残して、影響を与えたい、そのことで少しでも世の中を変えたい、というのが、私が文章を公けにする意図であり目的なのだから、カネのことなど、端から眼中にはないのだ。
万が一にも、端金に目が眩んで筆を曲げるなんて貧乏くさいことをすれば、それは恥ずべき本末転倒でしかなく、「カネなら本職で稼げばいい。文章書きは、徹底的に誇り高きアマチュアリズムでいく」というのが、私の考え方なのであった。

そして、そんな私には、「noteの多くのクリエイター」が気持ち悪く感じられた。
とにかく「読者に媚びまくり」「自分を売り込む」こと(つまり、風俗店の看板にも似たこと)を恥ずかしいとも思わないその感覚が、見ているだけでこっちが恥ずかしくなる、という感じだったのだ。

だが、本書『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』を読んで、そうした「今どきの気持ち悪さ」がどのようなところに由来するものなのかが分かり、かなりの部分で腑に落ちたのである。

画像1

 ○ ○ ○

本書著者の佐々木チワワは、大学で社会学を学ぶ現役大学生だが、15歳の頃から「歌舞伎町」に出入りしており、現在は、そのホームベースとも呼べる「歌舞伎町」の文化を研究し発信している。また、そうした記事が編集者の目に止まって雑誌連載、そして第一著作となる本書の刊行となったそうだ。
つまり、著者自身が「歌舞伎町界隈に生息する、今どきの若者」の一人だったのだが、それがそのまま「研究者」を兼ねる存在となった「二重性」の人だと言えるだろう。

「ぴえん」というのは、歌舞伎町界隈に集まる「今どきの少女たち」に流行している言葉で、ちょっと前に流行った「卍」と同様の流行語だが、その意味するところは、例によって幅広く流動的である。
Wikipediaには、基本的な意味として、

『ぴえんは、泣いているさまを表す擬態語。泣き声の「ぴえーん」を省略し、SNS上やメールなどのやり取りで「(涙)」の意味でより汎用性の高い言葉として使われる。悲しい時にも嬉しい時にも使用され、深刻さは伴わない。目を潤ませた絵文字(Pleading Face〈訴えかける顔〉、🥺)とともに用いられることが多い。』

などと説明されているが、ここでも『汎用性の高い言葉』とされているとおりで、この言葉をつかう若者たちの気分次第で、その意味するところは、かなりの幅を持つにいたっている。

画像2

だが、それでもごくごく大雑把に言うならば「ちょっと情けなくてヤバイ(すごい)」みたいな感じだろうか。
基本的には、肯定的な意味の言葉ではないのだが、否定的というわけでもなく、あまり積極的・肯定的でないところに価値を見出しているというニュアンスがあるようだ。

ともあれ、この言葉の意味については、本書を当たってもらうとして、私にとっては、この言葉自体は、それまでの「若者流行語」と同様に、ふーん、こんなのが流行っているのか、というほどの意味しかなかった。
ところが、そんな、歌舞伎町に集まる「ぴえん」な少女たちの行動として注目されるのが、「ホストクラブのホストへの推し」だというところで、私との接点が出てきたのである。

画像3

こちらは多くの人も知るとおりで、「推し」というのは、自分が他者に「(これはすごいよ、素晴らしいよ、と)推薦する」対象、あるいはその「推薦的バックアップ」行為の、双方を指している。
平たく言えば、その推薦称揚対象としての「推し」と、それにカネを遣う(投資)行為が「推し」なのだ。

最近で「推し」の対象と言えば、まず「アイドル」ということになるだろう。だが、ネットとスマホの普及にともない、「推し」のアイドルのコンサートに行ったりCDを買ったりするだけではなく、同じCDを何十枚も買ったり、関連商品をすべて買ったりと、要はその過剰な「金銭的投資」において、自身のファンとしての「ステータス」を誇示する行動が、近年の「推し」の世界では広がっており、「見えない気持ちではなく、見える金銭的投資」というのが、もはや恥ずかしいものではなくなっているのである。

画像4

(※  歌舞伎町のホストクラブは、現在バブルの真っ盛りだそうだ)

そして、歌舞伎町の「ぴえん」の少女たちは、その「推し」の対象をホストクラブのホストに求め、ホストに貢ぐために売春までもして、もはや「貢ぐためだけに生きている」ような者も少なくない、というのである。

さらに、これは貢がれるホストの方も同じで、ホストは客を気持ちよく飲ませてナンボという「接客業」と言うよりも、自分にカネを貢いでくれるファン(フォロワー)をどれだけ作れるかで、その「存在価値」が決まる、というようなふうになってきているのだそうだ。
要は、ホストが「神」であり、客の方が「奴隷的信者」といったような関係さえ発生しているのである。

画像6

(※  歌舞伎町「ART」のホストたち。「美形」ということでは、下手なアイドル以上である)

「カネを貢ぐことで、特別扱いをされて、自分の価値を確認する客」と「多くのカネを貢がせて、カネを稼げる者(フォロワーの多い者)こそが勝者であると考えるホスト」。
両者は、そうした自分に満足し、そのような生き方に疑問を感じることもなく、そうした価値観の中で、喜んだ苦しんだりしながら生きているのである。

画像10

(真鍋昌平『九条の大罪』より)

 ○ ○ ○

一方、私はと言うと、彼らの世界とは、およそ真逆の価値観に生きていると言えるだろう。
そもそも、酒は飲めても、自分では進んでは飲まないから、飲み屋だの風俗店だのには、昔からトント縁がない。そんなものにカネを使うのは馬鹿らしいとしか思えないからだ。

また、私は昔から「興味本位で、誰もがやることをやる」ということはなかった。
例えばタバコも、ふざけて一度くらいは、親のそれをふかしたことはあっても、タバコを吸いたいとは一度も思わなかった。なぜなら「煙を吸って、どうするのだ。体に悪いに決まっているし、それにカネをかけるなんて、どう考えても馬鹿のすることだ」と、かなり早い時期から考えていた。

このように、私は「自分の価値観」というものを、かなり早い時期からハッキリと持っていたのだが、こうした私の根底にあるのは「他人と同じことはしたくない。人の真似はしたくない」という、「個性」崇拝である。
「俺は、俺でしかない、オンリーワンとしての価値ある人間になりたい」と思っていたから、安直に人真似をして「粗製濫造の複製品」になる気など毛頭なかった。流行歌の歌詞に慰められるまでもなく、私は、特定ジャンルにおける「ナンバーワン」ではなく、真の「オンリーワン」になりたかったのである。

だから、流行しているものについても、自分の「美意識」に照らして「これは面白い」「これは下らない」と判断した上で取捨選択してきた。
つまり、流行には、基本的に「懐疑的かつ警戒的」であり、流行っているという理由だけで飛びつくようなことはなかったし、それに価値を認めても、それは「世間のフィルター」を通しての評価ではなく、あくまでも「私個人のフイルター」を通した上での評価であって、その場合それは、すでに「私のもの」であり、「他人のそれとは違うもの」だったのである。

そして、私は、そんな自分を、特に「個性的」だとは思っていなかった。むしろ「これといった、誇るべき個性」が無いからこそ、世間に流されて「その他大勢」にはなりたくないと、常に考えてきたのである。

40歳くらいの頃だったか、高校3年時クラス会があった。卒業の翌年に開かれて以来の、二度目の同窓会である。
同窓会役員が、やる気のないやつだったので、そんな具合だったのだが、私自身は、高校生当時から、二人の親友以外には、ほとんど付き合いもなければ興味もなかったので、同窓会がなくてもぜんぜん平気だった。そもそも、その親友たちであっても、めったに連絡など取らなかったのである。
私は基本的に、「群れ」るのが嫌いで、祝祭などの「大騒ぎ」や「非日常」が好きではなかった。それは「逃げ=現実逃避」だと感じられていたのであろう。

ただ、20年も経てば「みんなどうなっているのだろう」という興味があって参加したのだが、端的にいって「つまらないオジサンオバサン」ばかりにしか見えず、うんざりしてしまった。
私の友人というのは、基本的に、選りすぐりの「濃い」人間ばかりなので、会話も普通に「濃い」。ありきたりの話題をありきたり話すなんて退屈なことはしなかったので、同窓会は、退屈きわまりなくて、つまらなかったのだ。

しかし、この同窓会でも収穫はあった。担任だった先生に「あの頃の私は、どんな子供でした?」と質問して「あんたはね、何って言うか、どーんとかまえてたわね」みたいな回答をもらえたことだ(こんな質問をする者も、めったにいないだろうが)。
自分としては「普通のオタクな男子高校生」のつもりだったから、「太々しい」なんて自覚など毛頭なかったのだが、たぶん、徹底したマイペース、(勉強も含めて)興味のないことには見向きもしないといったところが、そういう印象を与えたのではないかと、それなりに納得できた。一一やはり「栴檀は双葉より芳し」だったということであろう(笑)。

 ○ ○ ○

で、そんな私からすると「他人に貢ぎ、そのおかげでチヤホヤされたって、そんなもの偽物なんだから、無意味だろう」としか思えないし、一方「カネなんか、欲しいものがそこそこ買える程度に稼げればいいのであって、カネを稼ぐために、すべての生活をそれに傾注するような生き方は、本末転倒だろう」としか思えない。そもそも「人間、カネだけでは幸せになれない」と本気で思っている(例えば、カネで本は買えても、読書する「時間」は買えないし、「読解力」も買えない)。

例えば、宇宙へ行った前澤友作なんかを見ていても「この殊更な幸せアピールは、満たされない人特有のものだな」という感想しか持てない。人間、本当に満たされれば、ことさら他人の前に出て、自分の存在価値をアピールするなんてことはしないと思うからだ。

画像6

(※  記事『前澤友作さんが宇宙旅行を批判してくる人達を一蹴!「自分で頑張って稼いだお金で夢をかなえるのは全然オレはいいと思う」』より。当たり前のご意見である)

つまり、私にすれば「ぴえんの少女たち」も、客に貢がせて大金を稼ぐ「ナンバーワンホスト」も、宇宙まで行ってバトミントンをする前澤友作も、同じように「寂しい人」に見えるのだ。
「なんでそんなに、他人からの承認が欲しいの? 自己承認できないの?」と。

人間、いかに他人から見下されようと馬鹿にされようと、自分が本気で満足していたら、それで完全に「幸せ」なのである。他人から、見下されているんじゃないかとか、馬鹿にされているんじゃないかなんて、殊更に気にするから、不幸になる。
他人の評価が気にならなければ、おかれた状況がどんなに過酷なものだろうと、人間は主観的には幸せなのだし、幸せとは、そもそも主観的なものなのである。

しかし、人は、どうしても「他人の目」を気にしてしまう。それは当然だろう。いくら「自分さえ幸せだと思えば幸せだ」などと言っても、まともな人間には、自分を客観視する能力があり、それがあるから生きてもいけるのだから、完全な自己満足は、主観的には幸せであろうが、それだけで生きていくことはできないのである。

つまり、幸せに生きるためには「適切な客観性を保持しつつ、自身を肯定できるメンタルの強度」が必要だということになるのだが、この両立というのが、なかなかうまくいかない。そのために、「客観的幸せ」を求めてひたすら「他人からの承認」を求め「地位やカネ」を追求して追い立てられるような人生を生きたり、逆に、主観的な幸せを求めて「宗教」や「薬物」に走って身を滅ぼす人もいる。

なんで、もう少し「普通」に「適度」に「バランスよく」やれないのかと思ってしまうのだが、結局のところ、その原因は、およそ選択不能な、「親ガチャ」的「生育環境」の問題に帰着してしまうようだ。
つまり、幼い頃に親からの愛情を十分に受けられず、基本的な「自己肯定感」を育めなかった人は、いくつになっても根本的な「不安感」を抱えているがために、他者からの「目に見える承認」を求め続けてしまうのである。

実際「ぴえん」の少女たちには、そうした「家庭環境に問題がある」子が多いし、「稼ぎやフォロワー数」がアイデンティティだといった感じの「ホスト」たちも、似たような問題を抱えている者が多いようなのだ。
つまり、彼女・彼らは、「共依存」関係にある、と言えるのかもしれない。

彼女・彼らにしろ、前澤友作のような「走り続ける社会的成功者」しろ、彼らに欠落しているのは「そこそこで満足する」という感覚である。
「そこまでやらなくても、すでにもう十分、幸せじゃないか」とか「あんまり頑張りすぎてもシンドイだけだし、楽しむ暇がないのでは意味がない」なんてことを、彼女・彼らは考えられないようだ。そういうのは「負け組の妥協」としか映らないのであろうし、そういう側面も確かにあるのだろうが、しかし「そこまで頑張るのは、やっぱりビョーキだよ」としか、私には思えないのである。

私が「宗教」や「哲学」を研究する中で到達した人生観とは、これまでにも何度か書いているとおり「この宇宙には、もともと意味はない。もともと善も悪もなく、美醜もない。ただ、生物として発生し、生き残っていく中で、その必要性から主観的な価値観が形成されただけである。しかしまた、そのような状況依存的な価値観や美意識だとは言え、それを持ってしまった以上は、その価値観において、美しいと感じる価値観に生きるのが、最も幸せという意味で、最も正しいのではないか」といったものである。

画像7

(※  前澤友作は、宇宙から地上を見下ろしはしても、宇宙が見えてはいなかったのではないだろうか?)

例えば「他人の幸せのために苦労をする」というのは、究極的には無意味だけれど、少なくとも自分自身には「満足」がある。さらにその満足とは「苦労という苦痛」を対価として支払っても余りある喜びであり、単なる「快感」などではないのだ。単なる「快感」は、「不快感」によって、容易に打ち消されるが、もともと「快感」ではなく「苦痛」を求める中での「喜び」は、そう簡単には打ち消せない強度を持っているからで、だからこそ人は「理想のため」「信仰のため」に、死ねるのである。

私は、このような「幸福観」を持つ人間なので、だから「承認願望の強い人」というのは、あらかじめ「不幸になることの決まった人」としか思えない。要は「食べても食べても腹が膨れない、餓鬼地獄」に生きているようなものなのだ。

だから「なんで、そこまで求める」と思ってしまうのだが、しかし、それが「生育環境」によって「あらかじめ設定されていたもの(強迫的衝動)」なのだとすれば、それはもう救いようのない不幸としか言いようがないので、なんとも残念な気持ちになってしまう。
「そんなに頑張らなくてもいいんだよ」と諭してあげることで、その人が幸せになれるのなら、私は、喜んでそう言ってあげるのだが、どうやら、ことはそんなに簡単ではないようなのだ。結局のところ、彼女・彼らは「わかっちゃいるけど、止められない」という、言わば「呪われた人々」だからである。

 ○ ○ ○

このように考えてくると、「note」において、ひたすら読者に媚びることで「承認」を求める人も、「私はこんなに役に立ちますよ」とアピールして「承認」を得ようとする人も、結局は、前澤友作に似ているとも言えるし、「ぴえんの少女たち」や「ホスト」たちと同じような、不幸な人たちだとしか思えない。

勝手に「不幸な人」呼ばわりするなというご意見も多かろうが、私にはそう感じられるからそう書いているだけで、何もそれが「客観的事実」だなどとまでは言わない。
だが、私のこの立論に「なるほど」と思う人もいるだろうから、参考までに書いているだけなので、「自分は違う(該当しない)」と思う人は、私のこの立論を無視すればいいだけの話なのである。

そんなわけで、話は「noteの人々」に止まらず、最近、私が話題にした「炎上事件」のひとつ、「TikTokerけんごと、そのファン(支持者)」の場合も同じだと言えよう。

要は、けんごのファンは、「推し」であるけんごのファンであることによって「安心」を得ているからこそ、けんごへの批判は、何が何でも許せないのである。

つまり、けんごとは、ファンたちのとっての「貢ぐべき、推しホスト」みたいなものなのだ。
具体的な金銭関係はなくても、本書にも書かれているとおり、歌舞伎町のホストの価値観である「ファン(フォロワー)を増やしてナンボ」というのと同様の価値観で、けんごは生きているのであり、ファンは、そんなけんごが「ナンバーワン」になることで、間接的に、社会に「承認」されていると感じられるのである。

画像11
画像12

言うまでもなく、これは「SFマガジン〈幻の絶版本〉特集中止問題」などで扱った、「SFプロトタイパー」でSF作家の樋口恭介や、そのファン、あるいは、広く「SFファン」や「本格ミステリファン」の問題にも通じる話であろう。

私は「SFマガジン〈幻の絶版本〉特集中止問題」を扱った記事の中で、「西野亮廣のオンラインサロン」などに見られる「新宗教」的な性格が、樋口恭介の価値観にも通じるところがある、と指摘した。

画像12

要は「夢を見させる推しホストと、その客であるぴえんの少女」あるいは「教祖とその信者」的な関係が、「西野亮廣のオンラインサロン」だけではなく、西野と同様「クラフトファンディングで制作資金を募るクリエーターとその支援者」はもとより「樋口恭介とその周辺のSFファン」や「TikTokerけんごとその支持者」にも当てはまる。

そして、そこに止まらず、そもそも「SF読み」であること「本格ミステリマニア」であることに、アイデンティティを賭けているような「マニア」たちも、基本的には「アイドル推しのファン」と、何の違いもないのではないか、と思うのだ。

要は、「ある特定の(ごく狭い対象としての)何か」を「特別なもの(選ばれて優れたもの)」だと信じ、それに執着することで、自分までもが「その価値がわかる、特別な人間」であると信じようとするような人たちだ。

だが、普通に考えて、この世界には「ありとあらゆる種類の価値」と「価値観」があって、「これが一番すばらしい」などと考えるのは、いかにも愚かなことだ。

普通にものを見ることができるのなら、嫌でも「いろんな価値の存在」に気付かざるを得ず、それに気づくならば、多様多数の価値の比較検証なしに「これが一番すばらしい」などと言えないのは自明であろう。
なのに、それが言えてしまう、分かりやすい「視野狭窄」は、その人が、他の価値から目をそらし続ける「あらかじめ自信のない人間」である証拠としか、考えられないのではないだろうか。

つまり、私が常々「気持ち悪い」と感じるものに共通するのは、その「承認願望の強さ」であり、さらには、それを生み出している「自信(自己肯定感)の無さ」であり、つまりは「本質的な救われなさ」なのである。

今や、右を向いても左を見ても、「世間から承認される」ことだけを願って、必死になっている人たちばかりである。
これは前述のとおり、インターネットとスマホの普及の問題が大きいのだろう。
知らないでもいい情報を知り、知りたくもない情報を知り、比較したくもないのに、比較し比較されてしまうといった状況によって、人々は駆り立てられ追い立てられているのではないだろうか。「世界の片隅で、平々凡々と生きる」ということが許されない、一種の「監視地獄」である。

この状況から降りられれば、かなりの部分、幸せになれると思うのだが、それがなかなかそうはいかない世界になってしまっているのだったら、多少なりともそうした世界の外部にいる「勝ち誇った負け犬=負け犬呼ばわりを恥じない勝者」の私にできることは、何もないということになるのだろうか。

「お前になんか言われたくない」というのは、よくわかる。だが、私は、言いたいのである。
相手にどう思われようが「あなたに、少しでも幸せになってほしいのだがなあ」と言わずにはいられないのだ。

今どきの「満たされない人々」の姿が、本書では「ホストと、押しホストに貢ぐぴえんの少女たち」というかたちで、見事に形象化され、「日本の象徴」にすらなり得ているのではないか。

だからこそ、「歌舞伎町の最先端文化」になんて興味がないよという人にも、ぜひ本書を読んでほしい。
ここには、今の日本の縮図があり、そしてそれは、決して他人事ではないからなのだ。

(2021年12月31日)

 ○ ○ ○








 ○ ○ ○


 ○ ○ ○























この記事が参加している募集

読書感想文