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つくみず 『シメジ シミュレーション 03』 : 夢の中での〈幸福や友情〉

書評:つくみず『シメジ シミュレーション 03』(MFC キューンシリーズ・KADOKAWA)

本第3巻で、物語は大きく動く。

第1巻では、ひきこもりから復学した「しじま」が、しじまに積極的に接近してきた「まじめ」ちゃんと友達になり、夢の中とも思える無人の団地で巨大生物に襲われる危機から、まじめちゃんに救われるといった非現実的な経験をする。
私は、こうした展開から、ここに描かれた世界は「ひきこもりのしじまが見ている夢」の世界ではないかと推理した。したがって、夢の中の親友に癒される過程を経て、しじまが生きる力を回復させて、ふたたび現実に目覚めるところで終わる物語なのではないか、と先読みした。

ところが、第2巻になると、まじめちゃんとは別に、しじまの周囲にユニークなキャラクターが次々と登場してくる。
中でも、しじまたちの学校の美術教師である「もがわ先生」は、「教師」という「堅い仕事」に不適応を起こし、また「無意味な作品しか作れない」ということに悩んでいる、アルコール依存症のうつ病み的な人なのだが、第2巻では、主に、そんなもがわ先生の「乗り越え」が描かれていると言って良いだろう。一一だが、これもまた、しじまが社会復帰するための、夢の中での経験に過ぎないのか、それとも、もがわ先生固有の経験なのだろうか。

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第1巻では「しじま個人の夢」を疑わせた世界が、この第2巻では明らかな広がりを見せはじめている。作者は、一体どのような世界を描こうとしているのだろう。

 ○ ○ ○

(※ 以降、第3巻の内容に触れますので、未読の方はご注意ください)

第1巻から登場している「しじまの姉」は、いつもメガネに白衣姿で、家で何やら科学的な研究開発を行なっており、この不思議な世界の構造にも関わっているような口ぶりである。
だが、それも「夢の中の人物」の言動と考えるならば、実際にこの「夢のような世界」に「外」から働きかけている、夢から独立した存在ではなく、あくまでも「夢の中の人物が、その夢の中で、その世界を語っているに過ぎない」という「夢の一部」なのかもしれない。

前巻第2巻では、ユニークな登場人物たちが次々と現れて、世界が拡張する展開を見せたが、本巻では「ある朝、校舎がいきなり縦(横)になっていた」り、「暑いのは嫌だと言っていた真夏日の翌日が、いきなりドカ雪で埋まる寒い真冬日になっていた」り、「何かを伝えようとした意思や気持ちや感情が実体化して宙に浮かんだり」、「水が、無重力空間におけるそれのように、空中に固まって浮かんだり」といった、実害はないものの、不思議な現象が次々と生起する。

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それに対し、おかしくなった世界を、魔法の杖で修繕する「庭師のようなもの」を名乗る不思議な少女が、「世界が、ルールを逸脱しはじめている」という趣旨のこと言って、苛立ちを募らてみせる。

「不思議な現象の頻出」に対し、しじまとまじめちゃんが夏休みの宿題として「あちこちに出現する、不思議な石の構造物」の研究を進めていたところ、そんな石の構造物の中から、いきなり、しじまの姉が現れて、この世界は、複数の人の夢の世界を組み合わせて彼女が作ったものであり、現在のこの世界の変動は、彼女が企てたことであるといった趣旨の、何やら難しい説明をする。

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そこへ、件の「庭師」の少女が現れ、しじまの姉の試みを非難し、その世界改変を止めようとするが、しじまの姉は、もともとこの世界は自分が作ったものであり、「庭師」の少女は、この世界が恒常性を保とうとするために生み出した、所詮はこの世界の一部でしかないから、この世界の創造者と言っていい、自分(しじまの姉)の世界改変の試みを止めることはできない、と告げる。

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「庭師」の少女は、しじまの姉には勝てないことを悟ったのか、「やめろ… …やめてください…」と、口調まで変えて懇願するが、しじまの姉は「あんたには…すまない/(※ だが)人間はより自由を求める生き物だ/想像力と可能性を手にしたその日から…」と言い、続けて「…私は間違っていない」と躊躇を漂わせつつも、その世界改変の意志を示す。

しじまの姉の言葉に恐れを感じたまじめちゃんは、しめじに「手! 手をつなご!」と手をさしのべるが、そこでしじまは、自他の記憶が交錯する虚空間に投げ出され、そこで、登場人物たちの記憶の断片を見、そして自身と姉の「幼い頃の記憶」を見る。その「記憶」の世界では、二人は周囲の人々から浮いていて、いじめに遭っていたようだ。

「過去」を見た後、しじまと姉は、二人だけで、パルテノン神殿らしきところにいて、次のような会話を交わす。

「ねえお姉ちゃん」
「なんだ」
「この世界がずっと自由になって…なんでもみんなの思い通りになる世界なら… もう悲しいことはなくなるのかな」
「………… ………… …それでも悲しいことは起こるだろう……たぶん」

 (P126〜127)

また、しじまは、いつものようにベッドで目を覚ます。
けれども、自宅の周囲の景色は変わっており、いつものようにしじまを迎えに来たまじめちゃんは、浮遊する巨大なトウモロコシのかたちをした乗り物に、当たり前のような顔をして跨っている。

そして俯瞰描写の遠景にのぞく学校は、巨大な魚の形をしており、まじめちゃんは、当たり前のようにしじまに問う。
「今日の学校はどんな形だと思う…/星型とか…」
それに答えてしじまは言う。
「私の予想はね…キリン!」(P128〜130)

二人とも、この世界をすっかり受け入れている。もう、世界が改変される前の記憶はないのだろうか。

記憶があれば、この世界が偽物としか思えないだろう。だとすれば、この世界で本当の安心を得ることは不可能だ。
だから、二人は記憶を消されているのだろうか。いや、この世界の住人は、しじまの姉以外は、すべて記憶を消されているのだろうか。

果たして、それでいいのか。

ただ、ひとつ言えることは、しじまの姉が、この世界を統べるために、記憶を保持しているのだとしたら、少なくとも彼女だけは「安住の地」を得ることはできないだろうということだ。そして、それを知っているしじまは、記憶を消されるまでは、そんな姉の「不幸」を気づいているはずで、ならばしじまは、そんな自分の記憶まで消されることを望むだろうか。
もしも、望まないのだとしたら、望まないのに、姉はしじまの「幸せ」のために、しじまの記憶を消したということになるのだろうか。それで得たしじまの「幸せ」は、「幸せ」と呼べるのだろうか。少なくとも、そこにしじまの「自由」は無いのではないのか。

 ○ ○ ○

この世界を、どう理解すればいいのだろう。

しじまの姉が、科学技術的に創造した「共同夢の世界」だと、一応は考えられる。
しかし、そこでは、しじまの姉以外の者の「意志」は、どのような扱いになっているのか。

現実の記憶を消されて、ただ、その「自由で大過のない世界」で、ふわふわと生かされているだけなのだろうか。人々の願望を集約的に構成した世界だから、どこからも苦情は出ないので、それでいい、というような世界なのだろうか。

いや、しかし、すべての人が満足する世界など、そもそも構成不可能なのは、前記の姉妹の会話にも明らかだ。

だとすれば、この世界に集められているのは、ある程度「共通した願望」を持っている人たちなのだろうか。
そうした人たちを、しじまの姉は一方的に選抜したのだろうか。それとも、望んで、しじまの姉のプロジェクトに参加した人たちであり、ただ、この世界の中では、そのことを忘れているだけなのだろうか。

前述した、しじまと姉の「記憶」では、明らかに姉妹は、その「現実らしき世界」において、疎外されており、しじまの姉はその世界からの脱出を画策していたようである。つまり、しじまの姉は、自身と妹をその世界から救い出すという明確な意志を持っていたようなのだが、記憶の中でいじめに遭っていたらしい幼いしじま自身は、果たしてそのような明確な意志を持っていたのだろうか。

本書で語られるしじまの姉の思想は「誰にも束縛されることなく、自分の望む世界に生きる権利が、人間にはある」というもののようだ。それを彼女は、その天才的な頭脳によって実現して見せたのかもしれない。

しかし、その世界は、どうやら彼女一人の世界ではないようで、少なくともしじまが巻き込まれているというのは間違いないし、まじめちゃんも同様のようだ。そのひとつの証拠として、本巻には特に注目すべき描写がある。

登校時、大雪のせいで遭難しかけた、しじまとまじめちゃんが、即席のかまくら(雪の穴倉)の中で一息ついて、うたた寝をしてしまった際、まじめちゃんの方が「しじまになった夢」を見るのだが、そこでの「一人称」での語りが、それだ。

「私はしめじちゃんに
 なっていた」

「暗くてよくわからない…
 狭い場所にいた」

「ここはどこだろう…
 でも知っている
 外で誰かの声がして
 不意に寂しさに切なくなる… 」

「だけど私はまだ
 ここから出たくない
 そんなに呼ばないで…
 私はこのままで
 いいから… 」(P25)

まじめちゃんの夢の中のしじまは、どこか暗くて狭い場所にひきこもっている。彼女を外へと呼び出そうとする声も聞こえているが、彼女は「まだ」外へは出たくない。少なくとも、今はまだ「ここ」にいたい。

この、まじめちゃんの見た「夢」は、単なるまじめちゃんの「夢」なのか。それとも、横でうたた寝をしていたしじまの「ひきこもり時代」を、夢に見たのか。あるいは、今、まじめちゃんの横でうたた寝をしているしじまの、現在の秘められた気持ちを語る夢なのか。つまり、ひきこもっているのは、過去の話ではなく、現在なのか。

これまでは、しじまの主観から描かれてきたまじめちゃんだったが、このシーンで初めてその「内面」が描かれ、彼女が単なる「しじまの夢の中の親友」ではなかったことを示している。いや、そのように読める。

しかし、さらに深読みをすれば、このシーンは「夢の中の友達が見ている夢を、夢に見ている」だけなのかもしれない。
あるいは「夢の中の親友」が、夢の中において「内面性」を持ち始めたのかもしれない。

そもそも私たちは、現実であろうと夢であろうと、他人の中の「内面性=心」を、直接確認することができない。
どんなに人間的に振舞おうと、どんなにリアルに感じられようと、そこにいる人が「確実に心を持っている」とか「夢の中の登場人物ではない」などと確認する手段を、私たちは持たない。
あくまでも「ここまでできれば、心がある」あるいは「夢ではない」と考えて良いという基準を設定して、それにより「心の存在」や「他人の実在性」を「認定する」しかないのである。また、そうした意味で、私たちはいつでも、それぞれの内面に閉じ込められた存在だと言えるのかもしれない。

「自由」であるとは、もしかすると「不自由であることを自覚できないこと」であるのかもしれない。

第3巻のラストで示された、しじまやまじめちゃんにとっての、あるいはしじまの姉にとっての「より自由な世界」とは、本当に「自由な世界」なのだろうか。一一いや「本当の自由」と「偽の自由」の区別などつくのだろうか。

以降の展開が、まずます期待される。

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(2022年3月4日)

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