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長崎ライチ 『ふうらい姉妹』 論 : 「自由」であることの〈非現実さ〉

書評:長崎ライチ『ふうらい姉妹』全4巻(ビームコミックス・エンターブレイン)

本作は、2017年に最終の第4巻が刊行されて、すでに完結している作品である。
そんな作品を、完結後4年を経た今ごろになって論じようというのは、先日たまたま手に取った、長崎ライチの新刊『紙一重りんちゃん』に衝撃を受けて、過去の作品にさかのぼって読んだ結果である。

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『紙一重りんちゃん』へのレビューで、私は長崎ライチを『優しい〈鬼才〉』と読んだけれども、『りんちゃん』原型と呼んでもいいであろう本作『ふうらい姉妹』もまた、その「鬼才」ぶりを遺憾なく発揮した、傑作と呼んでいい作品であろう。

『ふうらい姉妹』へのAmazonレビューをざっと見ていただければわかることだが、多くの人がこの作品における「笑い」を「シュール」だと評している。
そして、その「シュールさ」を楽しめる人は「面白い」「癒される」と評し、愛を込めて姉妹を「阿呆」と呼んでいる。一方、その「シュールさ」が楽しめなかった人は「笑えない(面白くない)」と評している。

なぜ、姉妹の「シュールなまでの阿呆さ」を、笑える人と笑えない人がいるのだろうか。
私は、それを、その読者の持つ「笑い」というものの、性質の違いにあるのではないかと思う。

姉妹の「シュールなまでの阿呆さ」を笑える人というのは、決して姉妹を「馬鹿」にしたり見下したりして、笑っているのではない。姉妹の「シュールなまでの阿呆さ」を笑える人の「笑い」とは、「共感の笑い」なのではないだろうか。

つまり、姉妹の「常軌を逸した」と言ってもいいほどの「阿呆」さは、一般的な「ギャグ」に見られる「酷薄な現実に対する関節外し(現実的な論理を脱臼させる、批評批判的で対抗的な技法)」とは違って、「常軌としての現実の論理を相手にしない(対抗しない)自由さ」なのである。

だから、現実生活の中にある「息苦しさ」「残酷さ」といったものを感じて、体と心を強張らせて生きている人は、姉妹の「阿呆」な生活を見て「癒される」のではないだろうか。「阿呆」な姉妹から、「そんなに無理しなくて良いんだよ」「人の目なんか気にすることはない」「もっと自由に生きて良いんだ」といった励ましのメッセージを受け取っているから、「安心」し「リラックス」して「笑う」ことができるのではないだろうか。

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一方、姉妹の「シュールなまでの阿呆さ」を笑えない人というのは、無意識に、現実生活の中にある「息苦しさ」「残酷さ」といったものに「対抗」しているのではないか。そのため、「笑い」というものが「攻撃」の一種としての「笑い飛ばす」「あざ嗤う」になっていて、その視点からすると、ふうらい姉妹の「阿呆」さは、そうした「対抗としての笑い」ではなく、純粋な「阿呆であることの肯定」であるために、「これは違う」「これは求めていた笑いではない」と感じ、文字どおり「笑えない」し「面白くない」と感じるのではないだろうか。「こいつらは、何をやっているのか?」という「理解不能性」をそこに見、その「シュール」さが、「笑い」の対象と言うよりも、むしろ「不気味」にすら感じられるのではないだろうか。

つまり、姉妹の「シュールなまでの阿呆さ」を笑えない人というのは、たぶん「この現実」と同じ土俵に立って、「息苦しさ」「残酷さ」を持つ「現実」の猛攻を、いなしたり交わしたりして、必死に戦っているのであろう。

ところが、ふうらい姉妹が示しているのは、そうした「現実」と戦わないということ、相手にしないで、自分のペースを貫いて生きていく、ということなのではないだろうか。だからこそ、その「ステージの違い」によって、「現実の舞台(土俵)」で戦っている人たちには、ふうらい姉妹の「生き方」が理解不能なのではないだろうか。

ふうらい姉妹の生き方を、もっとも端的に示したエピソードとして、私は第3巻所収の「第34話」を挙げて、注意を喚起しておきたい。
このエピソードは、通常の4コマ連作ではなく、10ページの短編作品で、テーマは「遠足」である。

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姉妹の妹しおりが、楽しみにしていた遠足のために登校すると、クラスメートの男子である「とうとつくん」が、なぜか女の子のフリフリのドレスを着て登校してきた。そんなとうとつくんを見てしおりは「もしかして 何かの日と 間違えた?」と尋ねると、とうとつくんは「間違ってないよ」と平気な顔をしています。それに対し、しおりが「それにしても なんて素敵なフリフリ♡ 最高に似合っている」と素直な賞賛を伝えると、とうとつくんも「ありがと!!」と素直に喜びます。

しかし、真面目な先生は、とうとつくんのこの奇矯な行動の意味が理解できず、とうとつくんに「なんで遠足にフリフリなんだ」と尋ねると、とうとつくんは「男子はみんな 一生に一度はドレスを着てみたい そんな願望があるよね その一生に一度というのが たまたま今日だったんです」と答える。
この説明に、しおりは「そうだったんだ」と納得するが、先生は内心で「え一」と驚くだけだった。

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そのため先生は、その行為を「裸で街を歩く」のと同じようなことだと考えて、とうとつくんに「その格好で遠足はダメ!! ひとり残って図書室で自習!!」と命じる。
すると、別の生徒が「先生 あいつの格好はOKなんですか?」と指差す先には、アニメのロボットのようなアーマード・スーツを着た生徒がいたので、先生は即座に「図書室行き!!」を命じますが、その生徒が「えー じゃあ田中さんだって」と指差す先には、歌舞伎の鏡獅子の扮装をした生徒。そしてそれではおさまらず、3メートルもありそうなジェット機のコックピットに搭乗したパイロット姿の生徒まで…。

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先生は次々と「図書室行き!!」を命じ、おかしな扮装の生徒たちはぞろぞろと図書室の方へ移動し出し始めるのだが、それを見ていたしおりは、ハッとして「私 あっちのグループがいい!! 図書室一一」と叫んで、おかしな扮装をした生徒たちのあとを追う。それを見て先生が「こらっ ダメです」と呼び止めようとするが、しおりは「山とか どーでもい〜」と叫んで、図書室の方へ駆け去ってしまう。 (第3巻・P65〜74)

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このエピソードは、とてもわかりやすく、作者・長崎ライチの描きたかったものを示している。
要は「普通である必要などない」ということと「その是非を議論する気はない。私は、好きな方を選ぶ。たとえそれが、決まり切ったコースを外れることだとしても」ということであろう。つまり、ふうらい姉妹は、「馬鹿」だから「常識はずれ」なのではなく、「常識はずれ」だから「阿呆」なのである。「阿呆」こそが、自分で「自由に選んだライフスタイル」だったのだと言えるだろう。

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それにしても、『ふうらい姉妹』というタイトルは、かなり奇妙だ。

私が他で「ふうらい」という言葉を知っていたのは、せいぜい「風来坊」くらいのもので、他にどんな用例があるのか、まったく思い当たらない。
実際「ふうらい」は、「風来」か「風雷」くらいしか、当てはまる熟語がなく、たぶん『ふうらい姉妹』の場合は「風来」の方だと見て間違いないのだが、では、その「風来」の意味はというと、

『ふう‐らい【風来】
1 風に吹き寄せられたように、どこからともなくやって来ること。また、その人。
「案内者などのやっかいにならない—の田舎者」〈寅彦・案内者〉
2 遊里で、初めての客。初会の客。
「お茶屋もない—のお客に」〈人・籬の梅・四〉』 (サイト『weblio辞書』より)

となっており、「街に住んでいる姉妹」を指す言葉として、ピッタリくるものとは言い難い。
しかし、上に紹介された2つの意味を総合してみると、そこに示された「属性」とは、民俗学者・折口信夫のいう「まれびと」ということになるのではないだろうか。

『まれびと、マレビト(稀人・客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する折口学の用語。』 (WIKIpedia「まれびと」より)

つまり、「ふうらい姉妹」とは「まれびと姉妹」であり、言うなれば「他界より来たりて、福をもたらす来訪神」なのではないか。

だからこそ、姉妹は「現実」社会の論理に縛られることなく「自由」であり、かつ、それゆえに「異形」の存在で、浮世の「ケガレ」を蓄積させて疲れ果てた人々から、その「ケガレ」を祓い、「ハレ」の時間を与えてくれる「神(あるいは、その巫女)」なのではないか(なお「神が憑く(降りる)」とは、一種の「狂気」であり、それは同時に「常識からの逸脱」であり「自由」でもあろう)。

このように考えてみれば、姉妹の常識はずれで、「意味」不明と言うよりも、むしろ普通の「意味(有意味性=有価値性)」をスルーして、積極的に「無意味」ですらある言動は、一種の「祝詞(揺さぶり祓う言葉)」に近いものだとさえ言えるのかもしれない。

だからこそ、私たちは、姉妹の「阿呆」な言動に接して「癒される」。つまり「ケガレ」を祓ってもらって、「生気返し」されるということなのではないだろうか。

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初出:2021年9月16日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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