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小坂井敏晶 『増補 責任という虚構』 : 〈人間存在〉 を根底で支える「虚構」

書評:小坂井敏晶『増補 責任という虚構』(ちくま学芸文庫)

初め指摘しておくと、本書はいわゆる「社会的責任論」の批判、あるいは「相対化」の本ではない。

『 私という同一性はない。不断の自己同一化によって今ここに生み出される現象、これが主体の正体だ。』(P50)

と書かれているとおりで、本書の射程は、もっと遠く深い。

「社会的責任論」というのが、社会秩序維持のための「虚構」でしかない、などという話は、ある程度、物事を考え、問題意識を持って本を読む人間には、常識的なものでしかないし、難しい話でもないだろう。
しかし、本書の著者が語っているのは、「責任」概念の根拠となっている、責任主体としての「私」や「個人」「自由」「意志(意識)」といったものは、すべて「虚構」でしかないので、「責任」概念もまた「虚構」でしかない、という話なのだ。

つまり、本書の真のテーマは「〈私〉は実在しない」ということの方にあり、「責任」問題は、いわばその「掴み」なのである。
ただ「〈私〉は実在しない」などというタイトルでは、いかにも現実生活から遊離した「哲学談義」と見られてしまうし、事実、哲学書にはそういうタイトルの本が珍しくない。
しかし、本書の著者としては、「〈私〉は実在しない」という「事実」は、決して現実生活から遊離した哲学談義などではなく、まさに私たちが生きる「現実」を支えるための「必然的虚構としての〈私〉」という問題なのだと、その「現実」性を強調したかったのである。まただからこそ、私たちの社会生活を直結的に支えている、「責任」という言葉をタイトルに冠して見せたのだ。

したがって、本書は決して理解しやすい本ではない。それは、本書において著者が、多くの学者からの誤解に対する、懇切な説明を何度もくりかえしている、という事実からも明らかなのだが、しかし、それをなぜ「一般読者」が、容易に理解したつもりになれるのだろうか。

『 哲学者や数学者が厳密な手続きを通して意識的に導く論証ならば、所与のデータの論理的吟味が十分なされた後で結論が導き出される。しかし一般に人間の思考はそのように進まない。日本の戦争責任や教科書問題などの政治的テーマについて検討する場面を考えよう。相手の主張を最後まで虚心に聞く人はまれだ。相手は左翼なのか右翼なのか、味方なのか敵なのか、論者は信用に値するのか政府の御用学者なのかと範疇化が無意識に行われる。相手が展開する論理は、予め作られた思考枠を通して理解され、賛成の安堵感あるいは反対の怒りや抗弁が心の中に積み重ねられてゆく。新聞や本を読む場合でも同様だ。読者にとって重要な関心事ほどこのような歪曲を通して解釈されやすい。つまり論理的手続きの進行方向と反対に、既存の価値観に沿った結論が最初に決定される。そして選び取られた結論に応じて、検討にふされるべき情報領域が無意識に限定・選択される。客観的な推論がなされ、その結果として論理的帰結が導き出されるのではなく、その逆に、先取りされ、バイアスのかかった結論を正当化するために推論が後から起こる。』(P193)

つまり、一般読者の多くは、「〈私〉は実在しない」などという、およそ「実感」を伴わない哲学談義は「まあ、そういうふうに考えることもできる」程度に流しておいて、本書の「社会的責任論」批判という「わかりやすい部分」の方を焦点化し中心化することで、本書を理解したつもりになるのである。
『既存の価値観に沿った結論が最初に決定される。そして選び取られた結論に応じて、検討に付されるべき情報領域が無意識に限定・選択される。(…)先取りされ、バイアスのかかった結論を正当化するために推論が後から起こる。』というのは、そういう意味だ。

『相手の主張を最後まで虚心に聞く人はまれ』であり、多くの読者は「社会的責任論」批判の段階で満足してしまって、実感の持てない「〈私〉は実在しない」という難問にまでは、踏み込んでいかない。言い変えれば、高名な哲学者たちですら誤読しやすい、本書の真のテーマである「〈私〉は実在しない=〈私〉は社会的な虚構である」という難問と真剣に向き合えないために、本書の著者の主張を理解して支持するどころか、これを批判するにも至らないのである。
当然、一般読者の「安っぽい理解」よりも、哲学者たちの「真剣な誤解」の方が、まだしも著者にとっては、意味と価値のあるものなのだ。

では、次に問題となるのは、哲学者たちは、どうして「〈私〉は実在しない=〈私〉は社会的な虚構である」という本書の著者の主張を、誤解し否定しようとするのであろうか、という点である。

『 神がいない世界で秩序をどう根拠付けるか。普遍を求める哲学者にこそ、この問いは深刻になる。神の権威を認めなければ、道徳や法は人間自身が制定しなければならない。ところが人間の判断が正しい保証はない。正しさの根拠が明示された瞬間に、ではその根拠はなぜ正しいのかという問いが繰り返される。これが真理だと議論を力ずくで打ち切る審級はもうない。
 神のいない世界で普遍を求める試みには原理的な無理がある。だから神が化けた個人主体にしがみつき、決定法則と自由意志の両立論のような苦しい言い訳をひねり出す。規範論を旨とする法哲学や政治哲学にとって主体の否定は、神の存在を神学が否定するに等しい暴挙なのだろう。
 脳科学・認知科学・社会学・社会心理学において主体はすでに舞台を降りている。だが同時に、日常感覚の自由や責任は別次元の問題として専門知識とかみ合わない。自由と責任に触れるやいなや、感情的な反応を伴って主体が呼び戻される。時代や世界の相対性を知る歴史家や文化人類学者も同様に、身近な問題となると途端に自由と責任の擁護に回る。行為の因果論を否定し、主体概念を批判する哲学者も市民としては、近代社会で責任を支える自由意志を手放さない。だから主体や責任の虚構性に言及すると強い反発が返ってくる。
 近代のエピステーメーが我々の目を覆う。新奇な事物の受容や異質な解釈の理解を妨げるのは知識不足ではない。逆に知識の過剰、常識が邪魔をする。科学理論が社会に普及する過程で歪曲が起こったり、第三世界への新技術導入がしばしば失敗する原因は人々の知識欠如ではない。学術理論や異文化要素と相容れない通念・宗教・迷信・風習があるからだ。』(P429〜430)

つまり、哲学者たちの多くは、純粋学問的な哲学的探究心とは別に、この現実社会を支える「普遍的真理」の擁護者でなければならないという「(知識人としての)責任」を(気楽な一般人とは違って)負っているので、「〈私〉は実在しない=責任主体は存在しない=責任は虚構である=罪は存在しない」というような、「相対主義」的で「社会秩序破壊的」な「普遍的真理」を、安易に支持することはできない。だから、本書の著者の「〈私〉は実在しない=責任主体は存在しない=責任は虚構である=罪は存在しない」という主張は、おのずと否定されがちだ、ということなのである。

しかし、当然のことながら著者は、これを「誤解」であると主張する。
著者の「〈私〉は実在しない=責任主体は存在しない=責任は虚構である=罪は存在しない」という見解は、一見したところ「社会秩序破壊的」に見えるかも知れない。そんな「王様は裸だ!」的な「不都合な真実」を暴いてしまっては、社会に「道徳」や「規範」や成立しなくなって「社会秩序が崩壊してしまう」と、そう考えがちなのも分からない話ではないのだが、しかし、そうした理解は間違いであると、著者は主張する。

なぜならば、「この世界には、本当は善も悪もない」という事実を「理解する」ことと、それを「実感する」こととは、まったく別問題であり、私たちは、「この世界には、本当は善も悪もない」という事実を、頭で「理解する」できたとしても、やはり「この世界には、善も悪もある」という「実感=虚構」の外に出ることはできないように出来ているからである。
そしてそれは、「〈私〉は実在しない」と頭で理解できたとしても、やはり「私は私」という「実感=虚構」の外には金輪際出られない、というのと同じことであり、著者の言う「虚構が生成されると同時に、隠蔽される」とは、そういうことなのだ。

だから、「〈私〉は実在しない=責任主体は存在しない=責任は虚構である=罪は存在しない」という「事実」認識を怖れることはない。その「事実」を承認したところで、私たちは引き続き、必然的に「〈私〉という虚構」に生きるしかないように出来ているのだから、その「正しい認識」は、実質的な不都合としての「社会秩序破壊」を結果することにはならないのである。

こうした事態を、一つの譬え話として考えてみよう。有名な芥川龍之介の「杜子春」である。

『唐王朝の洛陽の都。ある春の日の日暮れ、西門の下に杜子春という若者が一人佇んでいた。彼は金持ちの息子だったが、親の遺産で遊び暮らして散財し、今は乞食同然になっていた。』(青空文庫より)

この日、杜子春は「不思議な老人」と出会い「この場所を掘るように」と指示され、それに従った結果、莫大な埋蔵金を掘り当てて富豪に返り咲くのだが、結局は贅沢のかぎりを尽くして、また一文無しになってしまう。そして同じことを何度か繰り返した後、金に群がる人間たちの現実にウンザリし、人間社会の栄華の虚しさを知った結果、杜子春は、人の世を捨てて仙人になろうと決意し、今度はその希望をかの老人に伝える。すると老人は杜子春に、これから与える試練の中で「何があっても口をきいてはならない」と戒め、そうすれば仙人になれると言う。杜子春はその試練に挑むことになった。

『地獄に落ちて責め苦を加えられても、杜子春は一言も発しなかった。怒った閻魔大王は、畜生道に落ちた杜子春の両親を連れて来させると、彼の前で鬼たちにめった打ちにさせる。無言を貫いていた杜子春だったが、苦しみながらも杜子春を思う母親の心を知り、耐え切れずに「お母さん」と一声叫んでしまった。』(前同)

杜子春が見た「畜生道に落ちた両親の、鬼に責め苛まれる哀れな姿」は、普通に考えれば、杜子春の「仙人への覚悟」を試すための「夢=幻想=虚構」だと考えていいだろう。杜子春自身も、そう「わかっていた」から、最初は我慢して黙っていたのだが、目の前にいる母の、子を想う痛切な言葉に触れて、ついに「お母さん」と一声叫んでしまう。

これが「人間」なのだ。
この瞬間に、目の前にいる母が「現実か虚構か」などということは、問題にならない。なぜなら、その瞬間において、杜子春にとって、目の前にいる母は「現実」としか「感じ」られないからである。
そしてさらに言うなら、その「現実」を受け入れてこそ、彼は「人間」たりえたのである。

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私は、本書において、著者の主張に初めて接したのだが、この特異な主張を、比較的容易に受け入れられたのは、私がこのような「たとえ〈私〉が虚構だとしても、しかし私は〈私〉を生きるだろう」という確信を、あらかじめ持っていたからであろう。

その証拠に、半月ほど前(2020年2月1日)に書いた、ガブリエル・マルクスの『新実存主義』(岩波新書)についてのAmazonレビュー「仮に〈心〉の無かりせば、あるいは「気難しい天使のテーゼ」」で、私は結論的に、次のように書いている。

『かつて(そして今もなお)キリスト教神学は「神がいなければ、人間倫理の根底は無くなってしまう(底が抜けてしまう)」と、ことさらに危機感を煽ってみせたのだが、ガブリエルの主張もこれに似て、彼の「心(精神)が、自然には還元しきれない別立ての存在でなければ、人間の自由に実態はないということを認めなければならなくなる」というような考え方は、「自然主義的還元論」の「誇大広告」を真に受けすぎているだけなのではないか、と思えるのである。
つまり、「心」が完全に「脳」に(理論的に)還元されたとしても、やはり人には自分の「心」が感じられ、やはりそれは、どうしようもなく「自由」な、掴みきれないものとして感じられるのではないかと、私には楽観的に予想される。』

つまり「人間の自由に実態はない」としても、やはり「人間は自由を感じつつ生きる」だろうということなのだ。
本書の著者が訴えるとおり、「私」とか「責任」とか「自由」とかいったものは、人間が生きていくために必要な「虚構」であり、だからこそ、それを「認識」したところで、それを実践的に乗り越えることは、人間の構造上、不可能なのである。

けれども、人間がこのように簡単に「虚構」に捕われてしまう、捕われずには生きられないという「事実」を知っておれば、少なくとも、根源的ではない部分での「虚構」を改善していくことはできるだろうし、それは可能であるはずだ。
たとえそれが「古い虚構を新しい虚構に改める」という作業でしかないとしても、それは人間が生きていく上で必要かつ避けられないことなのだから、私たちはその「生きるための宿命」を引き受けていくしかない。

著者も謙虚に書いているように、「〈私〉は実在しない=責任主体は存在しない=責任は虚構である=罪は存在しない」は、結論でも決着でもない。
だが、私たちは「考えること」を止めることができないように出来ているのだし、そうした「探求」は、私たち人間が生きていく上で、やはり必要なことなのであろう。

初出:2020年2月19日「Amazonレビュー」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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