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山竹伸二 『人はなぜ 「認められたい」のか 承認不安を生きる知恵』 : 不徹底な還元主義と 〈医者の不養生〉

書評:山竹伸二『人はなぜ「認められたい」のか 承認不安を生きる知恵』(ちくま新書)

本書に書かれていることは、「基本的な考え方」としてなら、決して間違ってはいない。と言うか、ごく「常識的・一般的」な意見だと言っていいだろう。したがって、本書前半で語られる、現代社会において顕在化している「承認欲求不全」の問題についての、著者の分析・解説などは、聞くべきところも多々あって、たいへん参考になる。
だが、いささか「万人受けしやすい」著者の論法には、警戒すべき点がある。本書著者には、問題をあまりに「単純化しすぎる」きらいがあるのだ。

著者は、自身の物の見方の「現象学」に置いていると語っている。そして、「現象学的還元」の手法において、問題の「本質」を取り出しているとしている。
例えば、「心理的治療のパイオニア」たちの、多様な「心へのアプローチ法」の(対立的混乱)問題を、次のように「還元」してみせる。

『 こうした(※ 著者の語る)現象学的な人間性の本質論から、これまでの(※ 旧来の)心の治療の領域における人間論も整理することができます。
 たとえば、自分の存在価値を確信するには他人より優越していること、周囲の人から認められることが必要になります。アドラーの人間論において、「優越性への欲望」が重視されるのはそのためです。また、フランクルの人間論では「生きる意味」が重視されていますが、「生きる意味」を感じるには、人間のあり方や行為に価値が感じられなければなりません。だからこそ、自分という存在を認められたいと思い、承認不安を抱くようになるのです。
 一方、人間には自由でありたいという欲望もありますが、承認欲望があるために、自由と承認の葛藤が生じます。自由にふるまえば、承認されない可能性もあるからです。フロイトは性的欲望と道徳心の葛藤に焦点を当て、性的欲望を重視したことで批判を受けていますが、これを自由と承認の葛藤として捉えれば、決して奇異な理論ではありません。
 また、自由の抑圧は自分の本心を隠し、がまんすることでもあります。そして偽りの自分ばかり演じていると、自分の本音(本当の自分)に気づけなくなるなり、自由を感じることができなくなります。そこでユングやロジャーズの人間論では、人は「真の自己」を求めるものだとされ、その発見こそが治療の目標にされています。
 このように、一見、ばらばらに見えるフロイトやアドラー、ユング、ロジャーズの人間論も、自由と承認への欲望と葛藤、という視点から捉えなおせば、それほど矛盾しているわけではありません。それぞれの観点から人間の欲望を言い当てていますし、不必要な仮説をもちこまず、お互いの主張の本質をしっかり把握できていれば、本来、理論対立する必要はないのです。
 ただし、人間の欲望のどこに焦点を当てるかによって、治療の目標も変わってきます。承認への欲望を優先すれば、社会に承認されるために社会適応が目標になるでしょう。しかし、自由への欲望を優先すれば、過剰な社会適応はやめて本当の自分を大事にし、自由に行動できることが治療のメルクマールとなります。こうして、心の治療論の対立が顕在化するのです。』(P126〜127)

ここでなされていることを簡単にまとめると、こうなる。
『フロイトやアドラー、ユング、ロジャーズ』などの「心の理論」は、間違ってはいないが、『不必要な仮説』に基づいて「人間の欲望」を一面的に捉えたものであり、それらすべては、筆者(山竹伸二)の言う『自由と承認の葛藤』という「本質」に還元することができる。たしかに『人間の欲望のどこに焦点を当てるか』の問題はあるにせよ、一面的な光の当て方による一面的な治療法では、不完全であり、問題が残ることにもなるだろう。故に、問題を本質的に捉えて、総合的に対処する必要があるし、それを目指しているのが著者の立場だ。一一と、こんな具合だ。

なるほど「心の問題」を『自由と承認の葛藤』と表現しても、大筋では間違いではないだろう。しかし、そんな「単純な話」なのかという疑問は、出てきてしかるべきである。

「結局、どのようにして治すのかが問題なのだ」「難しい理屈はいらない」「細かい哲学談義など目的ではない」と考えるような人には、本書著者の「還元主義的本質論」というのは、「単純明快」で、非常に便利なものだと映るだろう。しかし、それで本当に大丈夫なのか。

「天の神が救ってくださる」と言われて(「教義や神学」を知ろうともせず)、そうしたシンプルさに安心できる人、特に専門家ではない人は、シンプルな説明を過剰にありがたがる「不用意さ」があるのだが、それで本当に大丈夫なのか。一一そう疑ってしかるべきなのではないだろうか。
(「投資詐欺」に引っかかる人は、単純な儲け話にだまされる。また最近、ある発毛剤のテレビコマーシャルで、その有効性について「ヒヨコが毛がフサフサで生まれてくるのは、卵の中にに毛髪の構成成分であるケラチンが多量に含まれいているからです。この発毛剤にはケラチンが多量に含まれています」と説明していた。この「わかりやすい」説明に説得力を感じる人も、きっと少なからずいるのだろう)

この種の「シンプルな説明」を信じる人というのは、まず間違いなく『フロイトやアドラー、ユング、ロジャーズ』の理論に正面から取り組んでみようとはせず、良くて入門書の1、2冊で済ませてしまう人たちなのではないかと、私は疑っている。

偉大な先達としての彼らの理論にも、時代の制約はあるし、もとより人間の作ったもの(理論)として、決して完全なものではないし、難点のあることは否定できない。だが、だとしても、彼らが歴史に名を残すほどの「心の専門家」であり得たのは伊達や酔狂ではないだろうし、当然、彼らの理論は、数十字程度で「総括」されてしまうようなものではないというのも、しごく当たり前な判断ではないだろうか。
むろん私は、彼らの「権威」に平伏盲従しているわけではない。そんな人間ではないからこそ、「心理学と哲学の専門家」である本書著者のご意見に、こうして疑義を呈しているのだ。

私自身は、心や哲学の「専門家」ではないので、そうした観点から著者の立論に注文をつけているのではない。私は、一読書家として、本書著者の「文章」に、無視し得ない「違和感」を覚えたのである。

まず、単純に「違和感」を覚えるのは、本書における著者の、ほとんど意味のない(唐突な)「権威筋の文章の引用」である。
いちいち列挙はしないが、著者は、自身の理論を「補強」するものとして、各界の著名学者の言葉を断片的に引用している。これは、その短文を引用しなければ、著者の意見の説明が困難だとか、紹介しておかないと理論の剽窃になるといった、いわば必要に迫られての引用ではなく、単なる補強材料であり、無くてもぜんぜん困らないようなものなのだ。
ならば、なぜそのような「権威筋の引用」をしたのかといえば、それは無論「権威づけ」以外にはあり得ない。端的にいえば「虚仮威し」の域を一歩も出ないものなのだ。

当然、著者のこうした「シンプルでわかりやすい、それでいて権威主義的な(押し付けがましい)立論」に対しては、多くの「異論」が予想されるだろう。
著者自身も、そう感じているからこそ、本書の中で、しきりに「予防線」を張ってみせるのだが、これはどこまでも「予防線」でしかなく、「異論に対する駁論」になってはいない。

(1)『 私は(※ 私の)このような見方が絶対に正しいと言い張るつもりはありません。ただ、なかなか理解しがたい言動を「不安への防衛反応」として見ることは、相手の気持ちを受けとめ、共感し、よりよい対応を導く上で、とても有効だと考えています。』(P120)

(2)『 このような(※ 私の)意見に納得できない教育者、ケアの専門家もいると思います。看護、介護、保育、心理臨床など、それぞれの現場には異なったやり方があり、専門家にしかわからない部分が多いのも事実です。しかし、ケアの仕事に共通する原理を見出し、共有できたほうが、結果的に専門家同士の連携がスムーズになりますし、お互いの弱い部分をフォローしあえるのではないでしょうか。』(P180)

(3)『 こうした(※ 厳しい)現実を前にすると、本書で提示したような心のケアの原理、相互ケアの可能性といった考えは、やや理想主義的で楽観的だと感じるかもしれません。人間、そんなに簡単には変わらない。そんなつぶやきさえ聞こえてきそうです。
 しかし、このような時代だからこそ、私は希望のある未来について書きたいと思いました。実現化が難しいことは重々承知していますが、一人一人の意識が変われば、社会も少しずつ良い方向へ向かうかもしれない。少なくとも私はそう信じていますし、この本がよりよい社会の可能性を考えるきっかけになればと思ったのです。』(P253「あとがき」より)

『ただ』『しかし』云々かんぬん…。
これで全部ではなかったと思うが、ひとまずこの三つで十分だろう。

著者は、なぜこんな「予防線」を張らなければならなかったのか。
無論それは、他の専門家が本書著者の意見を聞けば、その「独善性」つまり「自分だけが、本質的なところを押さえており、他の人は表層的差異にとらわれている」という鼻持ちならない「上から目線」の押し付けがましさを、はっきりと感じ取るだろうと、著者自身が自覚しているからである。
つまりこれは、本能的な「防衛機制」が働いた結果なのだ。まさに、著者自身の言う『不安への防衛反応』なのである。

しかし、著者の「本質」が「上から目線」だという評価の正しさは、こうした「抗弁=言い訳=自己正当化」の中に、はっきりと読み取れる。

例えば、著者はこの三つの箇所で、自分には『言い張るつもりはありません』と自身の「謙虚さ」をアピールし、さらに自身を『理想主義的』であり『楽観的』な人間だと自称し、人々の「結びつき」を大切にし、「人間社会の未来を信じる」人間だとアピールしている。
そのようにして、暗に「私は、そんなお人よしだから、世のうるさい人たちから色々と注文もつけられるし、イジメられやすいのでしょう」と、自身をこの上もないほど「同情すべき、いい人」であり「被害者」として描き出し、読者にそう印象付けようとしているのだ。

その一方で著者は、他の人たちが『現場』にあって、それぞれにもっと『有効』な手段を考えているからこそ、著者の「還元主義的主張」に注文をつけるのだとは考えないし、著者とは違った『ケアの仕事に共通する原理』をそれぞれの現場で見出しているからこそ、「どうしてこちらが、あなたの考える『原理』に合わせなければならないのか」という意味で、著者の言う『原理』に注文をつけているのだとも考えない。
また、誰だって『理想』を語りたいのは山々だけれども、それ以前にもっと重要な『現場』の現実に対処する必要性から、止むに止まれず、著者の「机上のきれいごと」に注文をつけているのだ、とも考えない。

要は、著者は、著者の意見に不満を表明するような人は「私(著者)ほどには考えておらず、広い視野と展望を持っていないから、注文をつけるのだ」と考えている。だからこそ、批判に対しては「被害者意識」にとらわれるばかりなので、このように「抗弁=言い訳=自己正当化」としての「予防線」を張り巡らさなければならなかったのだ。

著者は、自身が「多様な意見に寛容(開かれている)」な人間であるかのようにアピールをしているが、実際には「我賢し」で、他人のことを見下しているところがあるので、意外に「決めつけ」も少なくない。

『多様な考え方、価値観、感受性をお互いに受けとめあい、認め合うことができれば、「存在の承認」による安心感の土台が築かれます。そして、お互いの考え方や感じ方の自由を認め合うようになるのです。それは、みんなと同じであることを義務のように感じ、同調行動ばかりしていた子どもたちにとって、大きな転機となり得るかもしれません。
 さまざまな意見が出るだけでは、ばらばらでまとまらないのではないか、と思う人もいるでしょう。しかし、無理に意見ををまとめなくても、いろいろな考え方がある、とわかるだけでも十分有益です。頭では多様な考え方があることを理解していても、実際にその考え方の人間に触れなければ、本当の意味で多様性を受け入れることはできませんし、理解しあいたいとも思わないでしょう。』(P197〜198)

ここで著者は「多様な意見の存在を認め合うことが大切です」という、ごくごく常識的な「正論」を語っているのだが、しかし、それに続く部分で、こんなことを言っている。

『 もちろん、意見を統一する必要のある話し合いもありますが、その場合、他人の意見を否定するのではなく、ちゃんと理由を聞いたうえで、みんなが納得できる結論、共通了解できる考え方を探すことが大事になります。
 たとえば、誰かをかばって嘘をついた子がいたとして、それは「よい行為」なのか「悪い行為」なのかで議論になったとします。多くの子は、誰にも迷惑をかけていないし、その嘘で人を助けたのだから「よい行為」だという考えで一致するでしょう。しかし一方で、「どんな嘘も許せない」と言い張る子がいた場合、どうすれば良いのでしょうか。
 この場合、大勢でその子の意見を否定し、絶対変だと大声で言いはじめるなら、もはやまともな話し合いはできません。頭ごなしに否定するのではなく、なぜそう考えるのか、理由を聞くのが先決です。その子に理由を聞いたところ、昔、嘘をついて親にひどく叱られ、絶対に嘘はいけない、と言われたのだとしたらどうでしょうか。その子は親に対する承認不安から、どんな場合も嘘をつかなくなり、次第に「どんな場合でも嘘はつけ嘘はいけない」という自己ルールを作り上げていたのです。だから「嘘をついてもいい場合がある」という考えは、自分を否定されるようで受け入れられなかったのです。
 こうした事情がわかってくれば、「それなら仕方ない」と感じたり、「うちの親もそうだ」とか「気持ちはわかる」と思う人も多いでしょう。その子の気持ちに共感し、理解を示した上で、「でも、嘘がいい場合もあるんだよ」と言うはずです。それによって、頑なに「嘘はだめだ」と言い張っていた子も、つらい気持ちをわかってもらえたような気がします。その安心感から、嘘をつくことを怖れていた自分の不安に気づき(自己了解)、「よい嘘もあるんだな」と感じ、自己ルールを修正しようと思うのです。』(P198〜199)

この部分に、著者の人間認識の「異様さ」を感じなかった人は、他人の心理を云々すべきではない。
ここに見られる「異様さ」は、「心理学」など知らなくても、普通に本を読む力があるなら、気づけるはずのことだからだ。

言うまでもなく、問題は『「どんな嘘も許せない」と言い張る子がいた場合、どうすれば良いの』かについての、著者の考え方である。

もちろん、現実社会にあっては「嘘をついた方が(相対的に)良い」場合もある。しかしこれは、「(可能なかぎり)嘘はつくべきではない」という「大原則」があっての話なのだ。

『誰かをかばって嘘をついた』といったような場合、それが真に「止むを得ない嘘」なら仕方がない(消極的是認)としても、その嘘が絶対に必要というわけではない場合なら、「嘘をつかない方がいい」に決まっている。
つまり、結果はどうあれ、わざわざ他人にかばわれなくても、当人が自身の正義を主張して戦える場合などは、他人が嘘をついてまでかばう必要はないし、そうすべきでもない。また、「一つの嘘」は連鎖的に「他の嘘」を生むことになり(夢野久作「少女地獄」など)、その弊害が、違うところに出る場合だって多々ある。「その場さえ良ければいい」というものではないのだ。

したがって、「(可能なかぎり)嘘はつくべきではない」というのが大原則であって、「嘘がいい場合もある」とか「よい嘘もある」などいう「安易な考え方」を、(世の中の現実をよく知った大人に言うのならまだしも)まだ基本の出来ていない子供たちに対して、まるでそれが、積極的に是認されるべき「当然のこと=正論」ででもあるかのごとく教えるのは、大間違いなのだ。

だから、「どんな嘘も許せない」と言い張る子がいた場合に、まず必要なのは、その意見が「正しい」と肯定してやることなのである。
そのうえで、しかし「現実には」こういう場合もあれば、こんな場合もあると、具体的な「例外事例」を示してやり、子供の「正しい原則」に「幅」を加えてやるのが、現実を知る「大人の仕事」なのだ。

ところが、この引用部分に明らかなとおり、本書著者は「嘘がいい場合もある」とか「よい嘘もある」といったことを「自明の前提」としており、「嘘はつくべきではない」という大原則を、あまりにも軽々に蔑ろにしている。
そして、その結果として必然的に、子供らしく「正論に固執しただけ(かもしれない)の子」を「生育環境に問題があって、ゆがんだ自己ルールに固執している、同情すべき子」扱いにし、そこでの議論には関係のない「家庭環境や生育環境まで聴き出すべきだ」などと言っているのである。一一果たしてこれが「心理学と哲学の専門家」を名乗る者のすることなのだろうか。

著者は「多様な意見の存在を認め合うのが大事」とか「存在の承認」とか、もっともらしくも「当たり前」のことを、くり返し語っているけれども、そこに表れているのは「我々の正義あるいは常識に、反する意見に固執する者は、認知に歪みのある病人である。したがって、治療し、矯正しなければならない」という「全体主義的思考」、これが言い過ぎなら「画一主義的思考」であって、本質的に「多様性の思想」とは、相反する思考様式なのである。

ここで参考に、一つの「思考実験」を提供しておこう。
「どんな嘘も許せない」という頑なな意見に対し、本書著者は「嘘がいい場合もある」とか「よい嘘もある」という「柔軟な立場」に立つ人だった。では、「どんな殺人も許せない。したがって、いかなる理由があろうと、たとえ殺されようと、戦争に加担してはならない。また、いかなる犯罪者でも、死刑にすることは許されない。それは殺人だ」という意見に対し、本書著者なら、どういう立場に立つだろうか。
まさか、こう主張した人について「生育環境に問題があって、ゆがんだ自己ルールに固執している人なので、思想矯正が必要である」とは言わないはずだ。なぜなら、それでは著者が、到底「いい人」には見えないと、著者自身にもわかりきっているからである。

本書著者には、「心理学」の専門家の「悪弊」が、わかりやすく表れている。
それは、クライアント(客)を承認し(煽て)、その心をつかみ、自分の思う方向へと「コントロールしよう」という、「管理指導」者的な、思い上がった態度である。
そして、そうした悪弊が、その「著書」においては、「読者というクライアント」に指し向けられている。

本書を読んだ読者の多くは、たぶん自身を「生育環境などに問題があって、歪んだ自己ルールに固執している、可哀想な人なのかも知れない」とは疑わず、むしろ、著者が本書後半で語る「あなたもケアする人になれる」みたいな甘言にうかうかと乗せられて、自身を「共感能力のある人間」であり「ケアする側の人間」だ、などと勘違いしてしまうのではないだろうか。

もちろん、「他者を尊重し、その気持ちを思いやる人」が増えること自体は、文句なく良いことだ。だが、それが実際には「私は、人並み以上に共感能力のある人間であり、すなわち、ケアする側の人間だ」などという思い上がりの安売りでしかないとすれば、「百害あって」一利くらいはあるかもしれない、といったことにしかなるまい。
だからこそ、本書著者の主張や考え方は、その表面上の「きれいごと」にもかかわらず、「危険なもの」として批判されるのだし、批判されるべきものなのだ。

まあ、本書著者にすれば、ここまで「悪意に解釈する」私という読者は、「読みが深い」のではなく、きっと「生育環境などに問題があって、歪んだ自己ルールに固執している、可哀想な人」だということで、「嘘は絶対にダメだ」といった子供と同様に、体良く排除されてしまうのかもしれない。
しかし、前述のとおり、著者自身、

『頭では多様な考え方があることを理解していても、実際にその考え方の人間に触れなければ、本当の意味で多様性を受け入れることはできませんし、理解しあいたいとも思わないでしょう。』

と書いているのだから、私のような徹底的な批判者の意見には、むしろ喜んで耳を傾けるべきであり、それでこそ「言行一致=統合された人格」というものなのだ。

それを、「嘘がいい場合もある」とか「よい嘘もある」と言って、「建て前と本音」を使い分け、異論排除を自己正当化するばかりでは、『頭では多様な考え方があることを理解していても、実際にその考え方の人間に触れ』ようとはせず、『本当の意味で多様性を受け入れること』ができない、他者と『理解しあいたいとも思わない』人間で、い続けるしかないのだ。それでは「自己ルール」を修正することなど、金輪際できないのである。

「医者の不養生」という言葉もある。
自己承認も過ぎると、成長を促す緊張感が失われてしまうのだから、私のこの批判を、しっかりと受け止めることを期待している。

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初出:2021年1月17日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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