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てぃーろんたろん 『顔がない女の子』 : わかりにくいからこそ愛おしい

書評:てぃーろんたろん『顔がない女の子』(ビームコミックス)

とてもユニークな作品である。
タイトルのとおり、語り手の少年の「カノジョ」は、顔が無い、本物の「のっぺらぼう」だ。

口も無いから会話ができず、そのうえ彼女は性格的にもおとなしい。だから、意思疎通がなかなか難しい。
もちろん、手振り身ぶりや筆談で意思疎通することは可能であり、顔を赤らめることもできるし、焦って汗をかくこともあるから、まったく感情が読み取れないということもないのだが、積極的に感情を読み取ろうとしていなければ、彼女の気持ちを察することは到底できない。
だが、語り手の少年は、そんな彼女が可愛くって仕方なく、べた惚れ状態だから、つねに彼女の気持ちを慮って、彼女を喜ばそうとする。また、だからこそ彼女の方も、そんな彼を愛おしく思い、コミュニケーションの困難はあっても、人間とのっぺらぼうの彼氏彼女は、相思相愛の恋人なのだ。

本作は、いわゆる「イチャイチャ恋愛マンガ」である。
毎回、コミュニケーションの困難によって、多少の誤解が起こるのだが、それが溶けることによって、二人はお互いの感情を再確認し、さらに相思相愛を深めていく。

だが、本書のユニークさは、普通に人間どおしの男女の恋愛だったら、ここまで「毎回おなじようなパターンを繰り返す」ことはできないだろう、という点にある。同じことを繰り返していても、本書においてはそれが、不思議とマンネリ感を醸さないのだ。

なぜだろうと考えてみた、私のひとまずの回答は「彼女に顔がない」からであり、その意味で「わかりにくい」からだろう、というものだ。

「恋愛もの(物語)」というのは、ある意味では「誤解」があってこそ、「物語」になりうる。
お互いが完全に相手を理解して、完全に信頼しており、誤解も迷いもないとしたら、その恋愛は、たしかに当事者にとっては安定感のある幸せなものではあろうけれど、少なくとも刺激的とは言えず、読者にとっては退屈なものになるはずだ。

ところが本作の彼女には「顔がない」し「言葉もない」から、「特別な事件」が起こらなくても、つねに小さな「誤解」や「謎」が発生しており、それが物語を駆動するのである。

したがって、「恋愛」において、最も大切なのは、適度に「わからない」ということなのではないだろうか。
すべてをわかりあった老夫婦の、静かな湖のような愛も、それはもちろん素晴らしいのだけれど、しかし、若者の恋愛には、やはり多少の起伏や波風もあってこそだし、それでこそ読者を「惹き込む物語」たり得るのではないだろうか。

『ないからうまくいくこともあって』(P109)

もちろん、彼女には「顔が無い」からこそ、読者はそれぞれに、彼女の顔に、その時どきの「理想の表情」を、無意識に読み込んでいるのかも知れない。
そしてまた逆に、そんな「のぺちゃん」(彼女)にすくわれた、オニ子ちゃんの表情が素晴らしい。

本書は、「表現と解釈」について、いろいろ考えさせてくれる、とてもユニークで、じつのところ極めて「知的」な作品なのである。

初出:2019年12月12日「Amazonレビュー」

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