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妹尾武治 『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。 心理学的決定論』 : 「自由意志」という信仰 ・ 〈決定論〉という救い

書評:妹尾武治『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。 心理学的決定論』(光文社新書)

「心理学的決定論」とは、心理学の立場から「すべては予め決定されており、人間に自由な決定権があるという感覚は、情報の決定的限定性による、錯覚(心理的誤認)にすぎない」とする議論である。

幸い本書は、おおむね好意的に評価されているようだが、これは著者が冒頭部分で、自ら本書を「トンデモ本」だと断じて、読者に「先制パンチ」を浴びせたからでもあろう。誰だって、著者が張った「予防線」を、あえて追認しての批判が容易でないことくらい、直感的に理解するからで、その意味では、著者の心理学的な奇略が、見事に的中したということなのだ。だが、無論それだけではない。

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「心理学的決定論」において、最も重要な論点とは、「その考え方を理解できる」とか「私もその立場を採る」というすべての人たちも、実際には「すべては予め決定されており、人間に自由な決定権があるという感覚は、情報の決定的限定性による、錯覚(心理的誤認)にすぎない」ということを、「実感」としては理解できず、あくまでも「理論」的に「それも、十分あり得るだろう」という「知解」に止まらざるを得ない点だ。

キリスト教に詳しい人なら、「決定論」と聞けば、即座にカルヴァンの「予定説」を想起するだろう。
「人の運命(天国へ行けるか否か)は、全能の神によって、予め決定されている。なぜなら、神は全能であり、すべてにおいての支配者あるから、人間の努力で結果が変わるようなことはなく、すべては神によって予定されたとおりに起こるのだ」といったような考え方だ。

しかし、この考え方は、キリスト教徒の間でも、一般的にはあまり評判が良くなかった。
なぜなら「人間の努力」を、全く認めないものと理解されたからだ。「予め決まっているのなら、悪行をなしても、救われる人は救われるし、どんなに善行をなしても、神の救済予定に入っていない人は、絶対に救われないのだ。ならば、真面目に努力するだけ無駄だろう。救われるか救われないかは、完全に運命であり宿命なのだから」という具合に考えられたからだ。

もちろん、カルヴァン派の教会各派は、そのような考え方は誤解であると説明した。
「神は、その人が義において努力する人間であることを予め見て、救いを決定したのだ。つまり、神は時空を超えた完全な存在だから、不公平な結末を、その出発点において人々に与えたのではなく、未来におけるその人の生き方を見越した決定を、適切に与えたのである。それが予定と言われるものなのだ。このことは、時間が、過去から未定の未来へと流れる、今の連続としか感じられない人間には理解しにくいことではあるけれども、神が時間を超えた万能の存在であることを正しく理解するならば、決して理不尽な話ではないのである」といった具合に。

無論、こうした説明は、説明している牧師自身が完全に「知解」できていたわけではない。なぜならば、彼自身は「時空を超えた認識を持った存在」ではないからだ。
だから、カルヴァン派の信者たちはシンプルに「自分は、救われる側に予定されているはずだ」と信じることにした。現にこのように「神から与えられた天職たる仕事に懸命に取り組んで社会に貢献し、真面目に生きている私が、救われない側であろうはずがない」と考えたのである。これがマックス・ヴェーバーの代表的著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に書かれたことだ。こうしたプロテスタンティズムによって、資本主義経済が発展し、近代資本主義が成立したのだと。

つまり、カルヴァン派の信者というのは、基本「真面目」なのである。
わかりやすい例を挙げれば、モンゴメリ女史の『赤毛のアン』に登場する、アンを孤児院から(男の子と間違えて)引き取った中年の兄妹の妹マリラが、いささか「堅物」に描かれるのも、彼女がプロテスタント的な「倫理観」を内面化した女性だったからだ。だからこそ彼女は、地味な服装をし、節約(清貧)を旨とし、一生懸命働く、敬虔な信仰の持ち主なのであり、そんな彼女からすれば、夢見がちで自由奔放なアンという少女は、ある意味で「神をも畏れぬ、不遜な存在」と映ったのため、当初はアンにとても厳しかったのである。

ついでに言っておくと、元外務省官僚の著述家・佐藤優も、カルヴァン派プロテスタントであり「昔から、自分の名前が、神の救済ノートに書かれているかどうかが心配でならなかった」というような話をしている。

つまり、ことほど左様に「予定説」「運命論」「宿命論」といった「決定論」は、人の生き方を束縛する、抑圧的な世界観として、一般には好まれなかったし、まして「神」の存在感が薄れていった近代以降には、そうした「決定論」は、人間を束縛する悪しき「世界誤認」だと、批判的に考えられるようになっていったのである。

だが、言うまでもなく、私たちは「完全に自由」な存在、などではない。「完全に自由」ではないどころか、あらゆる「条件」によって生き方を制限されており、その意味で「不自由の中で、可能なかぎりの自由を行使することに努力する存在」だというのが、リアルな「実存論」だと言えるだろう。
また、言い換えれば「自由を束縛する運命(宿命・予定・決定)に、意志を持って抵抗する」のが「人間の尊厳」だと考えられてきたのだし、これは「神なき時代」においては、ごく自然な「尊厳の防衛意識」だったと言えるのだ。

だからこそ、本書において著者は「この世界の実相(真実)が、決定論的なものであったとしても、私は前向きに生きるだろうし、生きられるはずだ」ということを、くりかえし強調しなければならなかったのである。でないと、カルヴァンの「予定説」がそう受け取られたように「予め決まっているのなら、悪行をなしても、救われる人は救われるし、どんなに善行をなしても、神の救済予定に入っていない人は、絶対に救われないのだ。ならば、真面目に努力するだけ無駄だろう。救われるか救われないかは、完全に運命であり宿命なのだから」と考える人がおおぜい出てくるのは、火を見るより明らかであり、それは本書著者にとっても決して好ましいことだとは思えなかったからである。
だからこそ、ここでも著者は「自分は」という限定を課しながらも「決定しているからと言って、希望を失わない、努力を放棄しない」と強調して、人々の「決定論」に対する不安感に対し、「予防線」を張らざるを得なかった。

けれども、多くの人には、「決定論」を受け入れた上で、それでも「定められた人生を、自然体で生きる」なんてことは出来ない。それが現実であり、人間なのだ。
例えば「一週間後に、君は死ぬ」という「決定事項」を告げられた人間のどれだけが、それまでと変わらずに「自然に生きて、死ぬ」ことなどできようか。そんなことができる強靭な精神力の持ち主というのは、それが「理想的」なものではあれ、「例外」であるというのは、間違いのない事実なのだ。

だから、本書に描かれた「心理学的決定論」を支持できるという人の9割は、それを「(確証できない)思考実験的な、面白い仮説」としか捉えておらず、決して「実感的に理解」しているわけではないし、そんなことは、そもそも不可能なのである。つまり、人間というのは「決定論」が「実感できないように作られている」のだ。作者も「人間の意識、まして自由な意識とは、後付け的に構成された情報形態であり、人間はその形式の外に出ることは出来ないようにできている」と、概ねそのように説明しているとおりなのだ。

つまり、私たち人間にとっては、「心理学的決定論」とは「実感的に確信」できるようなものではない。どんなに証拠を並べられようと「そのように考えることは、理論的には可能だ」とか、せいぜい「理論的には、そう考えてしかるべきだ」というものに止まらざるを得ない。どこまで行っても、「実感」はできないのである。

そして、かく言う私も、「心理学的決定論」は「ありうる、考えてみるべき(可能性)」とは思うけれど、そうだと「信じる」ことは到底できない。

私は、本書を20数ページ(「リベットの実験」の紹介部分まで)読んだ段階で、別の本のレビュー(池辺葵『私にできるすべてのこと』のレビュー「心など無くても感情ならきっとある。」)で「リベットの実験」を引き合いに出し、「ロボットの心」の問題を論じて、すべての存在の「心の問題」を語ったが、本書を読了して、私の「心」観が、本書著者のそれと、かなり近いことを確認できたし、サブカルチャー作品などの趣味も、とても似ていることがわかった。

しかし、本書で特に共感できたのは、主に「犯罪者」や「性格異常者」を扱った第2章までで、それ以降の「広範なジャンルにわたる類似事例の紹介」には、やや期待はずれなものを感じさせられた。

きっと、こうしたユニークな「広範な類似事例の紹介」を面白く読んだ読者は多いだろう。だが、私としては、なまじ興味の範囲が似ていたために既知の情報も少なくなく、かえってそれほど面白いとは思えず、むしろ、もっと「決定論」の問題点を突き詰め、掘り下げて欲しかった、と感じたのだ。

具体的に言えば、第2章で紹介される「決定論」の「社会的重大性」について、良識的予防線を張って後退りするのではなく、「決定論が正しかったとすれば、あらゆる犯罪者は、ついていない(アンラッキーな)不幸な人であり、彼らを罰することは、社会的な報復以外の意味を持ち得ない」という「論理的帰結」の、その先を論じて欲しかった。

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(ヤン・トーロップ『宿命論』)

このことについて、もう少し説明しておいたほうが良いだろう。
「心理学的決定論」を「支持する」と言うのは簡単だが、本当にそれを支持しきることは、私たちにはできない。なぜなら、何度も書いているように、私たちはそれを「実感的に理解することができない」からだ。
「すべての犯罪者は、初めから犯罪を犯すように作られ、そうした環境にセットされた、必然的に犯罪者になるという不幸を課せられた、救いのない不幸な人たちである。そして、多くの場合、犯罪者の更生は望めない。なぜなら、彼の人格や性向は予め決定しており、人為的な矯正努力でどうなるものでもない。中には、変われる人もいるが、それも予め、変われると決まっていた例外的な存在であり、その意味では、実はその人も変わったというわけではないのである。したがって、多くの犯罪者に、更生を望むのは、もとより無い物ねだりに近い、反・決定論的な夢想にすぎない」という「決定論的な世界観」を受け入れることなど、絶対にできないからである。

これでも分かりにくいかもしれないから、さらに説明すると、こうした「救いのない決定的論的世界観」を受け入れた場合、私たちは、私たちのこの社会を「すべての犯罪を許容する(許す)社会」に変えるか、「犯罪者当人には、自由意志がなく、責任のないことを知っていながら、そのやむを得ない行為を、贖罪の犠牲的に罰することにする(情状は一切考慮せず、現象面と結果だけで判定して処罰する)社会」に変えるかの、二者択一しかないのである。だが、そんな「論理的であるがゆえに極端な、決定論に基づく社会」など作れるだろうか。そんな「非人情(=決定論)」に堪えられるだろうか。一一無論、それは無理であり、不可能事でなのである。

つまり私たちは、どこかで「個人の責任」と「環境的要因の責任」の間に線引きを設定しないではいられない。どこかで「罰するべき人間」と「許容すべき人間」の線引きをしなければならない。あるいは、「更生可能な人間」と「更生不可能な人間」との線引きをしなければならない。「線引きをする(何度でも線引きし直す)」とは、そのことで極論への「決定不可能性を保持する」ということだ。

「決定論」的に、犯罪はすべて「個人の責任」であり、犯罪者は「更生不可能」であり、したがって「許容すべきではない存在」であるなどと、「非情な判断」をするわけにはいかない。
私たちは、多くの犯罪者に対して「彼は不幸にも、先天的な性格障害を負っていた」ために、あるいは「不幸な生育環境」のために、「犯罪」に走らざるを得なかった「不幸な人」なのであり、「仮に先天性の性格障害がなければ、仮に不幸な生育環境がなければ」、彼は普通の人間として生きられたはずで、彼はいわば「被害者」なのだ。だから、そんな彼を、その犯罪行為のみを捉えて罰するのは、間違いである。彼に与えられるべきは「性格障害の除去」であり「真っ当な生活環境」なのだ一一といった「考え方」に共感するだろう。
だが、この考え方は「反・決定論」に立脚したものであることを、見逃してはならない。
私たちは「決定論」を信じていないからこそ「仮に○○であったならば、××であったろう。だから~」というふうに考えることもできる(考えうる余地を残す)こともできるのである。

だから「決定論的世界観」が、仮に「この世界の真相」であったとしても、私たちはそれを「真に理解する」ことはできないし、したがって、それに基づいた生き方をする(貫く)、あるいは社会を構成する、といったことも出来ないように出来ているのである。

そして、そうした「重さ」を認識できないままになされる、「決定論的世界観」を支持するだの支持しないだのといった議論など、悠長な戯言に過ぎなくなってしまうのだ。

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それではなぜ、本書著者は、このような過酷とも呼んでいいだろう「決定論」を信じたいのだろうか。
それは多分、彼自身が語っているとおり、彼の「生育環境」が大きいようだ。

『 21歳の夏、自分の生い立ちからくる辛さが、恋人との離別をきっかけに爆発し、鬱になった。自殺をする以外に自分には方法がないと思った。自殺をすることが自分の意志だった。楽になるにはそれしかなかった。中高の時にも何度となく自殺を考え、住んでいるマンションの14階から地上を眺めた。飛ぶかもしれない自分を確認するだけで、不思議と心が穏やかになり、実際に飛び出すことはなかった。リストカットでホッとする心理とおそらく同じだったのだろう。』
(P287~289)

私は、先に『本書を読了して、私の「心」観が、本書著者のそれと、かなり近いことを確認できたし、サブカルチャー作品などの趣味も、とても似ていることもわかった。』と、本書著者との「共通点」について書いたが、いくら「趣味」が似ていても、私と本書著者との決定的な違いは、ここにあることがわかった。一言で言えば、私は「幸せに育ってきた人間」なのである。

無論、自慢したいのではない。しかし、事実として私は「父に愛されてきた」という確信を持っているし、これまでの人生で「人に自慢できるような苦労はしたことがない。お金に困ったこともない」と思っているし、当然「自殺したいなどと思ったこともない」人間である。
だからこそ、「趣味」の部分で似ていても、それに対する向き合い方が、本書著者とはどこか違っていたし、そのあたりが原因となって、著者のスタンス(本書後半の書き方)に不満を覚えたのであろうと、気づいたのである。

私が、本書後半に覚えた不満、著者の決定論に関する「類似的事例の列挙」に対して、私が感じた不満とは、それが「自己防衛的」なものと感じられたためのものではないか。つまり、著者の「こんなに私の支持者はいるよ(守ってくれる人はいる)」という「誇示」的な姿勢が、私には「つまらない」と感じられたのだ。
私は、もっと「攻める(打って出る)」人間であり、「数に頼まず、権威を批判する」ことが好きな人間なのだ。だから、本書著者の「自己防衛に汲々とするような態度」に感心しなかったのではないか。

だが、これは多分「生育環境」から来る、致し方のない「世界への信頼度の違い」なのであろう。
私の場合は「恵まれた成育環境に由来する、世界に対する信頼の強さ」が根底にあるからこそ、大胆に世界に挑んでいくことができるし、そのことによって生きることの充実感を実感することもできる。
ところが、本書著者の場合は、その根底に「世界に対する信頼感の欠如(不信)」があるから、どうしても「自己防衛的」になってしまい、自分を守ってくれるもの、盾になってくれるものを、自分の周囲に集めて、それで「防御」を固めようとしてしまうのだろう。

ならば、本書著者が、一般的には「過酷なもの」と考えられる「決定論」を、わざわざ信仰的に信じるのは、なぜだろうか?

それは「自傷」や「自殺企図」と、似たようなものなのではないだろうか。
「決定論」を採用することで、彼は「もとより自分に、自由はない」「自分の責任ではない」と考えることができれば、その時彼は『不思議と心が穏やかになり、実際に飛び出すことはなかった。リストカットでホッとする心理とおそらく同じだったのだろう。』というわけである。

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著者が、どのような人であろうと、それが「心理学的決定論」の価値を左右するものではない。「真理」としては、「決定論的世界観」が「正しいか誤り」かしかない。いや、本書の議論で言えば、それは「両方が重なったもの」でもありえれば、「観察者によって、どちらかの真相に収斂する」類のものなのかもしれない。つまり、どっちにしろ「全能の神」ならぬ私たちには、その「真相」を認知することができないのだ。

だから、「心理学的決定論」は、今後も研究されるべきだし、われわれ門外漢は、それを「思考実験的」に楽しむのもいいだろう。

しかし、ひとつだけ忘れてはいけないのは、「真相」がどうであれ、私たちが現実には「決定論」の強いる「現実認識の厳しさ」には耐えられないだろう、ということである。
それくらいは理解した上で、リアルに「決定論」の可能性を考えなければ、そんなものは必然的に「観念的なお遊び」に終わらざるを得ないのである。

初出:2021年3月30日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年4月10日「アレクセイの花園」

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