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嘘つきによる嘘つき批判を〈偽善〉と言う。 : 元「左翼」佐藤優のウソ

書評:池上彰・佐藤優『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』(講談社現代新書)

『 被害額285億円で確定 昨年の特殊詐欺、警察庁調べ
  
警察庁は24日、昨年1年間の特殊詐欺統計の確定値を発表した。被害額は2月公表の暫定値より7億4千万円多い285億2千万円、認知件数は24件多い1万3550件だった。被害額は6年連続で減少した。
摘発件数は51件多い7424件で過去最多となり、摘発者数は37人少ない2621人で確定。警察庁の担当者は「高齢者を中心に被害が多く依然深刻な状況だ。注意喚起を進めるとともに、取り締まりを徹底する」としている。』

2021年5月24日 20:38、『日本経済新聞』nikkei.com

昔から、ずっとウンザリさせられてきたのは、特殊詐欺の被害者(あるいは、飲酒運転など)がいっこうに減らないという現実が象徴する「愚かな人ほど自信過剰(自分を知らない)」という事実だ。

高齢者が特殊詐欺の被害に遭ってカネを騙しとられたという話を耳にすると、若い人はもとより、すでに高齢に達している人ですら「歳をとって呆けたからだろう」とか「欲の皮を突っ張らせた年寄りが多いんだろう」などと考えがちであり、これはあながち間違いではないと、私も思う。

しかし、呆けていたり、欲の皮を突っ張らせているのは、何も高齢者だけではない。
若くても「呆けた」人などいくらでもいるし、欲の皮を突っ張らせてない人間の方が、むしろ珍しいだろう。

実際、各種のコマーシャル・メッセージによってでっち上げられた「流行」に、手もなく踊らされるような人間が、どうして「呆けていない」などと言えようか。
コロナ禍の最中に、莫大な予算を投入してまで強行された「国際大運動会」に熱中したような愚民が、どうして「呆けていない」などと言えようか。愚民でなくて、どうして、ひとつ間違えれば、自分の親や子供が入院もできないまま死んでいたかも知れない状況に置かれながら、それでも、やれ「卓球だ」、やれ「スケボーだ」、やれ「金メダルがいくつ」だとかいった、持て囃される当事者以外は、何の「儲け」にもならないことに熱中できたのか(愛国心? 笑わせるな)。

一一それは無論、その人が「呆けて」いるからである。きっと、生まれてからこれまで、ずーっと呆けていたのであろう。

したがって、本書によって、まんまと騙される読者が大勢いたとしても、なんの不思議もないことだ。

きっと、その読者は、この程度の本を読んでいる自身を、「思想」なり「歴史」なりに一家言のある「市井の知識人」だとでも勘違いしているのだろう。こういう人たちが大勢いるからこそ、特殊詐欺の被害者も、後から後から供給されて、詐欺犯たちが「カモ」の減少を憂慮する必要もないのだろう。

○ ○ ○

『 前著の『真説 日本左翼史 戦後左翼の源流 1945-1960』では、太平洋戦争後の左翼の歴史を扱うのに独特の枠組みを据えた。それは日本社会党と日本共産党の対立と競争を軸に据え、社会党という傘の下で新左翼諸党派が発展してきたという枠組みだ。この枠組みについては、日本共産党を宗教的に信奉する一部の読者を除いて、好意的に受け止められた。』

(P3)

これは、佐藤優による本巻「はじめに」の冒頭部分だが、ここで引っかからない読者は「呆けている」と言っても過言ではない。

なぜなら、佐藤はここで『日本共産党を宗教的に信奉する一部』の人たちを「盲信者」として見下しているが、その本人が正真正銘の「キリスト教信者(プロテスタント・カルヴァン派)」なのだから、「目糞鼻糞を笑うなのに、よくも臆面もなく言うよな」と思うのが、まともな(=論理的な)読者だからである。

もちろん、佐藤優が「キリスト教信者(プロテスタント・カルヴァン派)」であることを知らないとか、「キリスト教」のことや、ましてや「プロテスタント」や「カルヴァン派」のことなど、まったく知らない「ウブな読者」だったら、その「無知」の故に、佐藤を「盲信」しても、あるいは仕方がないのかも知れない。
そういう人は、自分が「無知」であることにすら、気づかないほど「呆けた」人だからで、将来の特殊詐欺被害者候補なのである(いや、すでに被害に遭ったことがあるかも知れないし、そのことに気づいていないだけかも知れない。なにしろ、呆けているのだから)。

しかし、佐藤が「キリスト教信者(プロテスタント・カルヴァン派)」であり、元「ロシア担当の外交官」で「インテリジェンス(情報活動)」にたずさわっていた人であると知っていながら、それでも佐藤が『日本共産党を宗教的に信奉する一部』の人たちを「盲信者」呼ばわりすることに、何の引っかかりを覚えない人というのは、「呆ける」以前に、そもそも「知性を欠いている」のであろう。平たく言えば、単なる「馬鹿」なのである。

さらに言えば、佐藤優は「キリスト教信者(プロテスタント・カルヴァン派)」でありながら、「創価学会・公明党」の絶賛提灯本を書いて、印税をがっぽり稼いでいるような、極めて「いい加減で無節操な人間」だし、評論家の佐高信(社民党支持者)が指摘したとおり『2016年3月2日付け『東奥日報』の電気事業連合会の『全面広告』に出て、『エネルギー安全保証の観点から原子力発電の必要性を強調』している。』ような人間である。
一一これはどういうことを意味するのか。

無論、佐藤優は「与党(自民党・公明党)」の側の人間であり、だからこそ、その「原発行政」も応援するし、そのおかげで、がっぽり稼いでいるような人間だ、ということである。
当然「共産党」敵視も、この文脈上のものであり、現在の「自公政権」にとって、馴れ合えないが故に最も面倒な「敵」とは、「共産党」なのだ。

佐藤優とは、要は「節操のない、私利私欲に生きる、権力の幇間(たいこもち)」だということである。

(佐藤優は「原発ムラ」メンバーの、御用文化人である)

実際、佐藤自身も「歳を取ってきたし、そろそろ保身に走っても悪くはない」という趣旨の本音を漏らしてもいる。

『 50代からは消極的に生きろ 佐藤優さん「人生は逆算」
                  (聞き手・岡崎明子)
 今年、還暦を迎えた作家の佐藤優さん(60)は、50代からは残り時間を逆算し、安易に新しいことには挑戦しない「消極主義」を主張する。人生100年時代。国は「いくつになっても新しいことにチャレンジできる社会を」と、一億総活躍を掲げてきたが、なぜ積極的に動いてはいけないのか。今年、50歳になった記者が聞いた。

新規プロジェクトは片道切符?(※ 見出し)

 一一後半人生を豊かなものにするためにも、様々なことにチャレンジすべきだと思っていたのですが……。

 「50代以降や定年後の生活に向けたメッセージの多くは、『まだ若いんだ、頑張れ』という方向のものです。でも頑張ると、無駄なところへのエネルギーの投入が過剰にされてしまうんですね。これは非常にまずいと思います。今は、頑張れと言われなくても頑張らざるを得ない。体がきく限り、働き続けなければならない状況だと、みなわかっています。そういう状況の中で、現実に近づくためには消極主義が必要なんです」

 一一具体的にはどういうことですか。

 「たとえば、会社などで、これまで全く関わったことがない分野のプロジェクトを任されそうになったら、うまく逃げることです」

 一一抜擢(ばってき)されて、任されたのではないのですか。

 「自分に合っている分野で、業績も伸びているなら別です。でも全く新しいプロジェクトって、会社も成功すると思っていないんです。うまくいかなかった時の責任を取らせる要員として、送られる可能性もありますからね。組織というのは狡猾(こうかつ)です。生き残った人だけを登用し、後は整理すればいいわけで、討ち死にする消耗品として使われる可能性もある。そういうところに自分が送られて、喜ぶな、ということです」

 一一でも断ったら、もっと条件の悪いところに飛ばされるのでは、と考えてしまうのがサラリーマンの性です。

 「自分の力がある程度あれば、適性から著しく乖離(かいり)したところには行かないでしょう。日本の組織というのはピラミッド構造なので、代表取締役や事務次官など、基本的に1人しか幸せにならないつくりになっています。椅子取りゲームから降りざるを得なくなったときに何が起きるかというと、心理学でいう『合理化』、つまりイソップ物語の『酸っぱいブドウ』です。自分はこの物語のキツネのようになっていると、突き放して見ればいいんです」

 一一人間関係はどう考えればいいですか。

 「選択と集中で、仕事関係の人脈は仕事において役立つか、役立たないかで割り切る。有益な人に絞り込むことです」 』

2020年12月17日 18時00分、朝日新聞デジタル

佐藤がここで何を言っているのか、お分かりだろうか?

要は「背伸びして無理なんかするな」「直接的な利益をもたらしてくれるやつとだけ付き合って、自分を守れ。何も恥じることはない」という、「保守のススメ」である。

つまり、佐藤は「50歳にもなれば、もう自分の力量はだいたい分かっているはずだから、無理に頑張って今の立場を危うくするようなことをしてはいけない」と、「他人に助言する」風に見せかけて、じつは「守り」に入り始めた自分、これまでの「ご立派な意見」を捨てようとしている自分を、「自己正当化」するための「アリバイ作り」をしているだけなのだ。

だからこそ、これまでは「左右両派」に良い顔をしてきたけれど、これからは無理に「左」につきあう必要はないと考えている。
例えば、沖縄出身者として「普天間基地反対(辺野古沖埋立反対)」を口で唱えるだけならするけれども、「行動」で示して見せろなどと要求してくるような、面倒な「左翼」とつきあわなくてもいい。「昔は昔、今は今」で、若い頃の自身の「放言」になど、いちいち責任など取らなくていいと、そう言いたいのである。

だからこそ、佐藤としては「創価学会・公明党」の絶賛提灯本を書き、印税をがっぽり稼いで「何が悪い」。『電気事業連合会の『全面広告』に出て、『エネルギー安全保証の観点から原子力発電の必要性を強調』して』、がっぽりとカネをもらって「何が悪い」となる。

(ほとんどの著書は『全力を尽して』いないらしい)

また、そうした「不都合な事実」をバラした佐高信に対し、言論人として「反論」するのではなく、「名誉毀損罪(事実の告示でも成立)」で「スラップ裁判」を起こして「口封じ」することの「どこが悪い」と、そう言いたいのである。

「過激にして愛嬌ありの情報サイトZAITEN」2021年07月号

そもそも、そうした「背教者」でなければ、「キリスト教信者(プロテスタント・カルヴァン派)」たる佐藤が、創価学会の「池田大作SGI会長」を「再偶像化」するための提灯本を、いまさら書いたりなどしないだろう。
旧約聖書に描かれた「モーセの十戒」にある「偶像=偽の神」崇拝の禁止では、自分がそうした「偶像」を崇拝することだけではなく、他人に「偶像」を与えることだって、「罪」になるのは言うまでもないことなのだ。

だが、佐藤のやっていることは「池田大作の再偶像化」なのである。
当然、カルヴァン神学からすれば、こんなことをする佐藤優は、最初から天国へ入れないことが「予定」されていた、ということになるだろう。
佐藤自身も、もはや「神の国」入りを諦めているはずだ。だからこそ、「この世」での安寧に、しがみつくのである。

したがって、ここまで「証拠の揃ったペテン師」である佐藤を、それでも、その「有名性」や「物知りぶり」に感心して「信じてしまう」というのは、その人(読者)が相当「呆けている」からに他ならず、最早そこでは、年齢などは関係はない。その人はきっと、生まれてからずーっと「呆けた人」だったのだ。

○ ○ ○

無論、本書で語られている「左翼の歴史」が「事実無根のでっち上げ」だということではない。
「巧妙な嘘」というものは「99パーセントの真実と、1パーセントの嘘」によって出来ているからで、だからこそ、多くの人を騙すこともできるのだ。

だから、「ほとんど真実」を語っていても、それで人を騙すことは容易にできるし、詐欺師はみんな、そうしたことを当たり前にやっている。人を「騙す」のに、「嘘」は少ないに越したことはない。その方が「ボロ=破綻」が出にくいからだ。
そして多くの人は、99パーセントに惑わされ、99パーセントに紛れた「1%の嘘」を、見抜く力など持っていないのである。

例えば「こんな素晴らしい事業があって、目端の利く人はすでに投資をして儲けている。今がその最後のチャンスだ」という投資話があったとして、この投資話が「すべて真実」だとしても、その話を持ち込んできた人が、その事業の関係者を装ったペテン師であったなら、結局のところそれは「詐欺」でしかなくなるのと同じことなのだ。

また、芥川龍之介が「藪の中」で描いたように、「事実」というものは「語り手」の「視点」によって、如何様にも変形するものであり、ある人にとっては「イエス・キリストは神である」のと同様、ある人には「池田(大作)先生は日蓮大聖人の生まれ変わりであり、本仏だ」ということになるし、それぞれの信者たちにとっては、それが「当たり前の真理であり現実」だということになってしまう。

したがって、佐藤優という、明らかに「偏った人」による「偏った左翼史観」も、その信者には「現実」として、「盲信」的にありがたがられることにもなるのだし、「理想主義的で理論的だったはずの左翼が、いつの間にかテロリズムに転じてしまうのは、彼らが、人間とは理屈では割り切れない部分を抱えた存在だという事実を、理解していなかったからだ」(P209)などという「常識的議論」にまで、いまさら感心してしまうのである。

本書が「佐藤優による意図的なバイアス」のかかった、党派的な「左翼」観である、と分かって読むのなら良い。
そして、佐藤の「左翼」理解と対立する、別の立場の「左翼」理解の書を、読み較べるくらいのことをする人なら良いのだが、「呆けた」人たちというのは、そこまで「反省的」ではなく、目の前にぶら下げられた「エサ」に食いついてしまうような、カエル脳しか持っていないというのが、残念ながらおおかたの事実なのだ。

例えば、本書の前巻について、Amazonのカスタマーレビューには、現時点で「222」の評価が与えられいるが、この222人の評価者から「日本共産党の支持者」を除いた、残りの大半の人々の中で、「宮本顕治」や「不破哲三」の著作を読んだことのある者が、いったい何人いるだろうか。

たぶん、一人もいないのではないかと私は思う。

例えば、私自身が創価学会員だった昔、敵視していた「日本共産党」側の本を読んでいる人は、皆無だった。創価学会員は、「宮本顕治」や「不破哲三」の本を読んでいる暇があれば、池田(大作)先生の本を読むのが当然だし、他宗派の「教学書」を読んだことがなくても、創価学会が刊行していた『折伏経典』だけを頼りに「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」などと決めつけて批判することに、何の疑問も持たなかった。
そしてこうした「盲信」による知的怠惰は、創価学会員や共産党員だけではなく、キリスト教徒や、佐藤優信者とて、まったく同様なのだ。

(一般会員には伏せられているが、創価学会はもともと「反戦」ではなかった)

したがって、本書の内容を「鵜呑み」にするような人は、「思想」や「政治」というものを全く理解していない、きわめて「ナイーブ」な人である、と言えるだろう。平たく言えば、「馬鹿」であり、「呆けている」人なのである。

そんなわけで、警察だって『私は詐欺に引っかからない! そんな確証バイアスが最も危険!』なんていうメッセージを、長らく繰り返して発し続けているが、それでも「カモ」は、後から後から、引きも切らせず生まれてくる。

こんな、わかりやすく胡散くさい「著者」によって書かれた本の内容を、それでも著者の「有名性」において「鵜呑み」にするような読者は、詐欺被害者の予備軍に違いない。
よって今後も、おまわりさん達にはご苦労をかけるが、頑張ってもらうしかない。

最後に、ついでながら書き添えておくと、佐藤優の「役に立つ友人(共犯者)」である池上彰も、本質的には信用ならない人物と考えるべきだ。
「わかりやすい」とは「単純化されている」ということであり、そこに「罠」がある。要は「わかりやすければいい」というものではないのである。

(2021年12月22日)

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