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高橋昌一郎『フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔』 : フォン・ノイマンという〈善悪の彼岸〉

書評:高橋昌一郎『フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔』(講談社現代新書)

もうすっかり忘れてしまっている人もいるはずだ。そんな人はきっと、わが菅義偉総理が「私には任命権があるのだから、任命するかしないかを判断する権限がある」と、そう言い放った言葉に「なるほど」と思ったのではないだろうか。

だが、それは「日本学術会議」という団体についての「無知」に由来する、大きな心得違いである。
「日本学術会議」は、科学者たちが、「学術」の、先の戦争における国家権力との癒着、国策としての戦争利用を、反省したところから出発した団体である。
そのことを知っておれば、政治権力者に「(人事)選択権」などないのは、自明な話なのだ。あるのは、従来の解釈どおり、形式的な任命権だけで、それ以上ではない。それ以上であってはならないのである。

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そして「日本学術会議」が強調して言う「学問の自由」とは、「学者個人の自由」の話ではなく、「学問そのものの自由」ということだ。
「学問」は、国家権力や個人の欲望に縛られて、恣意的に利用されてはならず、人間社会において、相応の責任を負った知的探究の成果として、すべてに開かれていなければならない。それが「学問の自由」。だからこそ、研究成果の秘匿を前提とするような、兵器の開発研究など許されないのである。

そして、フォン・ノイマンの問題も、こうした点において「今ここの問題」だ。

本書は、きわめて「良識的」な観点から、ノイマンという「異形の天才」の生涯を紹介し、論じている。
それは、著者が、責任ある日本の哲学者であり論理学者として、「科学」や「科学技術」のあり方に関わってきた人であることを考えれば、当然のことだ。

「日本学術会議」には、「理系」ではなく「文系」が多い、などと非難がましく言う人がいるが、これ(文系が多く含まれるの)は当然なのだ。
周知のとおり、科学研究には多大な「お金(研究費)」がかかる。しかし、銭儲けに直結しない研究については、国家がこれを助成するしかないのだが、そこで科学技術研究は、しばしば国家のヒモ付きとなってしまい、科学技術バカの研究者なら、自分の好きな研究さえできるのなら、その研究成果がどのように使われようと「そんなこと知ったこっちゃない」と、そんな人も必ずいるだろう。もちろん、そう公言することは憚られるが、本音はそうだという人は少なくないはずだ。

そして、科学技術研究者には、そういう「研究バカ」も決して少なくないからこそ、原水爆などの科学・化学兵器が作られてしまったのだし、ノイマンが関わった「マンハッタン計画」なんかが、その象徴的事例なのだ。

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「科学バカ」にだけ任せてはおけないからこそ、「文系脳」も必要となる。だから、「日本学術会議」は、「科学者」中心に設立されながら、今では多くの文系学者を抱えることになったのである。

私たち日本人が、フォン・ノイマンの問題を考える場合、彼を「倫理的」に批判するだけでは不十分だし、無論、彼の「天才ぶり」を賛嘆するだけというのは、論外である。
まして、天才ノイマンについての「豆知識」をひけらかす事で、自分も偉くなったように勘違いする自己満など、話にもならないのだが、ニーチェだハイデガーだ、ドゥルーズだデリダだといった文系知識人では新味に欠けるから、ノイマンだチューリングだゲーデルだと理系知識人の方が、ひけらかし甲斐もあってありがたいという人も、じじつ大勢いるだろう。
だが、そんなことで満足できる人というのは、「ノイマンというアポリア」について、何も考えていないし、何も学ばなかった、ということなのではないだろうか。

例えば「自分がノイマンのような頭脳を持って生まれてきたとしたら、果たして、他の人間がどのように見えるか」とか、「倫理や人道主義といったものが、どう見えるだろうか」と、それくらいのことも考えないでは、ノイマンという人と「読書を通じた対決」をしたことにはならないだろう。

つまり「あれは確かに天才だけれど、魂を欠いた悪魔だ」とか「いくら頭が良くても、人の心を持ってないんではねえ」などと、ほとんど何も考えていない「紋切り型の正論」だけで、何やら自信満々に、ノイマンを斬って捨てられると勘違いをしている人というのは、ノイマンに、その人当たりの良い笑顔とジョークの陰で、見下されてもしかたのない、「議論するに値しない人間」ということになるのである。

本書著者は、ノイマンを「人のフリをした悪魔」と呼ばれた男として批判しており、その批判はまったく正しいのだけれども、決してそれで十分とは言えない。
そもそも「悪魔」は論理的であり、ノイマンもまた徹底的に「論理的」だったからこそ、「悪魔」になってしまった、とも言えよう。言い換えれば、私たちは「頭が悪いから」悪魔にならずに済んでいるだけ、なのかもしれないのだ。
一一それくらいの自己懐疑は、持っていいはずだ。

そして人は、「論理」的であること「明晰」であることを求めながらも、しかし、そうした欲望とは矛盾する、「割り切れなさ」への「執着」というものにおいて、「人間らしい人間」でいられるのではないか。
多くの文学者たちが描き出した「偉大なる魂」というものは、決して「シンプルに論理的」なわけではなく、むしろ「引き裂かれた魂」だったのではなかったか。つまり、善かれ悪しかれ「人間」は、矛盾した存在であり、そうあらざるを得ない存在なのではないだろうか。

そんなふうに考えていけば、フォン・ノイマンという人を、一言の下に肯定したり否定したりするというのは、間違いであろう。彼は、その「たぐいまれなる知性」によって、呪われ狂わされた、不幸な人だったのかもしれないではないか。
そして私たちは、たまさか「頭が悪い」から、その内なる「悪魔」の発現を見ていないだけだと、そう考えるべきではないだろうか。

多くの人が「地位や権力」を手にした途端、傲慢に他の人々を見下して、私利私欲に走る「悪魔」になってしまう。しかし、そんな彼らも、何も持たなかった時には、きっと「普通の人」だったに違いないのだ。

だから、私たちは「所詮、ノイマンは頭が良いだけ(だが、私は違う)」だなどと、ノイマンを、自分の「うぬぼれ鏡」として使うのではなく、「もし私に、ノイマンのような頭脳があったなら」と、そう問うべきなのである。「それでも自分は、愚かな人々の側につけるのか?」と。

私たちは、フォン・ノイマンという〈異形の鏡〉に、自身を映してみるべきなのだ。

初出:2021年2月27日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)

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