見出し画像

寄川条路 編『表現の自由と学問の自由 日本学術会議問題の背景』 : 大学と大学教師の〈現在〉

書評:寄川条路 編『表現の自由と学問の自由 日本学術会議問題の背景』(社会評論社 )

先日、佐藤学、上野千鶴子、内田樹 編『学問の自由が危ない 日本学術会議問題の深層』(晶文社)を読んだので、「日本学術会議問題の背景」というサブタイトルの付けられた本冊子も読んでみたのだが、本冊は本来「日本学術会議問題」を論じるために編まれたものではなかったようだ。

画像4

本冊は、編者である寄川条路が、勤務先である明治学院大学を批判する内容を含む授業をしたという理由で解雇された「明治学院大学事件」を発端として、同氏が編んだ「大学と学問」の問題をテーマとした論文集シリーズの、第4集となるものなのである。
したがって、直接的に「日本学術会議問題」を扱っていない論文も含まれているが、近年の政府主導による「大学改革」以降の「大学と大学教師と学問の自由」の問題を扱って、文字どおり「日本学術会議問題の背景」をなす「大学(を中心とした学問世界)の現状」を論じた論文集だと言えるだろう。
その意味では、(サブタイトルに引っ掛けられたという感もないわけではないが)たしかに「日本学術会議問題」を考える上で、とても参考になる論文集だったとは言えるだろう。

ちなみに、シリーズの前3冊のタイトルは次のとおりで、シリーズの方向性がおおむねご理解いただけよう。
 (1)『大学における〈学問・教育・表現の自由〉を問う』
 (2)『大学の危機と学問の自由』
 (3)『大学の自治と学問の自由』

画像1

さて本冊には、編者と(元を含む)大学教員6人の論文が集められている。
編者の呼びかけに応えて、原稿を執筆したメンバーのものであり、当然のことながら、基本的な方向性としては、編者である寄川にかかわる「明治学院大学事件」について、大学側のやり口(授業の無断録音と、それを証拠としての解雇。裁判における、無断録音の違法性と解雇不当の認定、和解勧告により、原告への賠償と原告の自主退職、といった経緯など)に対する批判的な立場と、「日本学術会議問題」での菅首相の「任命拒否」に対する批判的な立場を、おおむね共有していると言えるだろう。

「おおむね」というのは、最後の論者である渡辺恒夫(1946年生、東方大学名誉教授)の論文「学問の自由と民主主義のための現象学」だけは、リベラルな「日本学術会議」に対して批判的だからだ。

渡辺は、同論文末尾に付された「付記」の最後を、

『 以前某学会の役員をしていた頃、学術会議会員学会枠が回ってきて推薦をしたことがあったが、いつのまに現任会員が公認を推薦するように変わってしまった。今時現任が後任を推薦する人事など北朝鮮である。どっちもどっちだ。』(P108)

という、年甲斐もなければおとな気もない「捨てゼリフ」で締めくくっているところや文章の乱れなど、「ちょっと大丈夫ですか、お爺さん」と言いたくなるものになってしまっている。

画像2

ここまで言う理由は、当然ほかにもあるのだ。
「付記」こんなことを書いているのなら、論文本体で何を書いているのかといえば、要は「マルクス主義は本質的に、学問の自由を認めない。私は昔、左翼セクトのオルグを仕掛けられた際、その左翼活動家を論破してやったが、その時も、相手からその独善的な本性を窺わせる捨てゼリフを吐かれた。その後、マルクス主義が衰退してからは、マルクス主義とフロイト心理学が結びついたフランクフルト学派などが活躍したものの、その本質はずっと変わっていないし、それらが今はリベラルを名乗っている。だが、現在も学問世界に深く浸透したマルクス+フロイトではなく、フッサールに始まる現象学こそが、民主主義の原理となり得るものなのだ」というような「お話」である。

まあ、ひと昔前に「左翼学生運動」にイジメられた人なら、こうした恨み骨髄というのも気持ちとしてはわかるのだが、こと「学問」の話としては、まったく説得力がない。と言うか、中身が無く、断言のみなのだ。

『オルタナティヴを呈示しない限り、日本の大学人やマスメディア関係者は、「リベラル」を自称したとしても、いつまでもマルクス主義という卵の殻を知らずしてお尻につけたままになってしまう。「左」が正義で「右」が悪だという、ベルリンの壁崩壊以前の硬直した価値観を引きずったまま、時代に取り残されてしまう。そして、「リベラル」の衣の下に「左翼」的な鎧をどうしても感じ取ってしまう人々は、選挙のたびに自由民主党に投票することをやめないだろう。
 (中略)
 オルタナティヴはあるのか。ある。それが現象学だ。リベラルな自由主義的民主主義の基礎としては、フランクフルト学派などよりフッサールの創始した現象学こそふさわしい。
 フッサールの現象学はそのままでは難解なので、ここではフランスの現象学者リクールが、先に挙げたフランクフルト学派のハーバーマスとの論争の中で鍛え上げた思想をもとに、重要なポイントを一つだけ取り上げておこう。』(P106~107)

『 そして(※ 現象学においては)、私の視点、私の地平と、あなたの視点、あなたの地平の間には、優劣の関係は一切ない。すべてが平等な、フラットな関係なのだ。』(P107)

『 そもそも現象学には「虚偽」と「真理」の区別はない。そのような区別をするには神の視点を必要とするからだ。あるのは見方が一面的か多面的かの別だけだ。そして、より多くの視点を取り込むことでより多面的な見方ができるという、地平融合への無限のプロセスは、誰にでも、今、すぐ、ひらかれている。
 長くなるので現象学の解説はこれだけにするが、現象学こそ民主主義の基礎とするにふさわしい考え方であるという、一端が少しでも伝われば幸いである。』(P108)

渡辺の説明によると「あなたと私の視点と地平に優劣はなく、虚偽と真理の区別ないのが、現象学である」のだそうだ。
現象学の説明が、これで正しいのかどうか、門外漢である私にはわからないが、ただ、渡辺が「現象学」を身につけていない、ということだけは確かなようで、こんな文章では、ネトウヨ以外、誰も説得することなどできないだろう。そんなことすら自覚できていないという点で、「渡辺先生、大丈夫ですか?」と言いたくなるのである。

ちなみに、翻訳書だけでも『ポール・リクール聖書論集 死まで生き生きと 死と復活についての省察と断章』『ポール・リクール聖書論集2 愛と正義』『ポール・リクール聖書論集3 物語神学へ』『リクール 聖書解釈学』といった著作があることからも明らかなように、ポール・リクールは「神」を持った人である。「左翼」とはウマが合わなくても、不思議ではない。

そんなわけで、本冊は、じつにバラエティーに富んだ論文が集まっており、その内容もピンキリである。
だが、編者は「学問の自由」を考える上で、どんな意見であろうと、ひとまず発表する場所を奪われてはならないと訴えているので、本冊に、上に紹介した「日本学術会議」に批判的な「渡辺論文」が掲載されているというのは、編者の「有言実行」を示すものだと評価することもできよう。

ともあれ、大学教授と言ってもいろんな人がいて、大学内でも(特に昨今は)色々あるというのが、うかがえた点では、たいへん興味深く参考にもなる論文集だったと言えるだろう。
また、最後に念のため申し添えておくが、本冊所収の論文のほとんどは、良くも悪くも、大学の先生らしい「まともな論文」である。

初出:2021年4月16日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年4月26日「アレクセイの花園」

------------------------------------------------------------------------

 【補論 どちらが真相なのか、説明責任を果たすべし】
 (2021年4月20日)

レビュー本文に紹介したとおり、本冊所収の論文「学問の自由と民主主義のための現象学」において、著者の渡辺恒夫(1946年生、東方大学名誉教授)氏は、日本学術会議を次のように批判していた。

『 以前某学会の役員をしていた頃、学術会議会員学会枠が回ってきて推薦をしたことがあったが、いつのまに現任会員が公認を推薦するように変わってしまった。今時現任が後任を推薦する人事など北朝鮮である。どっちもどっちだ。』(P108)

ところが、私が現在読んでいる最中の、『日本学術会議会員の任命拒否 一一何が問題か』(花伝社)で、著者の小森田秋夫氏は、「日本学術会議の会員推薦選考システム」について、次のとおり、前記渡辺の見解とはまったく異なる説明をしている。
なお、小森田氏は「日本学術会議連携会員/元日本学術会議会員・第一部長」である。

画像3

『 選考手続は、会員・連携会員による推薦と協力学術研究団体による情報提供にもとづく会員候補者のリストアップから始まる。各会員・連携会員は二名ずつの科学者を推薦することができ、第二五~二六期の場合、約一三〇〇名の候補者が挙げられた。また、各協力学術研究団体は六名以内について情報提供を行うことができ、同じく約一〇〇〇名の情報が集められた(二〇二〇年一〇月二九日の記者会見)。推薦書には、推薦理由、候補者の学歴・学位・職歴、専門分野、国内外の所属学会、主要な学術論文・著書・特許等の学術的業績、主要な受賞歴などを記載することになっている。これらの候補者の中から、三つの部ごとの選考分科会、次いで全体の選考委員会による絞り込みが行なわれる。そのさい、分野横断的分野や新しい学問分野を考慮にいれることを目的として、一定の「選考委員会枠」が設けられている。選考委員による選考結果を踏まえて幹事会が候補者を決定し、総会が承認したのち、内閣総理大臣に推薦される。連携会員も、ほぼ同様の考え方で候補者が選考され、幹事会の決定にもとづいて会長が任命する。』(P20~22)

『 会員になることについても、会員であることについても、「既得権」とは無縁である。研究資金の配分に影響力があるかのように見るのも誤解である。学術会議は、〇四年(※ 規約)改正以前は科学研究費補助金(科研費)の審査委員の推薦を行っていたが、現在ではこの制度は廃止されている。菅首相は、「会員の推薦がなければ会員になれない」ことを問題視し、会員の推薦を「会員とのつながり」と理解していることを示す発言を繰り返している(十一月二日、衆議院予算委員会など)。しかし、推薦とは、上記のように「優れた研究または業績」を示す客観的なデータを示して行われるのであり、最終的な候補者は何重もの絞り込みを経て決定される。特定の会員が、個人的な「つながり」をもった科学者を会員にする力をもつ、ということはありえない。会員には連携会員を経ている者が多いのも、連携会員が会員とともに学術会議の活動を実際に担っている経験者であることから見て、自然なことである。』(P25~26、「※」は引用者補足)

どちらが「事実」なのか、まずは批判した渡辺恒夫氏に、あのように批判した根拠を、事実に即して説明してもらいたいと思う。
あのような文章を公にした以上、当然、渡辺氏には「説明責任」があるから、「大学と学問」シリーズの第5集でもいいので、ぜひ「いつどこで誰がどのような形で推薦したから、そのように判断したのだ」という、具体的に事実を摘示した説明文を公にしてもらいたい。合わせてそれを、日本学術会議や小森田氏にも送付してもらいたいと思う。

また、本冊編者の寄川条路氏には、掲載責任者として、渡辺氏に「説明論文」を書くように求め、その論文を公にすることで、掲載者としての「説明責任」を果たしていただきたいと思う。

これは、渡辺氏か小森田氏のいずれかが「嘘」をついているか、あるいは「誹謗中傷」をしているのではないかという話にもなりかねない問題である。
本冊のサブタイトルに、わざわざ「日本学術会議問題の背景」と冠している以上は、「日本学術会議」の信用にも関わる問題でもあるから、是非とも早急に善処していただきたい。

(2021年4月20日)

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○



 ○ ○ ○











この記事が参加している募集

読書感想文