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〈今ここ〉にある、自由の危機(Amazon検閲合格版)

書評:集英社新書編集部編『「自由」の危機 息苦しさの正体』(集英社新書)

本書は、「日本学術会議員の任命問題」に端的に表れた、現今の日本における「自由の危機」についての、論文アンソロジーである。

26人の論者が寄稿しており、それぞれ決して長い論文ではないものの、いろんな論者がいろんな角度から、それぞれの危機意識に応じて論じており、この問題が、単に「日本学術会議」という「知的エリート集団」に限られた話ではなく、私たち「一般市民の自由」にも深く関わる問題であることを教えてくれる。

例えば、小説家の村上由佳は、わりあい私たちに近い視点から、次のように書いている。

『 いま現在、私たちはとりあえず民主主義の国に生きている。
 そのせいだろうか、〈自由〉について考える機会はそう多くない。足枷や鎖で地下牢にでもつながれているなら、一度でいい、青空の下を歩き回りたいと願って当然だけれど、そうでもない限り、自分が今どれほどの自由を手にしているかなど意識する必要もない。目に見えないもののことを考えるのが、どうやら私たちは苦手なようだ。
 ふだん意識しないものだから、そこにあって当たり前と思いこんでしまう。意識しないものだから、失われる可能性について考えが及ばない。何より、多くの人々はこのことを、たちまち我と我が身に降りかかる問題だとは思っていない。誰かの自由が奪われるのをその目で目撃してさえも、今これを許してしまったならいつかこの先で自分の自由も奪われる、ということを想像できないのだ。
 そして一方では、危機感を抱いて発言する者のことを揶揄し、嗤う。どうして平気でいられるのかわからない。いわゆる正常性バイアス的なものが働いているのかもしれない。
 二〇二〇年の十月、日本学術会議が新会員として推薦した候補者のうち数名が任命拒否された時、私はSNSにこんな呟きを投稿した。

 ここまで来たらあとほんのひとまたぎじゃないかしら。たとえば身を削って書きあげた小説が突然発禁を食らい、お上にいくら理由を訊こうが答えてもらえず「法に基づき適切に対応」とか言われるところまで。
 水はいきなり煮え湯にならない。火を消し止めるなら今だ。』(P235〜236、「文化芸術の自由は誰のためにあるのか」より)

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本書でも何人かの論者が指摘しているように、「日本学術会議員の任命問題」に関する、「世間」の反応は鈍かった。
「所詮、自分たちには関係のない、偉い人たちの既得権益の問題だろう。むしろ、ザマアミロだ」という感じだった人も、決して少なくなかったはずだ。なにしろ、日本学術会議の会員の著作を読んだことのある人など、百人に一人もいないのだから、自分の命に直接に関わる「コロナウィルス問題」とは、その切実さが違うのだ。

しかし、「日本学術会議員の任命問題」に対する、菅義偉首相の、木で鼻をくくったような「説明にならない説明」を聞き流していた人でも、自分の家族がコロナウィルスに感染したとか、飲食店を経営していて、時短営業要請や酒類提供自粛などを求められて収入が激減したのに、補助金もろくに出ないとなれば、菅首相の「説明にならない説明」を平然と聞き流すことなどできないはずだ。

事ほど左様に、私たちは「危険」が自分の身に及ばないかぎりは、なかなかそのことには気づかない。
しかし、他の天災人災と同じで、その危険が現実のものとなって我が身に及んだ時には、すでに遅いのである。一一後悔は、先に立たないのだ。

だから、「自由の危機」もまた、決して他人事ではない。

仕事を奪われ、日々の食事にも事欠くような人がとても増えているが、そうなった彼らには、もはや「自由」などない。
だが、そんな人たちの姿を見ても、私たちの多くは、まだどこかでそれを「他人事」としか思っていない。
私たちは、それほどまでに、鈍感で愚かなのだ。

だから、せめて、人の話に耳を傾けてみよう。
テレビをボーッと眺めているだけでは、私たちはきっと変われないのだから、せめて活字を追う努力くらいはしてみよう。そうすれば、自ずとその中で、私たちは「考えている」はずだ。

本書に書かれていることは、さほど難しいことではない。
しかし、それを「我が事」として読むことが難しいのだ。

他人の意見にケチをつけているだけでは、私たちは、私たち自身に迫っている「危機」に気づくことはできない。
いやむしろ、人がそんな「無駄話」や「無駄事」に興ずるのは、「嫌な現実」から目を逸らすためなのだということに、そろそろ気づくべきなのではないだろうか。

初出:2021年7月19日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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