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佐高信『佐藤優というタブー』 : 〈薄く広くかつ創造性なし〉が、クイズ王・佐藤優の本質

書評:佐高信『佐藤優というタブー』(旬報社)

佐藤優が、「物書き」として「二流」であるというのは、「読める読者」には、わかりきった話である。だから、佐藤と仲良くしてる言論人というのは、おおむね「ジャーナリスト」や「学者」であって、「文学者」や「文学・思想系の評論家」ではない。

「ジャーナリスト」や「学者」にとって、まず大切なのは、「よく知っていること」であり、それを前提とした「当たり前のコメント(意見)」ができることである。
つまり、一般読者や視聴者が、一読(一聴)しただけではとうてい理解できないような「深い」ものは必要ないし、そういうものでは困るのだ。むしろ、テーマそのものに沿った「ひととおりの、わかりやすい表面的な説明」と「良識的なコメント(意見)」、要は「当たり前のコメント(意見)」に止まったものの方が、一般の読者や視聴者には「うれしい」ものだし、ウケるからである。

例えば、佐藤優と仲のいい、池上彰などが、そのわかりやすい実例であろう。池上の長所は、まず「わかりやすい説明」であり、その次に「リベラルで良識的なコメント」である。
私もリベラルだから、池上さんの「意見」にはたいがい賛成だし、彼の「わかりやすい説明」も、詳しくないジャンルについては、じつにありがたい。しかし、池上彰の「意見」や「著作」は、そうした意味で「勉強になる」ものではあっても、ぜんぜん「深い」ものではないし、知っているジャンルについてなら「当たり前のことしか言っていない」ということにしかならないのだ(むろん池上には、その自覚があろう)。

そして、これは佐藤優についても言える。
佐藤は「博識」なので、たいがいの人にとっては、未知のジャンルについて「勉強」する際の「わかりやすい入門書」的人物であるという意味では、たいへん重宝で、ありがたい。
しかし、個々のジャンルにおいては、読み込むほどの「深い中身」を持っているわけではなく、あくまでも「入門時の、取っつきやすい通過点」でしかないだろう。そうした意味で、佐藤優ばかり読んでいる人というのは、物事を「深く」考える習慣がなく、「知識を消費する」ことと「知的である」ことの区別がつかない人たちなのである。一一つまりこれが、佐高信の言う「雑学クイズ王」の意味だ。

そのため、非凡な深さや独自性が売り物の「文学者」や「文学・思想系の評論家」といった人たちは、未知のジャンルを勉強するための「入門書」として佐藤優を読むことはあっても、佐藤そのものを、高く評価することはない。
喩えば、新しい電化製品を購入した際には、「解説書」があるとありがたい。ぜんぜん「深い内容ではない」けれども、初心者には、その「当たり前のことを当たり前に解説しているだけの、初心者向け解説」が、その時点(入門時)では、とてもありがたいのだ。
同様に、佐藤優の「ありがたみ」も、この種の「ありがたみ」でしかない。だから、そのことを理解できる、「表面的な知識の開陳(ペダントリー)」に惑わされない程度の「読解力」を持つ人たちは、ことさら佐藤優を評価することもないのである。

つまり、佐藤優を「高く評価する」人たちというのもまた、同類の「クイズマニア」でしかない。
「いろんなことをたくさん知っていて、ひととおりの説明ができる」ことが「賢い」と思えるような、「浅い」知性しか持っていない人が、同類である佐藤優を、ことさらに持ち上げるのであって、彼らに物事を「深く読み込む」力があれば、「表面的にきらびやかなだけで、深みがない」佐藤優やその著書を、ことさらに持ち上げることなど、するわけもないのである。

例えば、佐藤優がプロテスタント信者であり、「神学者」を自称する人として、自身の代表作と自負する(たぶん唯一の「挿し函入り上製本」である)『宗教改革の物語』ですら、その内容は「とおりいっぺん」のものでしかない。つまり「初心者向け」の域を出ないシロモノだ。

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私は同書について、2019年4月9日にAmazonレビュー「勉強にはなるが、名著ではない。」をアップしているが、その段階で、すでに下のとおり「佐藤優は、大した作家でも思想家でもない」と断じている。

『さて、著者の佐藤優は、外交官をやっていただけあって、現実的社会感覚はあるので、その説明はわかりやすい。その点で、本書は買いである。
しかし、物書きとして見た場合、構成力不足が目についてならない。つまり、1冊の本としての読ませるだけの、自然な流れ(構成)を作ることができず、思いついたことから順番に書き足していって、どんどん増築していくウインチェスター・ハウスのごとき本になってしまっているのだ。

この不手際を「神学書とはそういうもの」だとか「神の顕われ方の形式的模倣」だなどと説明する好意的な人もいるが、私は単純に構成力不足だと、客観的に判断する。
それは、本書もそうであるように、佐藤の本は「繰り返し」が多いとか、しばしば「引用文」が全体の半分にも達するようなものが少なくなく、しかも個々の引用文が長い、という(コピペ依存的)問題にも表れている。要は、自分の言葉で語るのではなく、他の権威者の言葉を、自分の言葉の代弁として利用するのが習慣化しているということなのだが、これは単なる「紹介者」としてなら許させるのかもしれないが、物書きとしては二流と判断されても仕方がないと思う。
佐藤は、博識の人で、いろんなことを知っているのは間違いないが、それを十分に整理できていないのではないだろうか。だからこそ、断片的な話は面白いが、まとまった独自性のある論説が書けない、ということなのかもしれない。その意味で、佐藤はたしかに「対談」向きの人なのだろう。

もちろん、佐藤本人としては、自分を売るために物書きをしているのではなく、神に与えられた使命を果たすために、自分の持てるものを社会に還元しているのだからそれでいい、ということになるのかも知れないが、「作品としての本」を評価する者の立場としては、そうした消費材的なもの(実用書的なもの)を、「思想的な作品」として高く評価することは出来かねるのである。』

そんなわけで、佐藤優は、佐高信の言うとおり『雑学クイズ王』に過ぎないし、そのファンも「雑学自慢ファン」に過ぎないと言えるだろう。そうした読者は、あまり「深い」本を読んでいないし、読んでいても「とおりいっぺんの表面的な理解」としての「雑学的知識」を身に付けるだけである。
例えば、ドストエフスキーを読んでも、「とおりいっぺんの説明」はできるだろうが、その人自身の「実存」に関わるような「深い読み」は、ついに提示し得ない。せいぜい他の人が語っていた、他人のドストエフスキー読解の「口まね」をして満足し、いっかなそれが自覚できない程度の読者が、佐藤優ファンなのである。

最初に書いたとおり、佐藤優という人は「いろんなことをよく知っている」し、それについて「ひととおりの説明」ができて「もっともらしいコメント」もできるから、「一般向け」つまりは「エンタメ」として、同時代的には、たいへん重宝な存在だと言えるだろう。しかし、佐藤の著作は「消費財」でしかなく、長く読み継がれるような「深み」はない。

つまり、佐藤が死んだら、書店の棚からは佐藤の著作は、あっという間に消えて、佐藤によく似た、新たな「時事的博学の解説者」の著作が、それに取って代わるだろう。

しかし、彼の死を待たずして、すでに佐藤優の著作の「薄っぺらさ」に人々が気づき始め、それが「売上げ」に表れ始めたからこそ、佐藤は危機感に駆られて「創価学会」に近づいてゆき、「創価学会礼讃本」「池田大作礼讃本」を書き始めたのである。

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私は、元創価学会員だからよくわかるが、これは「商売(売文業)」としては、じつに賢い選択だ。
というのも、創価学会員が求めているのは、「中身」ではなく「お追従」であり、「中身のある褒め(肯定)」ではなく「支持(肯定)者の、肩書き(権威)」でしかないからだ。「こんな有名ですごい肩書きの人が、池田先生を(創価学会を)褒めてくれているんだから、やっぱり池田先生は(創価学会は)凄いんだ!」ということでしかない。要は、池田大作礼讃がそうであるように、創価学会を盲信したい人(創価学会員)のしていることとは、「権主義的盲信」であり「依存」なのである。
したがって、読者の「健康」を考えずに、「甘い物を欲しがっている糖尿病患者に、甘い物を与えて喜ばせる」というのは、(作家的)良心や節操さえなければ、簡単なことである。そうした読者が求めていることは、じつに単純で、わかりやすいものだからだ。

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そして、佐藤優ファンというのは、要は「創価学会員」と同じなのだ。
「雑学」を溜め込んで、「個性」のカケラもない「とおりいっぺんの知識のひけらかし」をするための、「素材提供者」であるかぎりにおいて、佐藤優はたいへんありがたい存在であり、佐藤の読者自身も、まったく「深さ」を求められることがなく、「自分の言葉」を求められて、言葉に窮する怖れもなくて済むからだ。だから、彼らはきっと、表立った「論争」などできない、「独白」か「馴れ合い対談」の専門家である。

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さて、佐高信による本書だが、本書は、佐藤優の著作とは「真逆」なので、当然ながら佐藤のファンには評判が悪くなる。佐高が佐藤を批判しているから評判が悪いのではなく、「佐藤優的なるもの」を批判しているからこそ、佐藤の眷属である佐藤ファンは、自身が否定されているのを本能的に感じ取って、佐高の書き方に反発するのだ。

では、佐高信の「書き方」とはどういうものだろうか。
それは、佐藤優の〈薄く広くかつ創造性なし〉の真逆である、「本質論的一点突破」である。つまり、佐藤が「広く浅く知識を開陳して、表面を撫でさする」ような書き方をするのに対し、佐高の方は「贅言を費やさず、問題の本質をズバリと突き刺す」のである。だから、佐藤のそれのような「無駄に長い文章」にはならない。

本書には、とても面白い事実や言葉が、たくさん散りばめられている。しかし、それを「面白い」と感じるためには、読者の方に相応の「読解力」が必要だ。なぜなら、佐高はせっかちな書き手なので、読解力のない読者を想定して書いてはいないからだ。
佐高の文章は「わかりやすい」と言われるが、それは「専門用語(ジャーゴン)」を使わないし、「観念的・抽象的な表現を使わず、比喩的表現でわかりやすく説明する」からである。
だが、この「比喩的表現」というものが、「クイズマニア」には、逆に難物なのだ。彼らは「対象を表面的に認識・分類する」ことは得意でも、「本質に切り込む」とか「敷衍する」といったことをする習慣がないので、「比喩的表現」というものは、かえって「わかりにくい」し、苦手なのだ。

例えば、佐高は本書で、繰り返し「軽信という問題」について語っている。

『日本人を深く蝕んでいるのは「軽信」だと私は思っている。軽く信じて裏切られると「だまされた」と騒ぐ。しかし、だまされるほど簡単に信じてしまった自分に責任はないのか。
『戦争と人間』(三一書房)という大河小説を書いた五味川純平は、作中で、親のいない二人だけの標兄弟の兄の方が兵隊にとられて出征する前、まだ幼い弟に忠告として次のように言わせている。
「信じるなよ、男でも、女でも、思想でも。ほんとうによくわかるまで。わかりがおそいってことは恥じゃない。後悔しないためのたった一つの方法だ。威勢のいいことを云うやつがいたら、そいつが何をするか、よく見るんだ。お前の上に立つやつがいたら、そいつがどんな飯の食い方をするか、他の人にはどんなものの言い方をするか、ことばやすることに、裏表がありゃしないか、よく見分けるんだ。自分の納得できないことは、絶対にするな。どんな真理や理想も、手がけるやつが糞みたいなやつなら、真理も思想も糞になる」』(P173~174)

これはまさに「節操もなく、創価学会にベッタリで、途方もない印税を稼いでる(飯の食い方が汚い)佐藤優」のことであり、それを「軽信」する佐藤優ファンのことであろう。

こうした人たちは「表面」を搔い撫でにすることしかしないから、おのずと「わかりの早い、軽信」になってしまう。「深く」考えたり、「疑い」を持って、慎重に「観察する」ということをしないから、ウケそうなものについては、われ先に飛びついて「軽信」してみせるのだが、それは所詮「軽信」でしかないから、責任を取る気などさらさらない。まただからこそ、その「御本尊」である佐藤優も、節操のない「コウモリ男」なのだ。

佐藤優の言葉や著作というのは、「入門書(入門編)」としては、とても便利なほど「薄い(深みが無くて、読解の必要がない)」。だが、〈薄く広くかつ創造性なし〉の「クイズ王の知識」をありがたがる人というのもまた、同様の人なのである。

結論としては、佐藤優ファンは、とおりいっぺん知識や博学に頼れない「優れた文学作品」でも読んで、「あらすじ紹介と、とおりいっぺんの解説」では済まされない、「深い読解」への努力を、自らに課すべきであろう。
佐高信が、日本人に求めているのも、またそうした「本質的思弁」なのである。

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初出:2021年3月15日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年3月27日「アレクセイの花園」

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【参考資料1】

佐藤優批判はタブーなのか!?    佐高信の著作めぐり1000万円の名誉棄損裁判に 『週刊エコノミストonline』2021年4月29日付

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 評論家の佐高信氏が、作家で元外務省主任分析官の佐藤優氏に約1000万円の損害賠償請求裁判を起こされたことがわかった。佐藤氏は佐高氏の著書『佐藤優というタブー』(旬報社)に名誉棄損的表現が含まれるとし、発行者である木内洋育・旬報社代表取締役にも1064万円を支払うよう求めている。

 同書のオビには「”雑学クイズ王”佐藤批判はタブーか!?」「私は二冊も佐藤と共著を出した責任を感じて、ここで佐藤批判を、特に佐藤ファンに届けたい」などと書かれている。共著もある作家同士が名誉毀損裁判に至るのは異例なことだろう。

 辛口評論家とも称される佐高氏は月刊誌『噂の真相』(休刊)で「タレント文化人筆刀両断」を連載するなど、数多くの文壇や論壇の批評を書いてきた。佐藤氏は多くのメディアに連載を持ち多作で知られる。

問題にした9つの記述

 訴状によれば佐藤氏は9つの佐高氏の記述を問題にしている。 最初に指摘しているのは、「創価学会御用達の佐藤優が、『AERA』でダラダラと『池田大作研究』を続けている。2020年9月28日号の第37回が特に卑劣な学会擁護だった」という表現。

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 これについて佐藤氏は「原告が著述している池田大作研究の内容が『卑劣な学会擁護』とするものであり、『卑劣』とは『品性や言動がいやらしいこと』、『人格的に低級であること』を意味し、原告が卑劣な方法で学会擁護をしたとするこの表現は原告の作家としての良心であるとか、その誇りを踏みにじる表現である。このような侮蔑的表現で他人の著述を批判することは許されることではない」としている。

 次は、「彼は2016年3月2日付け『東奥日報』の電気事業連合会の『全面広告』に出て、『エネルギー安全保証の観点から原子力発電の必要性を強調』している。おそらく最低でも1000万円はもらっているだろうが、その金額を明らかにしてから『内調から藤原に金銭の流れもあった』とか言え」という記述、などだ。

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 「内調」とは内閣調査室、「藤原」とは評論家で『創価学会を斬る』の筆者、藤原弘達氏のことである。佐高氏は佐藤氏について「藤原のように内調から工作されなくても(あるいは、工作されたのか)、国策と称された原子力発電の推進に協力する“原発文化人”はたくさんいる。佐藤もその一人だ」として、電気事業連合会の広告に出た佐藤氏を批判していた。

 これに対して佐藤氏は、「原告には、同広告の仕事によって電気事業連合会から幾らもらっているのかを明らかにする筋合いはなく、一般読者に原告が仕事にそぐわないような多額の金員をもらっていると思わせる記述をして、原告の名誉を傷つけた被告がその根拠を明らかにするべき事柄である」などと訴状で述べている。

第一回口頭弁論は6月8日

 今回の訴えに対し佐高氏は「言論人が裁判に訴えるということは言論での敗北を認めること。言論人失格である。すべての著作を絶版にしろと言いたい」とコメント。

 佐藤氏は「既に裁判で問題を処理する段階ですので、冷静な審理に影響を与えるような言動は私の方からは避けることにしています。第一審の判決が出た後は、きちんと対応します」とメールで回答。

 第一回口頭弁論は6月8日、東京地裁で行われる予定だ。

(楠木春樹・ライター+編集部)
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【参考資料2】

76歳の“辛口老批評家”を訴えた“雑学クイズ王”
《言論特集》佐藤優vs.佐高信「名誉棄損法廷バトル」【6/15無料公開】
「過激にして愛嬌ありの情報サイトZAITEN」2021年07月号

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〝76歳辛口評論家〟を訴えた〝雑学クイズ王〟名誉棄損で「慰謝料1000万円払え!」を考察する

元外務省主任分析官のベストセラー作家、佐藤優氏(61)が、本誌でもお馴染みの毒舌評論家、佐高信氏(76)を提訴した。佐高氏の著書で名誉を棄損されたことがその訴因だというが、「過激にして愛嬌あり」を標榜し、表現の自由を曲がりなりにも体現する本誌としては聞き捨てならない事件である。そこで急遽、佐藤、佐高両氏の心の内、および有識者に意見を求めた――。

【ラインナップ】下記記事一覧をクリックしてください。

佐高信「言論人なら法廷ではなく言論で戦え!」

編集部の取材依頼に対する「佐藤優」の回答


【私はこう考える「佐藤優 vs. 佐高信」言論の自由と名誉毀損訴訟】

平野貞夫(元参院議員) 「『言論統制』の時代を危惧する」

鎌田 慧 (ジャーナリスト)「国家権力に『泣きを入れた』佐藤優」

森 達也 (映画監督)「今からでも『論戦』しましょうよ」

落合恵子(作家) 「活字での〝取っ組み合い〟を読みたい」

 評論家の佐高信氏が3月10日に旬報社から出版した著書に関し、名誉毀損等の内容が含まれるとして、作家で元外務省主任分析官の佐藤優氏が4月、佐高氏と旬報社の木内洋育代表取締役を相手取り、1064万円の損害賠償を求めて東京地裁に提訴した。

 問題視された『佐藤優というタブー』(以下、同書)は、佐高氏が月刊誌や自身のメールマガジンで発表した評論やエッセイに、書き下ろしの原稿を加えて再構成した書籍。佐藤氏の言論活動等を批判的視点から論じているのは、全205頁の約4分の1にあたる50頁ほどである。

 訴状によると、佐藤氏は同書の9カ所の記述内容が民法上の不法行為にあたると主張している。

 その大半は同書の「まえがき」部分にある。佐高氏は、とある〈佐藤批判〉の原稿を〈例年出す時評集に収録しようとしたら、佐藤の本を出すつもりがあるので、はずしてほしいと言われた〉として、〈タブーに挑戦すべき出版界がタブーをつくってはならない〉などと論じている。訴状では問題視する記述のうち、少なくとも7つは「人格の否定」ないし「侮辱」であると主張されている。

 たとえば、佐藤氏が『AERA』(朝日新聞出版)で連載した「池田大作研究」第37回の内容についての〈卑劣な学会擁護〉(同書)や、〈竹中(平蔵)サンも尊敬するけど、マルクス経済学者の鎌倉孝夫さんも尊敬すると言って恥じないところに私はあなたの打算を感じますし、敵にも味方にも武器を売る武器商人的狡猾さを知覚するのです〉(同書)などである。

 一方、次の2つについては、訴状は「事実の摘示による名誉毀損」を主張しているものと見られる。

 佐藤氏が出演した『東奥日報』16年3月2日付の電気事業連合会による全面広告をめぐり、〈おそらく最低でも一〇〇〇万円はもらっているだろうが、その金額を明らかにしてから「内調から藤原(弘達)に金銭の流れもあった」とか言え〉(同書)との記述がある。  

 訴状では、「最低でも1000万円はもらっている」は事実ではないとして、〈原告が、たかが地方紙に出るくらいで1000万円以上の金銭を得ているような不当な利益をむさぼっている人間なのだという評価を受けることになり、このように受け止められること自体原告の名誉・信用を甚だしく傷つける〉〈同広告の仕事によって電気事業連合会から幾らもらっているのかを明らかにする筋合いはなく、(中略)原告の名誉を傷つけた被告がその根拠を明らかにするべき事柄である〉などと述べられている。

 また、同書では佐藤氏と鈴木宗男氏の関係について、〈汚職疑惑で共に捕まったが故に、互いに裏切らない、あるいは裏切れない関係にあり、手錠でつながれた逃亡犯のように、右に行くにも左に行くのも一緒に動かなければならない〉と記されている。

 これについて訴状は、「手錠でつながれた逃亡犯」は〈読者をして原告のありもしない姿を想像させる〉として〈名誉毀損も甚だしい〉などと主張している。

 佐藤氏は、佐高氏にこれらを書かれたことによって〈作家・言論人としての信用・社会的評価は失墜〉などとし、その損害額として、弁護士費用と合わせて1064万円を請求している。

 以上が本件の訴訟概要である。数々のベストセラーを連発し、一部では〝知の巨人〟とも評される佐藤氏が過去に共著も上梓した間柄でもあり、〝毒舌〟評論を持ち味とする佐高氏を提訴した本件は、言論界にどのような影響を与えるのか――。

 次頁より当事者の見解、有識者の考えを掲載する。

【ラインナップ】下記記事一覧をクリックしてください。

佐高信「言論人なら法廷ではなく言論で戦え!」
編集部の取材依頼に対する「佐藤優」の回答

【私はこう考える「佐藤優 vs. 佐高信」言論の自由と名誉毀損訴訟】

平野貞夫(元参院議員) 「『言論統制』の時代を危惧する」
鎌田 慧 (ジャーナリスト)「国家権力に『泣きを入れた』佐藤優」
森 達也 (映画監督)「今からでも『論戦』しましょうよ」
落合恵子(作家) 「活字での〝取っ組み合い〟を読みたい」

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