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城山三郎『官僚たちの夏』 :〈夏の時代〉のファンタジー

書評:城山三郎『官僚たちの夏』(新潮文庫)

読書家を自認するだけあって、読む本の幅の広さには自信がある。もちろん、小説を読むだけではない。マンガも読めば学術書も読むし、そこに差別はない。だが、私が自覚的に読まないジャンルというのはある。それは経済小説や企業小説、時代小説、歴史小説などだ。

なぜ読まないのかと言えば、それらのジャンルは、基本的に「ヒーローもの」だという印象があるからで、そういうものはわざわざ活字で読みたくない。

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無論、例外はあるけれども、読むのであれば、活字でないと書けないようなものを読みたい。テレビドラマなどの映像作品で十分なものであれば、むしろそっちを観れば良いと思うし、事実そうしている。
私は「ヒーローもの」や「勧善懲悪」が嫌いなわけではないのだ。「仮面ライダー」や「ウルトラマン」や「スーパーマン」「バットマン」「マーベル・ヒーロー」なども大好きなのだが、それを活字で読もうとは思わない。
活字作品は、あくまでも、人間の深い心理や思想や理論についての言及など、活字でないと表現しにくいものが含まれたものを期待する。だから、純文学や現代文学、あるいはロジカルな本格ミステリやSF(スペキュレイティヴ・フィクション)は読むのである。

そんなわけで、本来であれば、本作『官僚たちの夏』(1975年初刊)は、私の読まないジャンルの本であり、じじつ今日まで読まなかったのだが、昨今の「政権の言いなりになる官僚たち」の問題を考える上での参考書として、「かつての官僚」の「理想的なイメージ」を描いた象徴的作品として、本書を読んだ。
そして、読んだ印象としては、おおむね予想どおりで、私の趣味ではない「豪傑たちの活劇」小説であり、やはり「ヒーローもの」であったと言えるだろう。

読んで「スッキリしたい」エンタメ小説読者や、「こんな官僚たちが、今もいてくれたら」なんて思う人には、とても面白い小説だとは思うが、「人間の内面」を問題とする私としては、こうした「一面的なキャラクターの描き方=役割分担的なキャラクターの描き方」では、いかにも物足りないし、やはり「これはフィクションだな」としか思えない。

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無論、本作の主人公・風越信吾には、佐橋滋という実在したモデル人物がいることは知っているが、あくまでも風越の描き方は「一面的」であり、言うなれば『三国志』に登場する「豪傑」のようなもので、風越の周囲の人物たちも、基本的には同じような「典型的キャラクター」の域を出ない。
だから「わかりやすい(感情移入しやすい)」し、エンタメ的に「面白い(楽しめる)」というのは、まったくそのとおりなのだが、「現実」の佐橋滋たちは「こんな、一面的な人間ではなかったはず」だし、だからこそ「彼らが現代の日本に生きていたら、何をやったことやら」とも思ってしまうのである。少なくとも、多くの人がすでに指摘しているであろうように、彼らは「現代」の中央官庁では「出世できないか、体制順応して堕落するか」しかないのではないだろうか。

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(本作の主人公・風越信吾のモデル、佐橋滋)

もちろん、本作には今もなお「大人のファンタジー」としての価値があるだろう。主人公たちのようにはなれない、闘えない男たちや、むしろ主人公たちを嫌い弾圧する側の男たちが、「いっとき、その現実を忘れて」、物語の中の「ヒーロー」たちに同化し「癒される」のである。

だが、そういう読者が中心的な存在であるかぎりにおいて、本作の主人公たちのような人物が、現実に登場してくることはないだろうし、存在しても、活躍する機会は与えられないだろう。
だから、現実の「日本の社会」に不満があるのであれば「ヒーローを待望して、マスターベーションに耽る(逃避する)」のではなく、まずは「現実」そのものを知るべきなのではないか。そして、少しでも風越信吾のように「当たって砕ける」覚悟のある人間に近づきたいと、反省的に自己検討してみるべきではないか。

いずれにしろ「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と言うとおり、「己(私の現実、私たち日本人の現実)」を知らないことには、負け続けることは必定なのではないだろうか。

私は、風越信吾が「職業人」だとは思わない。むしろ彼は「趣味人(ディレッタント)」だったのだ。だからこそ「やりたいことをやった」のだ。だからこそ「地位も名誉」もいらず、むしろそれは「やりたいことをやる」ための「使い捨ててもかまわない道具」にすぎなかったのである。

したがって、本作を「お仕事小説」だと考えれば、間違えるだろう。
本作は、「仕事」よりも大切なものを持っていた男たちの物語であり、今でも彼らのような人物が生まれ出るとしたら、それは「職業人」ではなく、徹底した「趣味人」として生まれてくるのではないかと思うし、それでこそ「(食うための)職業」という罠にはまらないための条件なのではないだろうか。
もはや「給料」を保障されながら「やりたいことをやる」という「二兎を追う」行為は不可能に近いし、その無理のある建前(安月給で、天下国家のために働いている)を演じる「官僚」は、結局のところ、最後は「天下り」をしたり「権力に迎合」したりして「元を取ろうとする」ことになるのではないか。

やはり、一番強いのは「好きだから、損得抜きでやる」「嫌なものは嫌だ」と言える、その地歩を固めることなのではないだろうか。それを「職業=仕事」の中に求めるからこそ、私たちは、間違ってしまうのではないだろうか。

初出:2021年5月20日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年5月28日「アレクセイの花園」

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