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中沢新一 ・ 夢枕獏 ・ 宮崎信也 『ブッダの方舟』: バブル期における 〈イケイケ宗教学〉

書評:中沢新一・夢枕獏・宮崎信也『ブッダの方舟』(河出文庫)

仏教的世界観を異世界冒険譚として描いた、夢枕獏の日本SF大賞受賞作『上弦の月を喰べる獅子』を、最近になって読んだ。1986年から1988年まで『SFマガジン』に連載され、1989年8月に早川書房から単行本が刊行されて第10回日本SF大賞を受賞した作品で、私も刊行当初から気になって初版単行本も購入していたけれど、結局は積読の山に埋もれさせてしまい、今回読んだのは、刊行からじつに30余年を経てのこととなった。この小説がとても面白かったので、その関連本として読んだのが、中沢新一・夢枕獏・宮崎信也の対談&鼎談集である、本書『ブッダの方舟』だ。

『ブッダの方舟』は、1986年から1988年に行なわれた2つの対談と2つの鼎談を収めており、刊行は1989年10月で、前記『上弦の月を喰べる獅子』と相前後して刊行されている。
『ブッダの方舟』の中で、夢枕獏は、「執筆中」であった『上弦の月を喰べる獅子』に、何度か言及しており、彼が、中沢新一の仏教についてのレクチャーから、「仏教を自分なりに捉える」ということの「自由」への励ましを受けていたことがわかる。中沢やその弟子を名乗る僧侶の宮崎信也は、夢枕獏の「自分なりの仏教理解」に対して、ほとんど無条件に「肯定的」であり、ちょっと「身内褒め」に過ぎるという印象すらあった。

『『週刊ポスト』1989年12月8日号の中沢自身のインタビュー「オウム真理教のどこが悪いのか」では「僕が実際に麻原さんに会った印象でも、彼はウソをついている人じゃないと思った。むしろいまの日本で宗教をやっている人の中で、稀にみる素直な人なんじゃないかな。子供みたいというか、恐ろしいほど捨て身な楽天家の印象ですね」と麻原を持ち上げる自身の談話が掲載された。

中沢は宗教学の立場から新宗教についても論じ、1980年代の末に、自身のチベット仏教の研究からも影響をうけているオウム真理教に関心を示し、発言をしていた。1995年(平成7年)地下鉄サリン事件など一連の事件がオウム真理教による組織的犯行であることが発覚すると、中沢も批判の対象とされた。』
(Wikipedia「中沢新一」)

見てのとおり、中沢新一が「オウム真理教」に興味を示して、肯定的に言及したのは、ちょうど前記の2冊『上弦の月を喰べる獅子』『ブッダの方舟』が刊行された時期である。

一方、「オウム真理教」がひき起した事件は、よく知られるものだけでも、次のようになる。(Wikipedia「オウム真理教事件」)

 1988年9月22日 在家信者死亡事件
 1989年11月4日 坂本堤弁護士一家殺害事件
 1993年11月   (二度にわたる)池田大作サリン襲撃未遂事件
 1994年6月27日 松本サリン事件
 1994年9月20日 江川紹子ホスゲン襲撃事件
 1995年2月28日 公証人役場事務長逮捕監禁致死事件
 1995年3月19日 島田裕巳宅爆弾事件
 1995年3月20日 地下鉄サリン事件
 1995年5月16日 東京都庁小包爆弾事件

つまり、中沢新一がオウム真理教に言及しはじめた時期と、オウム真理教が暴走しはじめた時期は、ほぼ一致しており、言い変えれば、中沢がオウム真理教に興味を持ったのは、同教団が「暴走」する直前であり、まだ外からそれとわかるほどの露骨な「犯罪性」は見出し難かったということになる。

だから、後づけの結果論で、中沢を批判することはしたくない。中沢新一に問題があったのなら、それは彼の著作を通じて、内在的になされるべきであろうと思う。

そうした思いで本書を読んだのだが、一一残念ながら、中沢新一が「うかつにもオウム真理教(の麻原彰晃)を高く評価してしまった」のは、決して故なきことではなかった、という結論にいたった。
端的に言って、中沢は(少なくとも本書当時においては)、「自信過剰」であり、「目立ちたがり屋の逆張り」傾向があって、さらには「宗教というものの怖さに対する、警戒心の希薄さ」が感じられたからである。

したがって、当時の「ポストモダン思想家」の一人であり、「反権威」主義者であった中沢新一が、世間から「うさん臭い新宗教」のひとつと見られていたオウム真理教(麻原彰晃)に肩入れするというのは、ごく自然なことだったと言えるだろう。
「僕は、見かけの奇矯さだけで宗教の是非や論じたりしない。宗教とはもともと、最初はすべて、うさん臭い新興宗教なんだし、そもそも新興宗教に多少の反社会性があるというのは、当たり前の話。私たちが当たり前だと考えるものや価値観を相対化するものとして現れてくる新しい宗教は、そうした新しさにおいてこそ、その価値を認められるべきなんですよ」といった感じだったのは想像に難くないし、そうした意見自体は、決して間違いではなかったのだ。

じっさい、当時人気の高かったオカルト雑誌『ムー』に、「空中浮遊する麻原彰晃」の写真が掲載されたりしていたわけだが、そういう記事を見て、オウム真理教に「危険なもの」を感じた人は、ほとんどいなかった。
せいぜい「こんなトリック写真を信じる、おめでたい奴もいるんだな」と鼻で笑って済ませてしまうのが、良識的な人間の平均的な態度であり、誰もまさか、こんな珍妙な三流教団が、国家転覆を狙うテロ事件を起こすなどとは想像だにしなかったのであり、それは中沢新一とて、まったく同じだったのだ。

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当時の私たちは、中沢と同様、「宗教の怖さ」を充分に知ってはいなかった。
キリスト教やイスラム教が「十字軍」だ「ジハード(聖戦)」だと言って、その信仰ゆえに「戦争」や「虐殺行為」をやったという、遠い昔の「歴史的な知識」なら多少はあったにしても、まさか現代の日本で「宗教テロ」などというものが、現実に起こるなどとは、夢にも思いはしなかった。
つまり、現代の日本人に「宗教の怖さ」を教えてくれたのは、オウム真理教だったのである。

そうした観点からすれば、本書『ブッダの方舟』における3人の発言は、いかにも「オウム以前」のそれらしく、宗教に関して「能天気」ですらある。
自分たちは、「既成仏教(教団)」や「仏教学者」といった、硬直化し堕落した仏教ではなく、仏教本来の「自由な精神」を体現し、それを語っているという自負が、鼻につく程に感じられる。そこでは、自分たちが「間違う」という可能性を、毛ほども感じていない様子なのである。

そしてこうした気分は、ちょうど「バブル経済期」の雰囲気そのままだと言えよう。
「バブル経済」とは、おおむね「1986年から1990年頃」にかけての好景気の時期を指しているのだから、それは完全に『ブッダの方舟』の3人の「強い自己肯定感としての気分」の形成期と重なるのである。

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だが、間もなく「バブル経済」がはじけ、「ベルリンの壁」は崩壊し、「オウム真理教」も自己崩壊としての犯罪へと突き進み、やがて「日本におけるポストモダン思想ブーム」も終焉へと向い、「日本の現代思想界のスター」だった中沢新一も、その座から転落する。

中沢新一という人は、いろんな意味でセンスの良い人であったと言えるだろう。
頭が良いだけではなく、時代の空気を読み、人の心を掴むことのできる、「魅力ある」人だったし、事実、今で言う「イケメン」であった。だから、人気の出ない方がおかしいし、本人が「自惚れ」るのも当然なのだ。なにしろ、事実、惚れるに値する自分だったのである。

しかし、宗教というものは、一個の「才人」の掌の中に収まるほど「カワイイ」ものではなかった。
本書に中で中沢は、あまり頭が良いとは思えない(まして、センスの無い)宗教家や仏教学者などを「カワイイ」と評したりしているし、彼にかかれば「日蓮」など、ぜんぜんダメだということになるし、彼は何度も「自分はウケねらいをするし、それが悪いことだとは思っていない」等と、自信満々に語っている。その姿はまるで、イケメンの「ホリエモン」である。

要は、「成功者」「才人」「時代の寵児」「反時代的な天才の故に迫害を受ける反抗者=反逆のヒーロー」である彼らは、そんな自分に酔っており、また酔っているからこそ、これ見よがしな「反抗者」たりえたわけだが、そこに「宗教」がからむのは、きわめて危険なのである。
と言うのも、「宗教」というのは「反抗者」に対して、彼が「人間以上」のものであるという「錯覚」を持たせてしまうからだ。それこそが「宗教の魔」であり、仏教用語で言えば「増上慢」ということになる。
若き「才人」中沢新一は、この「宗教の魔」にとらわれることで、「宗教の魔」を見ることができなくなっていたのであろう。

本書『ブッダの方舟』が「バブル期における〈イケイケ宗教学〉」だというのは、中沢新一の語ることが、すべて「エリート」趣味のものであり、「貧乏人」のリアルな世界に、かすりもしないところにハッキリと表れている。

先日読んだばかりの、仏教学者・植木雅俊の『法華経とは何か その思想と背景』には、釈尊の教えは本来、とても人間主義的で平等主義的なものであったが、釈尊なき後、エリート主義の上座部仏教が主流派となり、そこでは、生活の保証された(エリート)出家者による「難解な思弁」がもてはやされ、在家や女人を差別する思想が広がる一方、庶民ウケのする呪文や特別な修行による超能力主義が生み出されていった、という趣旨の説明がなされていたが、そうした流れの日本における代表的な末裔が、本書『ブッダの方舟』の3人、中沢新一・夢枕獏・宮崎信也が、もっとも優れた仏教者として持ち上げた「空海」だと言えるだろう。
しかし、夢枕獏が小説化して人気を博した「陰陽師・安倍晴明」や「沙門・空海」の「呪術師・超能力者」ぶりがモテハヤされたのもまた、「麻原彰晃の時代」と重なることを忘れてはならない。

「バブル」の時代とは、人々が「地べたの生活」から遊離して、フワフワと浮かび上がっていた「夢みがちな時代」であり、『ブッダの方舟』の3人もまた、そうした空気の中で「成功した人」たちだと言えるだろう。
彼らは、そうした「空気」のなかで、自分たちが「(俗世間的な)重力の桎梏」から逃れ得ているつもりだったのではないか。

だが、人間には「空中浮遊」などできないのであり、できたと思った時には、彼は「魔境」にとらわれているのである。畢竟「宗教」の怖さとは、人間の素朴な「超越への憧れ」につけ込むところなのではないだろうか。

だから私たちは、「宗教」をもっと怖れるべきなのだ。「宗教」を「我がものとした」という認識(悟り)こそが、最大の「現実誤認=幻想」だと知るべきなのだ。私たちは「悟れない」と、そう悟るべきなのである。

そして、シモーヌ・ヴェイユの言う「根を持つこと」の必要性を、私たちは何度でも再確認し、心すべきである。でないと、私たちはまたぞろフワフワと浮かれてしまい、そのうちパチンと弾けて、墜落の憂き目をみることになるのである。

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初出:2020年12月9日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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