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若松英輔 『吉満義彦 ―― 詩と天使の 形而上学』 : まごころを、 君に ・ 若松英輔の問題点

書評:若松英輔『吉満義彦――詩と天使の形而上学』(岩波書店)

若松英輔個人に憾みはないのだが、ぜんぜん誉める気にはならない。
若松の「鍵言葉」である「霊性」というのは、そんなに特別なことを言っているわけではなく、これまでいろんな人が「心」「精神」「魂」「超越性」とか言ってきたことを、今日ウケする言葉に復古して見せただけだ。
だから、もちろん間違ったことは何も言っていないし、むしろ「ごもっともな」御説いがいには、何も新奇なものはない。難解な部分もまったくなく、むしろ気持ちよく「そうだ、そうだ、そのとおり。私も前から、そんなことを考えていたんだよ」と多くの人に思わせてしまうような内容なのだが、そこには半ば意識的な「俗情との結託」が成立しており、そのあたりに問題があるので、誉められない。

で、そのあたりについて手短に批判したのが、若松の『霊性の哲学』(角川選書)についての、下のレビューである。
http://www.amazon.co.jp/review/R38980VO3W4QZD/ref=cm_cr_dp_title?ie=UTF8&ASIN=4047035556&channel=detail-glance&nodeID=465392&store=books
ぜひ、そちらを先に読んで、若松「信者」の皆さんは、せいぜい腹を立てて欲しい。
できれば、若松本人にも腹を立てて欲しいが、ご本尊は、これくらいのことでは腹を立てないと、私は見ている。

『霊性の哲学』のレビューで言いたかったことは、そのタイトル「スピリチュアルな時代の「教祖の文学」」に尽きており、レビュー本文はオマケみたいなものだ。
ちなみに、レビュータイトルにある「教祖の文学」というのは、坂口安吾の小林秀雄論のタイトルだが、長いものではないので、読んだことのない人はぜひ読んでいただきたい。

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さて、本書『吉満義彦――詩と天使の形而上学』に即して、若松の問題点を説明すると、一番の問題は、若松が「絵を描きすぎる」ということになるだろう。
若松の読書量に圧倒されて、専門家でもない者は、その記述の信頼性に疑義を挟みにくくはあるものの、例えば、本書の主人公 吉満義彦の師である、カトリック神父 岩下壮一に関して言えば、先日、その著書『信仰の遺産』が岩波文庫(この本のレビューも書きました)に入ったし、岩下壮一(とその救癩活動)の篤実な研究家である輪倉一広の論文をまとめた『司祭平服と癩菌――岩下壮一の生涯と救癩思想』(吉田書店)なども最近刊行されており、それらを読んでみると、本書『吉満義彦』における岩下壮一の描かれ方は「事実に反して、きれいごとに過ぎる」としか思えない。

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『信仰の遺産』に収録された岩下本人の「プロテスタント批判」論文を読めば、その「文体」に岩下の「殊更に人を怒らせる、上から目線に挑発的なケンカ好きの性格(人柄)」がハッキリと刻印されているし、それは輪倉の研究でも実証的に証明されていて、若松の描き出す岩下壮一像は、良くて「岩下本人が、そうありたかった理想像」でしかなく、しかし実際には、若松の描いた「近代日本における霊性史」という絵図にそって「整えられた」、パーツとしての岩下像としか読めないのだ。

無論、こうした指摘に対して、若松なら「直接接した人たちが感じたような岩下の生身的人柄ではなく、問題は岩下の本質である、その高き霊性の方で、私はそれを描いたのだ」と抗弁するかも知れないが、それは岩下壮一という人間の評価としては「フェア」な描き方ではないと思う。「貶めるのならともかく、(解釈的に)美化するのなら構わないだろう」という理屈は傲慢だ。死者は生者が(意図的に)好きにして良い存在ではないからである。

このように、若松英輔による人物評は、あまり信用がならない。岩下壮一や吉満義彦の霊魂が口をきけたなら「それはちょっと買いかぶりだ」と言うかもしれないし「そこはそうではないし、事実そうではなかった」と苦情を申し立てるかも知れない。
しかし、人間、誉められると弱いから「それはちょっと買いかぶりですよ」とか言いながら、まんざらでもない感じで若松評を受け入れてしまうかも知れない。若松英輔の最大の問題点は「煽てるのがうまい」ということなのだ。

若松は「誉め屋」である。編集者として作家たちを上手に煽ててその気にさせるし、作家としては読者を煽てるのが上手い。「そうですよ。さすがですね。あなたは一番大切なところに気づいていたんですよ」と言っているかのごとく、読者に感じさせるように書いている。だから、読者は若松に共感し、若松の言葉をなぞりながら「自分の考えていたこと」を書いているつもりで、熱心な「信者」的なレビューを書いたりする。それが、うざったいということもあるが「これはマズい」とも思わせる。

私が、若松英輔が「嫌だなあ」と思うのは、この「人を手玉に取る有能さ」であると言ってもよい。それは感心されてよい才能であり、もしかすると「美徳」かも知れないが、飲み屋のねーちゃんに「○○さんは優しいから好きよ」とか煽てられて、鼻の下を延ばし、脂下がっている人の顔を見るのは、怖気立つほどイヤだ。人間、煽てられて悪い気はしないし、それが人間だとはいうものの「俺は絶対、あんな醜態を晒したくない」と思うので、私は若松英輔の「悪女」性を評価したくない。
プロテスタント作家の佐藤優が、自ら「人たらし」を称するのは、手の内を明かしてそれでもたらし込めるという自信のあらわれで、それはそれで嫌らしいとも言えるけれど、手の内を明かしちゃうところに可愛げもある。ところが、若松の場合は、いかにも平然と「いい人」そうにしている、カトリック的「悪女」だから、これは危険だと思うのである。

若松の危険性というのは前述のとおり、読者を勘違いさせるところである。
若松の本を読むと、読者の多くは、自分が若松や若松の描く「聖人」たちと同じ考えを持った仲間・同類、言い換えれば「選ばれた人間」のように思い込んでしまう。しかしそれは、昔よくいたという「高倉健主演のヤクザ映画を見終わった客の多くが、高倉健になりきって映画館から出てくる」みたいな勘違いでしかない。
実際にはどこにでもいる凡夫でしかないのに、自分を特別な人間の仲間だと思い違いし、無意識に「本も読まない、霊性など考えたこともない、世俗べったりな人たち」を見下したりするのである。
例えば「不倫主婦」とか「ギャンブル依存症のオヤジ」とか「左翼市民運動家」とか「アニオタ」とかを横目に見て、「こいつらとは違う」なんて優越感にひたってしまう。

若松の本を読むと「結局は、宗派教派的な教理など問題ではない。大切なのは霊性である」という結論に、安直に跳びついてしまいそうになるが、岩下壮一にしろ吉満義彦にしろ、結局は最後まで「教会の権威」と「教条の権威」を否定せずにそこに留まり、そこで葛藤したればこそ、ギリギリのところで「何かそれ以上のものをつかんだ、かも知れない」というのが現実で、最初から「霊性が大切。宗教は必要ない」などと言っているようなお手軽な人間には、何もつかめないと私は確信する。

もちろん、私は宗派教派的な信仰者の立場からそう言っているのではなく、そういうものを信じられない「無神論者」の立場に徹して「霊性とやらも、人間性を高めるための作業仮説(フィクション)としてしか認められない」と言っているのであって、若松が「断言口調」でその実在を語る「霊」や「霊性」「天使」「死者」「実在」「超越」「根源的一者」みたいなものは、霊感の強い近所のオバちゃんの語る「浮遊霊」や「地縛霊」と同じくらいにしか、信用できないのである。

と、このように憎まれ口を書いても、若松なら「そういう反抗的な懐疑の徹底性において、貴方はじつは本物の信仰者(求道者)なんですよ」とか誉められそうで、とても嫌だ。
ちょっと古いが、惣流・アスカ・ラングレーじゃないけど、最後は「気持ち悪い」と言っておきたい。

【補記】
読者の便宜をはかるつもりで、うっかり文中に2カ所リンクを張って投稿したら「非公開」と出たため、いったんそれを削除して、文中のリンクを外して再投稿しようとしたところ、投稿が出来なくなったので、てっきり二重投稿と判断されて投稿できなくなったと思っていたのだが、今日見ると外部リンクのところが [・・・] と変換されてアップされていた。この部分は、レビューの中で紹介した坂口安吾の小林秀雄論「教祖の文学」をそのまま掲載している「青空文庫」へのリンクだったのだが、外部リンクであったため、そこだけ削除した上でアップされたようである。
「坂口安吾 教祖の文学」で検索すれば、すぐに「青空文庫」の該当ページが出てくるので、ぜひご一読願いたい。

初出:2015年4月21日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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