見出し画像

若松英輔・ 山本芳久 『キリスト教講義』 : 聖フランチェスコ vs 教皇イノケンティウス3世 のプチ再演

書評・若松英輔・山本芳久『キリスト教講義』(文藝春秋)

本書の内容は、宗教に興味のある人には、決して難しいものではない。と言うよりも、より正確に言うならば、本書は「平易」に書かれている。しかし、そこが曲者であり、そこを読み取らないでは、読書の名に値しない。

対談者である、若松英輔「霊性(スピリチュアリティ)」を強調する個人主義的なカトリック信者であり、いわばキリスト教における「修道院」的な伝統に連なる人だ。一方、山本芳久の方は、キリスト教が「反近代」に傾いた時期にカトリック神学の基本として重視された体系的神学者であるトマス・アクィナスの研究家の神学者である。
まず、これが意味するところを読み取れなければ、本書で語られていることの意味は読み取れない。しかし、どうやらそこを読み取れている人は少ないようだ。なぜなら、両者はカトリックという共通項において仲良く(補完的に)語り合っているように装いながら、実は対立的な部分の少なくないことを隠しながら語り合っているからだ。

画像5

簡単に言えば、若松英輔は「バチカン(法王庁)」が信仰理解(教義)や信仰態度といった「正しい信仰」を独占的に規定する「教会主義」を、個々の「霊性」を強調する立場から批判しており、今のキリスト教の、特に日本のキリスト教の(妄信者以外の)人に対する力の無さやダメさは、こうした制度依存的な保守性にあるからではないかということで批判しているのだが、一方「保守(護教)的神学者」としての山本芳久は、表面上は若松の問題提起に同調するような口ぶりを装いをしながらも、実際にはその神学的(権威主義的)レトリックによって、問題を「教会の現実」から逸らして「考え方」の問題として一般化し、若松の「アクチュアルな問題提起」を無効化することに傾注しているからである。

以上のような、簡単なまとめが信用できない読者のために、両者の「真の立場」について、その発言を引用しながら、すこし説明しておこう。

まず、若松英輔だが、こう書いている。

『 少し話が飛躍するように感じられるかもしれませんが、歴史と真に対峙しようとするとき、ひとりであるということがとても重要なのではないかと考えているのです。ここで対置される態度があるとすれば、それは集団的に理解される歴史観というものです。しかし、キリスト教における生きる歴史というものに向き合うためには、こういう誰かに定められた歴史観をもって生きるのではなく、ひとり、歴史に向き合ってみなければならない。「歴史」を経験することと、ある「歴史観」で時代を眺めることは違います。キリスト教の歴史は正統と異端の相剋です。新しい時代を作ってきた者たちは、一度ならず異端視された。古くはパウロ、トマス(※ アクィナス)、アッシジのフランチェスコもある人々から見れば異端者です。もちろん、ルターやカルヴァンにも同質のことがいえます。』(P187)

若松はここまで言っているのに、その趣旨を理解しないままに本書を絶賛しているような論者の盲目ぶりは、ほとんど絶望的なものだと言えよう。

画像2

要は、若松は自身を「清貧の聖者 アッシジのフランチェスコ」の立場に擬して、硬直した教会の権威的かつ保守的な態度を批判しているのだ。自身は「現代の異端」と呼ばれうる危険な立場に立っているが、それでもキリスト教のために諫言すると。
つまり、若松が自身を「アッシジのフランチェスコ」に擬しているとすれば、それに対する護教的な山本芳久の立場は「教皇イノケンティウス3世」に凝されていると見ていいだろう。

画像3

『1209年には、教皇は西欧諸国で異端と見られるフランス南部のアルビ派にアルビジョア十字軍を派遣して弾圧している(これは没後の1229年まで継続)。 一方で1210年にアッシジのフランチェスコと会見し、フランシスコ会を承認するなど、新しい会派への理解も見せている。』
  (Wikipedia「インノケンティウス3世 (ローマ教皇)」

この当時、権力を独占して腐敗の極みに達していた「教会」制度に対して、ボゴミル派やアルビ(カタリ)派に代表される民衆的かつ教会批判的な在家信仰集団が大きな運動となりはじめていた。それに恐怖したローマ教皇は、教会の腐敗ぶりを棚に上げて、これらの民衆的信仰運動を「異端」認定し、十字軍という暴力で叩き潰した(虐殺した)。

画像1

(アルビジョア十字軍と中世カタリ派)

しかし、それだけでは、同じような運動が起こるのは目に見えているので、教会の中でもそうした不満を逸らすための施策が採られたのは当然で、そのひとつが「清貧の聖者」であるフランシスコの兄弟団に認可を与える、という懐柔策だったのである。

ちなみに、当然のごとく護教的(護教会的)な神学者である山本芳久は、「愛」についての章で、キリスト教の「愛」についての「世間の誤った認識(偏見)」である「自己愛を否定して、自己犠牲的な愛を強調するような(反自然的)態度」は、本来のキリスト教(つまり、カトリック)のものではなく、ルターが悪いのだ、と論じて、その責めをプロテスタントに帰している。

『 人間の自然なあり方から出発するのではなく、人間が救われるのは「聖書のみ」「信仰のみ」「恩寵のみ」といったルター的な考え方に席巻されてから、キリスト教神学の考え方もずいぶんと変わりました。』(P87)

しかし、私たち非信仰者が「自己愛を否定して、自己犠牲的な愛を強調するような(反自然的)態度」をキリスト教が強調していると認識するのは、ルターの考えのせいなどではなく、「聖職者は生涯独身」でなければならないとか「女性聖職者は認めない」「同性愛は認めない」といった「カトリックの現実」を見せつけられてきたからであって、これらについても近代的に乗り越え(ようとし)ているプロテスタントのせいでは断じてないのだ。
しかしまた、ここでわかるのは、「神学者」の仕事というのは、「真理を語ること」ではなく「教会を守る(護教)」だという現実なのである。

つまり、若松英輔と山本芳久は、その信仰態度から言えば、本来なら敵対して然るべきものなのだが、イノケンティウス3世がそうであったように「教会」保守派の態度とは「利用できるものなら、異端でも利用する」というものであるからこそ、フランチェスコや若松英輔のような「(世俗的)人気者」に対しては、さも「意見が合っているかのような振り」をしてでも、教会の権勢強化に利用するのである。
一一 そして本書は、そういう本なのだが、歴史に学ばない人には、それが読み取れないのだ。

ちなみに、そんな本書の限界は、両者が共有する「キリスト教信仰は正しい(真理である)」という「無根拠な前提」にある。
この「無根拠な前提」を共有すればこそ、両者の対論も成立するのだが、当然のことながら、両者の議論は、根底的なところで「底が抜けた空論」でしかない。

カトリックではない、すこしは本を読める読者が本書を読めば、両者がともに、いかにもカトリックらしい「権威主義者」であることに気づくだろう。
若松は、自身の「異端性」を認識しているからこそ、いろんな作家や思想家や宗教家といった世俗的権威を、自らの「守護神」のごとくズラリと並べることで、自身の言葉を「権威付け(箔付け)」しているし、山本芳久の方は「トマス・アクィナス」(と正統神学)という「キリスト教界の金看板」一本で、自身の言葉を「権威付け(箔付け)」ている。

画像4

しかし、彼らの言葉からこれらの「権威付け(金箔)」を拭い去って「彼ら自身の言葉のみ」に注目すれば、それはいかにも常識的で、いっそ凡庸なものでしかないのに気づくはずだ。
彼らの言葉が、なにやら「ありがたく」感じられるのは、彼らの言葉が常に「権威の光背」を背負っているからにすぎない。だからこそ「自己愛を否定して自己犠牲的な愛を強調するような態度は、不自然であり無理があるものですよ」などといった「常識」的で凡庸な意見ですら、なにやら新しく深いものと勘違いされてしまうのだ。

若松英輔は文芸評論家であるから、たしかに文学作品をよく読んでいるし、それ以外の宗教書などもよく読んでいる。また、山本芳久の方はトマス・アクィナスを専門とする神学者だから、神学書をよく読んでいる。
しかし、言うまでもなく、彼らがよく読んでいるのは「それだけ」でしかなく、彼らはそれ以外の多くの書物を読んでいない。
当然「無知」な部分の方が膨大であるにもかかわらず「自分の限定的な知識こそが、物事の本質迫るカギである」かのごとく、まるで「オタクの独演」のように「自身の手札だけ」を蜿蜒と繰り返し語って見せて、自身の「無知」については口を噤むのだ。

『 では、「言葉」とはどういうものか。私たちの日常を考えてみたとき、誰かの言葉を聞くと、およそその人はどういう人なのかという輪郭がわかる、それが言葉というものではないでしょうか。言葉とは、語る人のありかたを示すものです。「ヨハネによる福音書」の別の箇所には、イエスが弟子に「わたしを見た者は、父を見たのだ」(第一四章第九節)と語っている箇所があります。イエスに触れれば、イエスの言葉を聞けば、それは神の言葉を聞いたにも等しい。イエスの言行を見たら、それはすなわち神のあり方を見たことになるのだ。イエスが神の言葉であるとは、イエスが神とはどういう存在なのかということをありありと示してくれる存在なのだ、ということです。』(P152)

これは「はじめにあった言葉としての神=イエス・キリスト」についての若松英輔の解説であり、キリスト教神学的には間違いではない。しかし、イエスの言葉を聞き、イエスの言動に間近で接した弟子たちでさえ、イエスが復活するまでは「神」の何たるかを知り得なかったという「聖書的事実」のあることを忘れてはならない。
つまり、ことは若松や山本が語るほど簡単でもなければ、きれいな図式に収まるほど単純なものでもないのだ。まして、イエスならぬ若松英輔や山本芳久の「言葉」の真実を、字面を追うだけの凡庸な読者に、どれだけ読み取れるものか、すこしは現実に「目を開いて」考えてみた方がいい。

書物というものは「読めば誰にでも分かる」というものではないし、読書というものは「誰にでも十二分に可能なこと」などではない。それが現実なのである。

なお、本書は、著名な評論家であるカトリック信者(若松英輔)とカトリック神学者(山本芳久)との対談であるが、ほぼ同時期に刊行された、著名な作家でプロテスタントの佐藤優とプロテスタント神学者である深井智朗の対談(形式の講義)『近代神学の誕生 シュライアマハー『信仰について』を読む』が刊行されている(本書『キリスト教講義』は2018年12月、『近代神学の誕生』は2019年1月刊行)。
自身の信仰にもとづく「党派的偏見」だけで読書するのではなく、「キリスト教とは何か」ということを、まともに考える気のある読書家ならば、ぜひ両者を読み比べてみるといい。善かれ悪しかれ、カトリックとプロテスタントの「知性」の質的違いが、はっきりと感じられるはずだからだ。

初出:2019年3月4日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2019年3月5日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○






 ○ ○ ○





 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


この記事が参加している募集

読書感想文