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若松英輔 『イエス伝』 : スピリチュアルな 内面主義による、 カトリックにおける 「教会」の形式権威主義批判

書評:若松英輔『イエス伝』(中央公論新社)

非クリスチャンである普通の日本人にとっては、無理なく読める「イエス論」である。
しかし、だからといって、本書がキリスト教界において、ましてや、カトリック界において「当たり前」に受容されるようなものではないということを、非クリスチャンの読者は、まず知っておいた方が良い。

本書の帯にもあるとおり、著者は『私のイエスは「教会」には止まらない。』と言い切っているが、これはカトリックの正統教義に反する考え方であり、昔で言えば「異端」認定されて当然の「非正統的教会論」なのだ。ローマ教皇を頂点とするカトリック教会においては「教会はキリストの体」であり、キリスト信仰とは、教会に連なってこそ初めて可能なものなのである。
もちろん、ここで言う「教会」とは、無教会主義の内村鑑三や著者の若松英輔が言うような、単なる「キリスト者の集まり」ではなく、「天上の教会の地上における反映である、公同の(カトリック)教会」を具体的に指している。だからこそ、カトリック教会の外に、真正なキリスト信仰があり得るという考え方を、カトリック教会は基本的には認めないし、そのことは著者の若松英輔も、当然承知の上での「批判」なのだ。

しかし、こう書いたからと言って、私が、カトリック教会の立場から、若松を批判しているのだと勘違いされては困る。私自身は、若松のようにカトリック信徒でもなければクリスチャンでもないし、信仰者ですらないから、「キリストの権威の抱え込み」でしかない「カトリックの教会論」には、若松同様に反対なのである。

ただし、だからと言って、私が若松の「イエス論」や「キリスト教論」を支持しているのかと言えば、そんなこともない。
私は、若松の論説の中にも、クリスチャン特有の「手前味噌」や「ご都合主義」を見て、それを批判せずにはいられない。わかりやすい問題点を具体的に挙げれば、

(1) 相矛盾する記述を含む四福音書から、自身の立場に応じて、都合の良い部分を引用切り貼りする手法。
(2) 聖書学の知見を、自分に都合のよい部分だけ採用し、学問的客観主義に徹する態度を「字面主義」だと軽んじ、自らの「読み(解釈)」が「深い」と一方的主張する身勝手さ。

だと言えるだろう。

(1)については、神学書を齧ったことのある人には、もはや説明するまでもない周知凡庸の事実であり、このような現実があるからこそ、キリスト教には、カトリックとプロテスタントといった単純な分類には収まらない「無数の立場」が存在する。右は聖霊に憑かれて異言を発することが頻繁なペンテコステ派的な立場から、左は理性と信仰の調和を目指した果てのほとんど無神論的呼ばれる近代主義的立場まで、数えきれない「会派」が存在するのである。
で、本書における著者若松英輔の立場も、こうしたグラデュエーションの中の、わりあい穏健な中間的位置に過ぎない。
聖書の「恣意的な切り貼り」を認めるかぎり「いろんなイエス」や「いろんな教会」が存在可能であり、言い変えれば「好みに合わせて、何でもあり」ということになってしまうのである。

(2)について言うと、若松は本書で次のように書いている。

『 聖書学者の真摯な探求が明らかにする史実が、信仰者の伝統と異なるという理由で否定される。あるいは信仰者たちの伝統を、聖書学者が、学問的根拠が薄いと批判する。こうした関係のもとでは、どこまで行っても何も生まれはしない。
 史実が、彼方なる世界への窓となるとき、あるいは、彼方からの光が学問を照らすとき、それぞれの意味と意義が一層明らかになり、まったきものへ近づいてゆくのではないだろうか。』(50P)

一見ごもっともな正論だが、これは「信仰的暗黙の前提」が共有されてこその「キレイゴト」でしかない。つまり、ここでは「究極的には、学問と信仰は、神の真理において合致する(=まったき真理に到達する)」という「予定調和」が前提されており、「学問と信仰が究極的に合致せず、相互否定的に対立する」という「リアルな現実」が無視されているからだ。

そもそも、いったい誰が「史実が、彼方なる世界への窓となった」とか「彼方からの光が学問を照らした」などと「断定する権威」を有しているのだろうか。そうした判断すらも(教皇無謬説的独善を認めないかぎり)「人それぞれ」だからこそ、「学問的客観性」が求められたのではなかったか。

では、なぜ若松はこのような「修辞的キレイゴト」を語るのか?
それは、若松がキリスト教信仰を否定することも棄てることもしたくない反面、「カトリック正統主義(保守派)のごとき独善的立場」を選ぶにはあまりにも世俗にまみれており、いまさら「八方美人的な霊性主義」を棄てることは出来ないからである。だからこそ、彼は彼の「霊性主義」の範囲内で「キリスト教」を無難に位置づけようとするのである。

実際、本書の中でも2カ所で肯定的に引用されているカトリック神父で神学者の岩下壮一は、その引用文から理解されるような「若松英輔的霊性主義者」などではなく、ごりごりの「カトリック教会絶対主義者」であり、無教会派の内村鑑三やその弟子である塚本虎二を、カトリック教会の伝統と権威において、露骨な上から目線で嘲弄しつづけた人物なのである(岩下壮一『カトリックの信仰』参照)。
もちろん、若松はそうした事実を百も承知していながら、そういう部分には口をつぐんで、自身と岩下の「教会論」が矛盾しないがごとき印象を与える「恣意的な切り貼り」をしているのである。

つまり、ごりごりの原理主義者に比べれば常識的に見えるが故に、受け入れやすく感じられる若松の「霊性主義に基づくイエス論」も、その「信仰理解におけるご都合主義」という点では、同じ穴の狢でしかないのだ。

結局のところ、若松英輔によって批判される「カトリック的教会権威主義」も、若松自身の「霊性主義的イエス論」も、リチャード・ドーキンス的に無慈悲な『神は妄想である』という「見たくない可能性」を前もって回避したところでの、「究極的探求の数歩手前での足踏み」でしかない。

純真なクリスチャンに対して「神は妄想である」という言い方は、あまりにも無慈悲で挑発的に過ぎるかも知れない。しかし、本気で神を信じるのであれば「神は、実効性のあるフィクション」かも知れないという「可能性」に、正面から挑むことは不可能ではあるまい。

聖書学者は「信仰者たちの伝統を、学問的根拠が薄いと批判する」のではない。まずは、自身の信仰的願望を封印して「客観主義」に徹しようとするのである。
しかし、そう決意しながら、それに徹しきれないのが、人間である聖書学者の現実でもあろう。私は、そこまでやった上での彼らの「人間的弱さ」を批判しようとは思わない。むしろ、そんな彼らの血のにじむような「禁欲的探求」を、「字面主義」であるかのごとく薄っぺらに描写して恥じない、若松の独善を批判したいのである。

初出:2016年1月3日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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