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京極夏彦 『鵼の碑』 :丸くなった京極堂、 暴走しない木場、 粉砕しない榎木津

書評:京極夏彦鵼の碑』(講談社ノベルス)

17年ぶりの「百鬼夜行シリーズ」だという。今では、この呼称が正式名称のようだが、それは多分、17年前には当たり前ではなかったはずで、「京極堂シリーズ」とか「妖怪シリーズ」などとも呼ばれてもいたはずだし、それで何の不都合もなかった。中身的には、決して間違いではないからだ。

しかし、出版社側が、シリーズ名称があれこれ不安定では宣伝しにくいといったことからか、無難かつ分かりやすい名称に統一することにでもしたのだろう。その結果が「百鬼夜行シリーズ」であったのだろうが、そうなると「昔からのファンです」みたいな人たちでさえ、何も考えずに、それに右を倣えしてしまう。
そして、「京極堂シリーズ」とか「妖怪シリーズ」などの名称は、ファンらしくない無知による「間違った名称」のように思われ、ほぼいっせいに使われなくなってしまう。まるで、なかったことのようにされてしまう。まるで、昔からそうであったかのように「百鬼夜行シリーズ」という呼称が、「本尊」の正しい名称であり、そう呼ぶことが正しい「信仰」ででもあるかのように思い込まれてしまう。
だが、無論これは「非歴史的な錯誤」である。だがまた、「信仰」とは、おおむねこのような「錯誤」の上に成り立っているといっていい。

例えば、キリスト教の「正統教義」の中心に置かれている「三位一体」説というのは、イエス・キリストが語ったものではない。
あくまでも、諸事情に鑑みて、「公会議」で決められた、後付けの「辻褄合わせ」にすぎないのだが、それが今では、と言うか、その後長らく、「最初からそうであった」かの如く、当たり前の教義だと、敬虔な信者たちにさえそう思い込まれている。

「信仰」とは、おおむね、そういう錯誤のうちにこそ成立しているものなのだ。
しかし、信者たちは、嬉々としてそうした「教会の正統教義」に従いはしても、決してそれを疑ってみようなどとはしない。なぜなら「盲信」は、気持ちが良いからである。

だがそれは、本作『鵼の碑』でも語られるとおり「木を見て森を見ず、森を見て山を見ない」態度だと言っていいだろう。

 ○ ○ ○

本書『鵼の碑』は、私がまったく評価しない、『塗仏の宴』『陰摩羅鬼の瑕』『邪魅の雫』などに比べれば、ずいぶん面白く読むことができた。
しかしそれは、「本格ミステリ」としてよりは、「社会派ミステリ」として面白かった、という感じである。

もちろん、今どき流行りもしない、かつてあったような「告発型社会派ミステリ」などではなく、もっと高踏的な「社会批評ミステリ」とでも呼ぶべきものになっている点で、本作は、これまでのシリーズ作品と、大きな齟齬を感じさせるようなものにはなっていない。
しかし、昔の作品は、「本格ミステリ」であり「妖怪小説」としては読まれても、「社会派小説」だとは、あまり思われていなかった。それは、端的に言って、そういう要素が、今よりはずっと希薄だったからであろう。
もともと「新本格ミステリムーブメント」の中でデビューした京極夏彦も、「新本格ミステリ」の初心に満ちていた「社会派ミステリには、うんざりだ」という「空気」とは、決して無縁ではあり得なかったからではないだろうか。

無論、京極夏彦は、昔から「博捜博識の人」であり、何を語らせても、間違いなく「一家言のある人」だったし、それを中禅寺秋彦のように、説得力を持って語ったことであろう。
しかしながら、すべてを知っている人などいないし、デビュー当時の京極夏彦は、二十歳過ぎなのだから、すべてを知っているなんてことはあり得ない。
そのように見えたのなら、それは彼がエンタメ作家の「サービス精神」から、そのように見せていたのであり、読者の方は、その忠実な信者たらんとして、それを鵜呑みにしただけであろう。

デビュー当時の京極夏彦の興味の中心は、まず「妖怪」であり、その次に、それを生み出す「人間心理」であり、その上での「宗教」といった、「個人としての人間」の方に、かなり興味が偏っていて、本作や、私が読んだところでは、 『今昔百鬼拾遺 月』(2020年)のような、わかりやすい「社会」批評性は無かった。
しかし、こうしたことも、すでにすっかり、忘れられているのではないだろうか。

本書ノベルス版のカバー袖(表紙側)には、今回も作品の舞台を思わせる建物の写真が掲示されており、そこには、これもいつもの如く、次のような、思わせぶりな言葉が添えられている。

『 時間が何らかの役割を果たしているという判断はすべて一一。』

「正しいのか、正しくないのか」と言えば、無論、私は、前記のような点ひとつ取ってみても「正しい」と考える。つまり、「時間の経過」によって、京極夏彦は、多少なりとも変わっている、ということだ。

だが、多くのファンは、17年ぶりの「百鬼夜行シリーズ」として、「あの三人が帰ってきた」という点で本作を歓迎し、その上で「ミステリとしての出来」を云々している人が多いように見受けられる。
つまり、本作に不満を感じた読者は、たぶん「(意味付けが勝ちすぎていて)ミステリにおける謎としては、魅力に欠けて弱い」といった評価をするだろうし、本作を擁護したいと思う読者は「読みどころは、そこではなく、批評的な部分だ」と主張するだろう。
すでに、京極夏彦の読者は、「新本格ミステリ」ファンだけではなくなっているから、後者のような意見が少なくないというのは、当然の結果なのであろう。

そしてその意味では、「京極夏彦ファン(読者)」の方も、「時間の経過」によって、大きな質的変化をきたしているのだが、「新本格ミステリ」ファン的な「古い京極夏彦ファン」と、「本格ミステリ」に対するこだわりの薄い、むしろ「キャラクター小説」的な魅力を重視する「新しい京極夏彦ファン」とは、ともに、自分の立場からしか物を見ないから、お互いの「こだわりポイント」の違いなど、あまり意識することもなく「あいつらは、わかっていない」などと、漠然と感じているのではないだろうか。

しかしながら、京極夏彦自身は、自分が否応なく「変わった」ことを理解している。
まあ、普通に考えて、変わらないわけがないのだ。17年経っても、何も変わっていなければ、それは「莫迦」だからである。

さて、私は、昨年2022年に「ねとらぼ調査隊」が行ったアンケート「京極夏彦の「百鬼夜行シリーズ」で一番好きな作品は?」に応募し、シリーズ第2作『魍魎の匣』を挙げて、次のようなコメントを添えていた。

『魍魎の匣』ID: e03ca8
ネタ的には『鉄鼠の檻』が好きなのだが、しかし『魍魎の匣』の、あの「呪う文体」の力は半端ではないし、京極夏彦自身、もうあんな文章は二度と書けないだろう。テクニック云々以前の、デビュー直後特有の力なのだろうと思う。』

私は、このアンケートとアンケート結果を、拙稿「〈呪う〉文体:京極夏彦・百鬼夜行シリーズを中心に」で紹介しておいたのだが、私がそこで言いたかったのは、「初期京極夏彦」の魅力は、なんといっても、その「呪う文体」であり、「本格ミステリとしての仕掛け」や「ペダントリー(衒学)」などは、むしろ副次的なものだ、ということである。

つまり、『あの「呪う文体」の力は半端ではないし、京極夏彦自身、もうあんな文章は二度と書けないだろう。テクニック云々以前の、デビュー直後特有の力なのだろうと思う。』というのは、『塗仏の宴』以降、露骨に現れた変化を指すものであり、それは「時間の経過」に伴う避け得ないもの、つまり必然的な変化であるから、もう初期作品のようなものは書けないだろうと、そう論理的に「予言」しておいたのである。これがいささか、京極ファンの不興を買ったのではあったが。

そんなわけで、まさか翌年にはシリーズ新作が刊行されようなどとは思わずになされた、私の昨年の「予言」は、はたして当たっていたか否か。一一無論、私は「当たっていた」と思う。

前述のとおり、本作『鵼の碑』は、『塗仏の宴』『陰摩羅鬼の瑕』『邪魅の雫』などに比べれば、ずいぶんと面白く読むことができたのだが、しかし、(『狂骨の夢』を除く)初期作品のような「呪う文体」になりえていたかと言えば、なってはいない。
『鵼の碑』には、初期作品のような「熱」が、もはや無い。そう断じても良いのではないか。その代わりのように、「リベラルな知」としての「社会批評性」が、前面に出てきているのである。
だからこそ、

「丸くなった京極堂、暴走しない木場、粉砕しない榎木津」一一ということになったのではないだろうか。

 ○ ○ ○

本作で、特に顕著なのは「丸くなった京極堂(中禅寺秋彦)」であろう。
昔は、とにかく難しい顔をして、いつもいつも関口巽に厳しく説教をしていた中禅寺が、本作では、お得意の「悪相」だの「凶相」だの見せることがほとんどなく、むしろ、うすくではあれ笑顔を見せることが多くなった。端的に言って「丸くなった」。つまり「温和になった」という印象が強いのだ。

そしてこれは、単なる「印象」だけではなく、現に、次のように書かれてもいる。

『 中禅寺は、片眉を釣り上げて いきる刑事を眺めた。
  その昔、能く目にした表情だ。』

 (P795、傍点部をゴシック表記に代えた)

いうまでもないことだが、中禅寺が『片眉を釣り上げ』るのは、何らかの感情が動いたときであり、しかも、その感情は、たいがいの場合、肯定的なものではない。
つまり、この場面だと、木場修太郎の「イキり」をあまり好ましくは感じなかったということだ。

そんなわけで、昔はしばしば『片眉を釣り上げ』ていた中禅寺なのだが、本作では、それが、多分この一度しかなかった。中禅寺秋彦は、明らかに「丸くなった」ということである。

そしてこれは、ほぼ間違いなく、作者・京極夏彦の「変化」に対応したものであろう。京極夏彦は変わった、ということだ。「時間の経過」に伴って、変わらざるを得なかったのである。

もちろん、それは「成長」であろう。それが端的に現れているのが、本作における、穏健で良識的な「社会批評性」であろう。
だが、当然のことながら、それに伴って「失ったもの」もあろう。例えば「呪う文体」が、それである。
京極夏彦の小説は、少なくとも昔ほどは「呪わなくなった」あるいは「呪えなくなった」と言えるのではないか。もう、昔のような作品は書けなくなったのであり、その意味では、私の予言は、残念ながら、必然的に当たった、ということである。

木場修太郎が、昔のように「暴走」しなかったのも、榎木津礼二郎が、昔のように「粉砕」しなかったのも、それは多分、当然の帰結だったのであろう。
なぜなら、「暴走」だの「粉砕」だというのは、「当たり前の方法」では到達できない「外部」を希求するが故の「熱情」の発露だからである。
「理屈」や「レトリック」では、「動かしがたい現実(もの)」を動かそうとする「革命的な情熱」、あるいは、笠井潔風に言えば「黙示録的な情熱」が、あったからではないだろうか。一一京極夏彦にも、である。

だが、結局のところ京極夏彦は、そうした「情熱」を、「憑き物」として祓ってしまったのではないだろうか?

そして、それは、特に本作の中禅寺秋彦が強調する「理性的な態度」であり『整理整頓』という言葉に象徴されていよう。
たぶん「木場の暴走」「榎木津の粉砕」は「物狂い」の一種として祓われ、彼らは「無害化」されてしまったのである。

そしてこれは、「現実」的には正しい判断だろうと、私も思う。
しかし、「小説」として、どうなのかという疑問を禁じ得ない。「小説とは、そんな正しいことだけを語っておれば、それで良いものなのだろうか?」。一一そんな疑問を禁じ得ない。
しばしば「小説の力」とは、もっと野蛮で危険なものではなかったかと、私にはそう思えてならないのだ。

だから、そうした意味では、本作の「優等生的な面白さ」には、幾ばくかの不満を感じているし、これは「いかにも今風」だというようにも感じられた。
作中で語られるや「原子力利用」論や「フェミニズム」論、「陰謀論」批判などなど、個々の意見にはほとんど賛同しながらも、しかし「京極夏彦の小説としては」物足りないという印象を、禁じ得ない。

これは、私が「不機嫌な中禅寺秋彦」「暴走する木場修太郎」あるいは「粉砕する榎木津礼二郎」的な、革命的な人間だからなのかもしれない。
大人になれない「妖怪好き」であり、「無神論者」を名乗って、徹底した「宗教批判」を実践しながら、しかし、その意図するところは「彼らの信仰心は、不徹底であり偽物だ(だから、つまらない)」という榎木津的な批判にあって、むしろ、自分の方が「本物の信仰者」だと自負しているような人間だからかもしれない。
つまり、私は、若くなくなった京極夏彦が「否定」し祓い落とそうとしているものに、憑かれている人間なのかもしれない。

しかし、そんな私からすると、今の京極夏彦の「大人の態度」は、いかにも「疲れ」と「諦観」が滲んでいるように感じられてならない。

例えば、次のような「理屈」は、中禅寺秋彦お得意の「詐術」なのではないだろうか。

『「四民が平等となり、国民と云う枠組みが圧倒的多数となって、そうでない者は、同化か排除かの二者択一を迫られたんです。桐山さんは排除される道を選んだんですね。それだけのことですよ」
 一一あの老人か。
 緑川はその皺の多い手を思い出す。
「そうしたことは、今に始まったことではありません。しかし、その昔は、そうした自分とは異なる者と共存するための文化的装置があった」
 妖怪(※「ばけもの」とルビ)ですと中善寺は云った。
「それは解らない。そう云う人達を化け物扱いにすると云うこと? それ、余計に差別的じゃない?」
「違うんだよ緑川くん。化け物は化け物なのであって人間じゃない。人は人ですよ。化け物は、異なった文化習俗を持つ他集団との間に生まれる恐怖、軋轢や齟齬そのものなんだ」
「そうした不具合をお化けに仮託した一一と云うこと?」
「そう。化け物はどんなに恐がってもいいんですよ。化け物なんですからね。無視して遣り過ごすことも、忌み嫌うこともできるし、見下して莫迦にすることだって出来る。そして、退治することもできる。どれも人に為てはいけないことですよ。化け物は、人と人、文化と文化の間に置かれる緩衝材のようなものなんです。山男や山女は人間ではありません。でも山の人達は人間なんです。それは同じものなんだだけれども、別物なんです。でも、そうしたお約束は一一残念乍反故になってしまった」
「お約束なんだ」
「そうですよ。化け物なんていませんからね。居ないものを居ることにすると云う優れた文化は、どうやら廃れてしまったようです。間にあった化け物は差っ引かれしまい、人は、人として差別されるようになってしまった。人として、忌み嫌われ、人として蔑まれ、罪を犯してもいないのに犯罪者扱いされると云うのは一一如何なものか」 』(P798)

私ならここで、木場修太郎風に「わからねえ」とつぶやくことだろう。

もちろん「差別」がいけないというのは、子供でもわかっていることだから、ここでの議論のキモは「妖怪(化け物)=異文化共存装置」論ということになろう。
「妖怪」とは、『異なった文化習俗を持つ他集団との間に生まれる恐怖、軋轢や齟齬』を仮託して、それを排除することにより『異なった文化習俗を持つ他集団との間に生まれる恐怖、軋轢や齟齬』を失効させる「依代」のようなものだった、という見解である。
一一だが、本当だろうか?

実際のところ、「弱者=少数者」集団の側に貼りつけられる「レッテルとしての化け物」(例えば、土蜘蛛など)は、最初から「差別排除」を正当化するための「大義名分」であり、そのためのものでしかなく、「緩衝材」であった歴史的事実など、どこにも存在していないのではないか?
実際のところこれは、中禅寺秋彦の、あるいは作者・京極夏彦の、読者を縛り、操るための「レトリック」であり、「呪い」なのではないだろうか?

歌川国芳源頼光 四天王 土蜘蛛退治之図」 )

では、どうして京極夏彦は、そんな「嘘」をつくのかと言えば、それは無論「妖怪が好きだから」であろう。

「妖怪」が、人に憑いて、もの狂おしく走らせる「忌むべきもの」などではないと、そういうことにしたいから、「妖怪(化け物)=異文化共存装置」論などという、面白い(ユニーク)ではあれ、無理筋の理屈を立てるのではないか。要は、京極夏彦自身、じつは「妖怪」に魅入られており、十分に科学的ではない、ということなのではないのか。

実際、「妖怪」を「存在するわけないと思いつつ、楽しんでいる人」というのは、人に対する「差別」はしないのだろうか?
言い換えれば、妖怪ファンでありながら、人を差別する人というのは「妖怪の実在を信じているような(頭の悪い)人」なのであろうか? 一一そんなことはあるまい。

妖怪の実在は信じずとも妖怪を楽しめる人、幽霊や空飛ぶ円盤やネッシーの存在は信じずともそれらを楽しんでいる人というのは、人を差別したりはしないものだろうか? 一一そんなことはないと、私は思う。

たしかに「妖怪」だの「グレイ」だのの存在を本気で信じている人などよりは、それを信じないまま楽しめる、「メタ思考」のできる人の方が、人を差別したりする蓋然性は低いように思われる。
端的に言って、頭の悪い人は「私の嫌いなものは、悪いもの」と考えがちだが、頭の良い人は「私の嫌いなものの中にも、素晴らしいものはある(から、私の嫌いなものが、悪いものだとは限らない)」と考える蓋然性が高いように思える。
だが、そう簡単に二分できるほど、人間は単純ではないし、だからこそ「宗教批判」も必要になってくる。

例えば、中禅寺秋彦は、「信仰」について、次のように「身も蓋もなく」語る。

『「信仰はね、信じることだ。信仰者は、信じさせるために、現世利益を謳う。でも、それは真の信仰に導くための一一方便だ。』(P782)

あるいは、「お化け」については、

『「お化けそのものは怖くないですか」
 居ないからなあと中禅寺は云った。
 身も蓋もない。
「まあ、最近では居ることを前提にした無粋な心霊譚なんかもあるからね。でも」
 居ないからなと中禅寺は繰り返す。
「居ません一一わなあ」
 仁礼は築山の方に顔を向けて苦笑した。
「居ないだろ。居ないけれども居ることにしておくと云う文化的なお約束が反故になってしまったんだから困ったものさ。怪談と云うのは居るか居ないか判からない虚実皮膜で語られるものなのであって、 恐がらせるためにと居ることを前提に据えて語るなんて単なる悪趣味な与太だよ。また、その前提を無批判に信用して恐がるなんて、思考停止だろう。だからと云って心霊科学のような誤った考え方を巡らされても困るわけだがね」
 中禅寺さんそう云うの嫌がりますなあと仁礼は頬を攣らせる。
「お化けら怪談やら好きなくせに」
「好きだからこそ迷惑だと云っているんだよ。その小峯さんのような受け取り方の方が数万倍健全だと思うよ」』(P362)

といった具合で、その存在可能性など、完全否定で歯牙にもかけていない。

要は、「お化け」だろうが「妖怪」だろうが「化け物」だろうが「神仏」だろうが「ネッシー」だろうが、そうしたものはすべて、人間が楽しく、あるいは正しく生きるための「方便」なのであって、その「方便」を真に受けるのは「莫迦」でしかなく、傍迷惑な存在だ、ということである。

実際、実名小説『虚実妖怪百物語』では、京極夏彦周辺の「妖怪」関係者や「お化け・怪談」関係者が実名でおおぜい登場するのだが、作中の「京極夏彦」は「お化けや妖怪などの実在を、本気で信じている人たち」を本気で嫌がっている様子が描かれている。
それは、本作『鵼の碑』における、中禅寺秋彦の関口巽に対する「愛にある注意指導」ではなく、初期「百鬼夜行シリーズ」での、中禅寺のそれに近く、上の引用文に語られていることは、京極夏彦の「本音」であると見て間違いないのではないだろうか。

では、だからどうなのかと言うと、要は「京極夏彦周辺の人たち」でさえ、「お化け」や「妖怪」や「化け物」や「ネッシー」や、あるいは「心霊現象」などという「面白くもアホくさいもの」を本気で信じる者も少なくなく、まして、「神仏」や「宗教」を本気で信じて、「差別」程度では止まらない、例えば「大虐殺」などに走りかねない信者が(潜在的には)いるというのも、否定できない事実なのではないだろうか。

つまり、そうしたことは、

『そうしたお約束は一一残念乍反故になってしまった』

『居ないけれども居ることにしておくと云う文化的なお約束が反故になってしまったんだから困ったものさ。』

などという「お高く止まった」態度では済まされない、ということであり、要は「宗教批判」は絶対に必要なもので、その他の「お化け」「妖怪」「化け物」「神仏」「ネッシー」などといった「方便」も、それが「方便」でしかない、つまり「実在はしない」ということを、野暮ではあるが、一度ははっきりと確認させておく必要がある、ということなのだ。
でないと、「ユダヤ人虐殺」や「朝鮮人虐殺」が起こってからでは、遅いのである。

言うまでもなく、私も「お化け」「妖怪」「神仏」「化け物」「ネッシー」「UFO」などが大好きである。しかしながら、それは、それらが基本的には「居ない」ことを前提としている。
もちろん、「お化け」や「妖怪」や「神仏」は居なくても、広義の「化け物」「ネッシー」「UFO」なら存在する可能性もゼロではない。けれども、それは(「神の存在証明」と同様)ゼロには出来ないだけで、だから信じるという話ではない。そんな、きわめて存在確率の低い不確かなものの存在を信じて、それに寄りかかって生きることなどできないから、それらは、基本的には「居ない」と「信じた」上で、それを「フィクション」として楽しみ、そして、楽に正しく生きるために、「利用する」のである。

(合成写真とわかっていても、夢があってワクワクする)

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そんなわけで、私は、本作『鵼の碑』を、それなりに高く評価するし、京極夏彦といった小説家の力量や、その良識を高く評価するのを大前提として、しかし、それが「無欠無謬」だなどとは考えない。

いくらカトリック教会が「(教義的決定判断における)ローマ教皇不可謬説」を唱えようと、「そんなわけねえだろ」と思うのと同様に、「京極夏彦」信仰にも反対する。

京極夏彦だって、セックスもすれば、ウンコもするし、当然、間違えもする。だって「人間」だもの。

私は、しばしば身も蓋もないことを言う、三次元実在ジジイなのだ。


(2023年10月4日)

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