見出し画像

谷川流 『涼宮ハルヒの直観』 : 〈終らない日常〉という深き欲望

書評:谷川流『涼宮ハルヒの直観』(角川スニーカー文庫)

本巻は、『いとうのいぢ画集 ハルヒ百花』用に書き下ろされた短編「あてずっぽナンバーズ」、書き下ろしアンソロジー『ザ・スニーカーLEGEND』に掲載された中編「七不思議オーバータイム」、そして本集のための書き下ろし長編「鶴屋さんの挑戦」の3編を収めているが、いずれにしろ、シリーズとしての物語を先に進めるものではなく、「ハルヒ的な日常」を描いたエピソード集だと言えるだろう。
そうした点で、「物語」の先が知りたいと思っていた読者には肩すかしである一方、「ハルヒ的日常」が永遠に続くことを望んでいる読者の願望を満たすことのできる作品集だったとも言えるだろう。

私の場合は、「物語」の先が知りたい、ハルヒがどう変わっていくのかが知りたいという読者なので、全体としては期待はずれだったが、それを前提とし、個々の作品を娯楽小説として割り切って読むならば、それはそれなりに楽しむこともできた。

短編「あてずっぽナンバーズ」と中編「七不思議オーバータイム」は、「ハルヒ的日常」を描くものとして、手堅くまとまっている。
一方、書き下ろし長編である「鶴谷さんの挑戦」は、著者の「本格ミステリ」趣味が横溢した、とても凝った力作であり、やはり本集の眼目となる作品だと言えるだろう。

しかし、凝った作品ではあるものの、「鶴谷さんの挑戦」が、よく出来た「本格ミステリ」と呼べるかといえば、そこはいささか疑わしい。
というのも、本作は「本格ミステリ」に徹しきっているわけではなく、「涼宮ハルヒのシリーズ」が本質的に抱えている「メタ・フィクション」性に「二股」をかけた作品となっているからだ。だからこそ、本作では、かつて「新本格」ミステリ界で話題になった「後期クイーン問題」が取り上げられることにもなる。

「本格ミステリ」という小説形式は、簡単に言えば「ゲーム小説」であり、「ゲームのルール」に沿って作られた「小説世界」であると言ってよい。
つまり、そこには「リアルな人間」への配慮はいらないし、「リアルな世界」である必要もない。ただ「ゲーム」を滞りなく進行させるために必要なものが配置され、余計なものは排除されるのである。そして、それは「暗黙の了解」であり、普通の読者は、その「暗黙の了解」を意識しなかったけれど、「後期クイーン問題」とは、その「隠されたフィクション的制約」の存在を明るみに出し、問題提起したものだと言えるだろう。

しかしまた、「小説」作品が「現実世界そのもの」を描くものではないというのは、当たり前の話でもあり、それはなにも「本格ミステリ」に限ったことではないとも言えよう。
だからこそ、「鶴屋さんの挑戦」の中でも紹介されているとおり、「本格ミステリ」作家の中でも、有栖川有栖や二階堂黎人といった人たち(リアリスト)は、そうした問題意識を重視せず、むしろ「疑似問題」ではないか、とみなしているようにも見える。平たく言えば、「後期クイーン問題」とは、「本格ミステリ」作家の自意識過剰による「自己特権化」なのではないかということだ。
そんな問題は、なにも「本格ミステリ」に始まった話ではないからで、さもそれが「本格ミステリ」特有の「難問」であるかのように騒ぐのは、結局ところ、「初期法月綸太郎」に見られた、ナルシスティックな「悩んでますポーズ」と同種のものなのではないか、ということである。

そして、こうした「ナルシスティックな問題意識=自分のために世界を意味付けようとする、主観性の暴走」というのは、そのまま「涼宮ハルヒシリーズ」の特質にもつながってくる、というのは明白だろう。「涼宮ハルヒシリーズ」でつねに問われるのは「この世界は、ハルヒの願望によって、改変された後の世界なのではないか?」という疑問である。

しかし、そんなものを「作中人物」が正しく問い得ないのは、自明であろう。だからこそ「物語の外部」が問題となるわけだが、実際に「物語の外部」にいるのは、作者と読者であって、ハルヒたちではない。
ハルヒたちの存在を信じたいのであれば、読者は「物語の外部」に出るのではなく、「物語の内部に設定された、擬似的な物語の外部、という欺瞞」に安住しなければならない。そしてそれは、決して間違いではないし、卑怯な行ないだとも言えないだろう。もともと「小説」とは、そういう「フィクション」であり、「現実そのものではない」という意味においては「嘘話」であってかまわないものだからである。

しかしながら、「涼宮ハルヒシリーズ」においては、そうした「フィクション」としての割り切りが、困難にもなっている。なぜならば、主人公である涼宮ハルヒという少女が、その「嘘」のなかで生きる存在であることを、常に意識させられるからだ。

彼女は幼い頃、「現実らしい現実世界」に違和感を感じ、やがて、それを否定して「自分の望む世界」を手に入れる力を手にした存在である。だが、そんな彼女を描く小説は、おのずとその「嘘」を際立たせなければならない。「この物語はフィクションですよ」と言うに止まらず、同時に「作中の涼宮ハルヒの生きる世界も嘘」である可能性を、殊更に示唆せずにはいられないのだ。
そして、そのことは、多くの読者に「不快感」を与えてしまう。なぜ「永遠につづくハルヒ的日常」を、註釈抜きでそのまま肯定できないのかと(また、だからこそ「エンドレスエイト」は、決定的に嫌われた)。

だが、それもまた、不可能なのだ。「涼宮ハルヒシリーズ」の「ハルヒ的日常」が面白いのは、その背後に、いつもその「ハルヒ的日常」が偽物なのではないかという緊張感があるからで、それを失ってしまえば、「ハルヒ的日常」の物語は、単なる「ご都合主義の能天気な物語」にしかならないからである。

つまり、「涼宮ハルヒシリーズ」とは、「虚構」にも「現実」にも徹しきれない「宙吊り」の緊張感によって支えたれた物語であり、だからこそ、物語の結末は先送りにされざるを得ないのではないだろうか。

実際のところ、涼宮ハルヒという夢みがちな少女が、より現実的な世界に救い出されることを、ファンは誰も望んではいないはずだ。だからこそ、作者もファンの多くも、「ゲーデルの不完全性定理」にも見られる、「決定不可能性」的な議論に惹き寄せられるのではないだろうか。

しかし、「本格ミステリ」の魅力とは、そこをあえて断ち切る「虚構的蛮勇」にある、とも言えるだろう。
その意味で「鶴屋さんの挑戦」は、「本格ミステリ」として不徹底であり、「涼宮ハルヒシリーズ」のひとつとしては、その「決定不可能性」に忠実な作品になっていた、とも言えるのではないだろうか。

初出:2020年11月30日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○











































この記事が参加している募集

読書感想文