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相沢沙呼 『小説の神様』: 巧みな〈マインド・コントロール〉術師の手技

書評:相沢沙呼『小説の神様』(講談社タイガ)

なかなか興味深い作品であった。
何が興味深いのかというと、この作品は「プロとして、小説を書き続けることの意味」を問う小説となっており、そのために、今の出版界やラノベの問題を、かなりリアルかつ批判的に扱っているのだ。

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主人公・千谷一也(ちたに いちや)は、14歳で文学新人賞を受賞し、覆面作家として作家業を続けている高校生男子である。一也の父も専業作家であったが、その熱意は別にして、終生ぱっとしないうちに若くして亡くなってしまったため、借金だけが後に残された。母親は編集者で忙しくしているが、勤務先は一流ではないので、高給取りというわけではない。さらに、妹は、家族思いのよくできた娘ではあるものの、命に関わる難病を患って入院中であり、近く、難しい手術を受けることになっている。
したがって、一也は、アルバイトもしてはいるが、プロの小説家としての稼ぎも大いに期待されている存在で、本人も「売れる本を書かなければない」というプレッシャーを感じて、最近では、小説を書くのが苦痛でしかなく、スランプ状態に陥っていた。

そんな、彼のクラスに、絵に描いたような美少女・小余綾詩凪(こゆるぎ しいな)が転校してくる。
彼女は、美人なだけではなく、成績優秀で運動神経も抜群の才色兼備。しかも、学校では黙っているので気づかれていないが、じつは彼女も、若くして作家デビューし、一時は「美少女小説家」として持て囃されたこともある、ベストセラー作家であった。

一也は、担当の女性編集者に新作のプロットを提出するが、これもあまりぱっとしない。一也の本は、出版不況のおりから初版発行部数をジリジリと減らされており、そんな焦りもあって、とうてい「書きたいものがあるから書く」というような状態ではなかったため、おのずと新作のプロットも冴えないものになってしまっていた。

そこで、このスランプの打開策として、編集者は彼に「合作」の提案をする。
文章の素晴らしさでは定評があるものの、世間受けする面白いプロットが浮かばない一也のために、プロット担当の作家と組んでみてはどうかという提案がなされ、このままではジリ貧でしかないと焦っていた一也は、その提案を受け入れる。

ここで、多くの読者は、その「プロット担当の作家」が、小余綾詩凪であろうことを、容易に察するだろう。

売れない作家の一也と、売れっ子作家の詩凪のコンビで、新作を書くわけだが、売れないことに焦りとコンプレックスを抱える一也と、売れっ子作家として当然の自負を持っている詩凪の間で、プロットの中身をめぐって対立が生じる。

一也に言わせれば、詩凪が出してきたプロットにある主人公の性格が、プロットどおりに「気弱」なままでは、自分が小説化しても、絶対にコケるから、もっと積極的で魅力的な「世間受けのする性格の主人公にしなければならない」。だが、詩凪はこの考え方を頷じ得ず、それでは、書きたいテーマからズレてしまうと反対する。
口論となったあげく、詩凪は一也に「どうして、そんなに世間に迎合しようとするのか。あなたは何で小説を書いているのか。書きたいことはないのか」等と本質的な質問をぶつけ、一也はこれに「お金のためだ。売れる本が書きたいんだ。君がそんなきれいごとを言えるのは、売れっ子だからに他ならない。プロの作家は、売れなきゃ話にならないんだ」と反論して、詩凪を呆れさせる。

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(コミカライズ版第1巻)

このように、この小説は、二人の主人公の「創作観の対立的議論」というかたちで、今の出版界の問題が、リアルかつ批判的に語られるのだが、しかし、不思議なことに、そうした「読者迎合の、パターン化されたラノベ」の問題が、作中で一也の口を借りて「こんなの(ご都合主義)ありえない」「現実逃避」「人間が描けていない」等と批判されるにも関わらず、この作品の設定自体が、まさに、そんな「ラノベ」のパターンをそのまま踏襲しているのである。一一これはどういうことだろうか?

Amazonのカスタマーレビューを見てみると、こうした点に疑問を呈しているレビューもある。

『 uyu  星3つ「議論がすれ違ってるよね
他方は売れるか売れないか、という議論をしていて、他方は小説が人を動かせるかどうかっていう話をしていて、論点が完全にすれ違っているから噛み合うはずもない。
いつも思うが議論するなら言葉の定義を共有して、論点を絞って議論すべきだと思う。
まあ、こういうことを小説の中の感情のぶつけ合いみたいな場面で指摘するのも野暮というものかもしれないが。』

『 U-GO 星2つ「うーん、ちょっと・・・」(抄録)
・次に主人公を取り巻く環境。
言うに及ばず、今作は「如何にもラノベラノベした売れ線の本」を揶揄し続ける構造のお話ですが、そんな主人公を取り巻くのは病弱な妹、どれだけすげなくされても主人公に憧れる健気な後輩と、文武両道才色兼備のスーパー美少女売れっ子作家です。これなんてラノベ?
派手な展開の無い、どちらかというと文芸に寄せた作品構造でありながら骨格はラノベとしか言いようのないその中途半端さ。』

上の二人のレビュアーの違和感は、至極もっともなものである。

「uyu」氏の「違和感」は、作中の議論が「論理的な議論」ではない「想いのぶつかり合い」でしかないことを承知の上で、しかし「こういう頭の悪い議論は読みたくない」という意味だ。
一方「U-GO」氏の方は、本作が「典型的なラノベパターンを批判しながら、自身がそのラノベパターンになってしまっている矛盾」を「中途半端さ」として捉えている。

つまり、本作は、こうした「奇妙な歪み」を孕んだまま、激しい意見のぶつけ合いで物語を推進させる作品なのだが、当然のことながら最後は、「小説を何のために書くのか?」という「目的論」については「願いを届けるため」だという、じつに「無難」なところに落ち着く。

そもそも、ベストセラー作家である詩凪が、どうして一也と合作をすることになったのかと言えば、それは、彼女が「盗作疑惑」によって、悪意あるネットバッシングに晒され、心に傷を受けたために、文章が書けなくなってしまったからなのだ。彼女の転校も、このバッシング事件で学校に迷惑をかけつづけることを避けたためである。
そして、そんな苦境から彼女を救うために、たまたま一也と共通だった担当編集者が、詩凪に「合作」を持ちかけた、ということだったのだ。

この作品で、主に一也の口を借りて語られるのは、「今の出版界はクソ」「ラノベはクソ(駄菓子)」「ラノベ作家も、志を失った売文芸者」「読者も、甘ったるい駄菓子(感動)をねだるだけで、少しも成長しないクソ」という現状批判であり、詩凪は、そうした「リアルな現実」に対し、「理想」において反駁する立場だったのだが、じつはその詩凪自身が、そうした「度し難い現実」に、すでに深く傷つけられていたということが、後半で判明するのである。

そして、最後は、一也の方が、彼の才能を信じる親友や後輩などの励ましもあって、小説を書くことの意味は、度し難い「現実」を超えていこうとする「願い」を込めることだと気づく。
たとえ、作者自身が、その「願い」に値するほどの人間ではないとしても、読者がその「願い」を受け取ってくれなくても、それでも「願い」を込めた物語を書くことが、小説家の存在意義ではないのかと気付く。
そして本来、自分が描きたかったのは「困難に陥ったお姫様を、勇気を振り絞って救いに行く少年」の物語だったのだと気づく。彼のデビュー作は、そんなお話だったのである。

だから彼は、当初彼の語っていた「リアルな現実」の前に、今は「じつは自分(詩凪)自身が敗れていた」と認めて、すっかり物語が紡げなくなっていた詩凪を、その苦境から救い出そうと、合作の再開を申し出る。そして、その中で新たな光明を見出す。一一という「ハッピーエンド」が、このお話なのだ。

 ○ ○ ○

つまり、この作品上での「結論」としては、「小説を書く」という行為において大切なのは、「売れるか否か」「ラノベか否か」ではなくて(あるいは、プロか否かにかかわりなく)、そこに「願いは込められているのか否か」であり、言ってみれば、「願いさえ込められているということであれば、何でもあり」ということになってしまっているのだ。
だから、最終的に一也は「僕が書きかかったのは、読者が幸せになれる小説だ」というところに落ち着くのだが、この「落としどころ」には、何やら「狐につままれた」感がないだろうか?

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(続編『小説の神様 あなたを読む物語』下巻の、映画版表紙)

結局は、「売れなくてもいい」けれど「願いさえ込められていれば、流行りのラノベパターンでもかまわない」ということになってしまい、この考え方自体は間違いではないのだが、実質的には「今の出版業界もOK」「売れ筋パターンのラノベでもOK」「そんなものばかり読んで、成長できない読者でも、ひとまずOK」ということの「アリバイ」になってしまっている。

だからこそ、本作『小説の神様』は、「典型的なラノベパターン」で書かれていても、そこに「プロとして小説を書く者の、熱い願い」が込められているから、「これでよし」ということになっているのだ。

一一だが、これでは、所詮「ものすごく遠回りの自己正当化」でしかない、のではないか?
作者は、本気で「今の出版界の問題」「パターン化されたラノベの問題」「意識が低く、成長しない読者の問題」に取り組んでいたわけではない、のではないか? 一一ということになる。

で、私の答えは「そうだ。これは、この作者お得意の、ペテンだったのだ」ということになる。

私は、本作を読む前に、作者の代表作と呼んでいいだろう「本格ミステリ」の傑作『medium[メディウム] 霊媒探偵 城塚翡翠』のレビューを書いているが、そこでは、同作の「本格ミステリ」としての「仕掛け」をバラすことをしなかった。『メディウム』は、それがすべての作品だったからである。

だが、ここでは本作『小説の神様』の「仕掛け」を説明するために、『メディウム』の「仕掛け」の本質が何であったかを説明したい。したがって、

【※ 本作作者・相沢沙呼の作品『medium[メディウム] 霊媒探偵 城塚翡翠』のネタを割りますので、未読の方はご注意ください】

と、断っておこう。

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『メディウム』の「仕掛け」の本質は、「叙述によって、読者を翻弄(幻惑)する」ところにある。
端的に言ってしまえば「作者は、あまり人間が描けていない作家である」と思わせておいて、そこにトリックを仕掛けていたのだ。

こうした事例から類推すれば、本作『小説の神様』のトリックとは、作者が「小説を書くことの意味」をテーマとしている「ように見せかける」ところにあった、と言えるだろう。

つまり、作者は、本気で「今の出版界の問題」「パターン化されたラノベの問題」「意識が低く、成長しない読者の問題」に取り組む気などなく、作者の真の目的は、そうした問題に真剣に取り組んでいるように見せかけることで、逆に「現実逃避的に感動的なラノベ」パターンを、正当化するところにこそにあったのである。

だからこそ、作者は忌憚なく「今の出版界の問題」「パターン化されたラノベの問題」「意識が低く、成長しない読者の問題」を批判的に語ることができた。一一これは、「作者の思い(本音)」ではなく、「作中人物の想い」でしかないと、ちゃんと「逃げ道」が用意されているからだ。

無論、一也に語らせたことの多くは、作者・相沢沙呼の「本音」ではあろうが、作者は、その「本音」に責任を持つつもりなどなかった。つまり「ラノベっぽいラノベなど書かない」と宣言し実行するつもりなど、毛ほども無かった。
言いたいことを言った上で、それが「作中の仕掛け」でしかなかったということにできるから、作者自身が傷つくことはなく、それでいて多くの「ラノベ読者」は、「作者の熱い思いが込められた作品」だと思わされ、まんまと「感動」させられてしまう。これが本作の「本質」なのである。

もちろん私は、作者を非難しようとは思わない。
こんなものに騙されるのは、作者も書いているとおり、読者が「現実逃避の感動だけを求めている、レベルの低い読者」に他ならないからだ。つまり、本作はその意味で、読者を「感動させつつ、そのじつ、腹の底ではあざ笑う」、きわめて「底意地の悪い、批評的作品」だと言えるのである。

だからこそ、読者の中には「違和感」を覚えた者も少なくなかった。
作者が「作中人物の口」を借りて語っていることと、「作品自体の形式」との矛盾から、それは感じ取られて「当然のこと」であり、その意味で作者は、この作品の中に「謎解きのヒント」を、あらかじめフェアに、ばら撒いていた。

だから、それでも「作者の本音」を見抜くことができず、まんまと騙され「感動」させられてしまったのなら、それは「頭の悪い読者」が、作者の「マインド・コントロール」のまんまとハマってしまったということでしかなく、いわば「自業自得」にしかならないのである。

無論、作者が、こうした「本音」の部分を公然と語ることなど金輪際あり得ず、私のこの解読は「悪意ある、恣意的な解釈」だということにされるだろう。
だから、どちらが「真相」なのかは、読者個々の読解に任せたいと思う。

しかしながら、作者・相沢沙呼の代表作たる『medium[メディウム] 霊媒探偵 城塚翡翠』に、自らも「奇術(マジック)」をたしなむミステリ作家、綾辻行人の寄せた推薦文を、ここで思い出しておくべきではあろう。

『ミステリ界随一の本格的な奇術師である相沢沙呼の、巧妙にして実にイジワルな、それでいて胸の空く一撃!』

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奇術師は「右手に観客の目を惹きつけておいて、左手で仕掛けを弄する」。
これは奇術の基本であり、たぶん、相沢沙呼という「ミステリ作家」の得意とするところなのでもあろう。

そんな彼が、「頭の悪いラノベ読者」に対して『巧妙にして実にイジワルな、それでいて胸の空く一撃!』を加えていたとしても、特に怪しむに足りないのではないだろうか。


(2022年8月22日)

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