見出し画像

西尾潤 『マルチの子』 : 弱き人のための〈叙述トリック〉

書評:西尾潤『マルチの子』(徳間書店)

著者は、「第2回大藪春彦新人賞」を受賞し、受賞作を組み込むかたちで長編化した『愚か者の身分』で作家デビューを果たした、期待の新人ミステリ作家だ。

私の場合、基本的には「本格ミステリ」の読者なので、本来ならば、この新人作家の本は手に取らなかった。なにしろ、大藪春彦にしろ、『愚か者の身分』に推薦文を寄せていた馳星周や今野敏にしろ、「トリックとロジック」の本格ミステリを書く作家ではなかったし、『愚か者の身分』も本作『マルチの子』も、犯罪者を主人公として描いた「犯罪小説」であり、その主眼が「トリックとロジック」にないのは明らかなのだから、基本的には守備範囲外の作品だったのだ。
しかし、それでも本作『マルチの子』を手に取ったのは、そうしたミステリ小説としての部分ではなく、題材としての「マルチ商法」に興味があったからである。

私は、小説も読むが、一方で「宗教」にも深く関心を持っており、素人研究までしている。ただし、私の「宗教」への興味は、肯定的なものではなく、批判的なものだ。端的に言えば「どうして人は、宗教のような非合理なものを信じられるのだろう」という疑問に発した、宗教研究だ(いかにも「トリックとロジック」に関心を持つ「本格ミステリ」ファンらしくなってきたのではないだろうか)。
そして、こうした「宗教」への興味からすれば、じつのところ「マルチ商法」には、じつに「宗教」がかったところがあって、私はそこに興味を惹かれたのである。

ここで少し脱線して、個人的なことを書かせていただこう。
私が「マルチ商法」に興味を持つのは、基本的には前述したとおりで、極めて知的な興味だと言えるだろう。しかし、そうした興味を持つきっかけには、個人的な体験があった。

私は、小学生の頃に、両親とともに「創価学会」に入信した。もちろん、その段階では「宗教」については何の考えも持っていなかったのだが、長ずるに連れて、私は宗教的な「回心」が得られないことに、つねに居心地の悪さを感じていた。要は、いつまでたっても「信仰的確信」が持てないでいたのである。だがその一方、基本的には「優等生」タイプだった私は「それは自分の信仰心が足りないからだろう」と考えてもいた。

高校を卒業し、一浪の後、進学はやめて社会人になった頃だったと思う。いきなり、高校でクラスメートだった女子から電話がかかってきた。今とは違って、家の固定電話にである。
で、詳しいやり取りは忘れてしまったが、要は「久しぶりに合わないか」というお誘いだったので、私はホイホイと出かけていった。特に親しかったわけでもないのに何故だろうという多少の疑問はあったけれど、そんなことを気にはしなかった。若かったのである。一一無論、結論から言うとこれは、「マルチ」のお誘いだった。

大阪梅田の喫茶店でおちあって旧交を温めたが、そこでは具体的な話は出ず、ただ「ちょっと一緒に来て欲しいところがある」と誘われて、ついていった先が、何かの「即売会場」だった。
そこでは、じつに元気でハキハキとしゃべる若い男性が、講演のようなことをしていたのだが、私がそこで引っかかったのは、その男性の異様に元気で人当たりの良い話ぶりと、会場の後方で控えるスタッフたちの、じつにタイミングを心得た「場の盛り上げ方」だった。

「これは……学会の会合に似ているな」と感じて、かえって違和感を覚え、私は警戒心を強めたのである。

なにしろ、創価学会は「他宗派批判」を旨とする教派だったから、宗教には敏感であるし、批判的に見る。だから、このときの私も(自分のことは棚に上げて)「こいつら、胡散くさいな」と感じ、やがて具体的な羽布団のセールスに入った段階で「これが目的だったのか」と納得し、もちろん契約はせずに、元クラスメートの女子に断りを入れて、会場を後にした。

で、私は非常に腹を立てていた。要は「高価な羽布団」を売るために、さも、私に「会いたい」といったような電話を入れてきたのだから、要は「俺を舐めとったんやな」と考えた。
だが、あれは何だったのだろうと、学会の年長者の先輩に尋ねたりしているうちに「それはマルチ商法というやつやで。アムウェイとかと同じや。アムウェイって、聞いたことない?」などと教えられ、今度は、ものの本などを繙き「無限連鎖講の防止に関する法律」なんてものの存在も知って、あれはそんなにうさんくさい商売だったのかと納得したのである。

そして、ここで終わらないのが私で、元クラスメートにコケにされたままでは腹の虫がおさまらぬと、一計を案じた。「今度は俺の方から、彼女を学会の会合に誘って、徹底的に折伏して入信を進めてやろう」と考えたのだ。

もともと私は、布教活動は苦手だった。なにしろ自分自身が、信仰に確信を持てないのだから、他人に自信を持ってオススメすることなどできない。しかし、信仰というのは「人を救ってナンボ」つまり「入信させて救う」のが目的なのだから、それが嫌だとか気が進まないなどとは、なかなか口にはできないのである。

だが、元クラスメートの彼女に関しては、そんな良心的な遠慮は働かなかった。なにしろ「羽布団」を売りつけるためのカモにされかけたのだから「今度はこっちの番だ。みんなで取り囲んで、嫌というほど入信を進めてやろう」などと、ほとんど「自分の信仰を何だと思っているんだ」というような発想で悪巧みをし、彼女を私の自宅で開いた学会の末端会合「座談会」に呼び出し、学会の先輩たちにも協力してもらって、「商売もいいけどね、本当に幸せになりたいのなら、日蓮大聖人の仏法を持つしかないよ」などと、ほとんど取り囲むようにして勧誘・説得を試みたのである。

結果としては、彼女は入信せずに帰っていったのだが、私としては「ざまあみろ」と、復讐を果たした気分で、満足だった。

その後、私は創価学会を去ることになる。理由は「イラク戦争」である。
創価学会が選挙運動で支えた「公明党」は、もともとは、与党自民党に対決姿勢をとる庶民派野党だったはずなのだが、いつの間にか自民党と組んで政権与党なってしまった。その際も「昔言ってたことと違うじゃないか」と思いはしたものの、いちおう「政権のブレーキ役」という説明を信じることにした。

しかし「イラク戦争」支持だけは、絶対に許せなかった。
私は、「信仰」の部分では確信は持てなかったが、創価学会の「平和運動」だけは信じていたのである。そこが裏切られたのだから、ひととおりの批判を試み、それでも創価学会の元には戻らないとわかると、私は「この信仰は、もともと間違っていたのだ。だから、こんな結果になったのだ」と確信して、創価学会を去ったのである。

これが、私が「宗教」や「マルチ商法」に対して批判的興味を持つ、遠因であった。

  ○ ○ ○

さて、やっと本作だが、本作は「マルチ商法」を扱った「犯罪小説」であり、マルチにハマり込んだ人間を描く作品として、私の興味を惹いた。

本作の主人公が、客に対して語る勧誘の言葉『人を応援することが自分の幸せにもなる。いい仕事だとは思いませんか?』は、いかにも「宗教」に近い。つまり「他人を救い、そのことによって自分も現世利益(功徳)を得る」のだから、基本的には、同じ「構造」だと言ってもいいだろう。

本作の中には「人に認められたかった」というようなセリフが何度か出てくるが、「宗教」であろうと「マルチ商法」であろうと、「きれいごとを掲げて、それを現世利益につなげるような形態のもの」にハマる人というのは「満たされない承認欲求」にとらわれている人が少なくないように思う。要は「あなたの行動は崇高なものである」という、(仲間内ではあれ)他者の賞賛の言葉が、そこでは与えられるからである。

したがって、本書を読んで、私は「宗教」と「マルチ商法」の共通性を確認することができただけでも十分に満足できたのだが、しかし、この実にサスペンスフルな小説は、それに止まるものではなかった。一一ラストに、思いもよらぬ「どんでん返し」が待っていたのである。

 ○ ○ ○

「どんでん返し」は、いわば「本格ミステリの十八番」であって、「犯罪小説」ではあまり見かけないものなのだが、本作にはそれが、周到に仕組まれていた(後で、細かな「伏線」がしっかりと敷かれていたことに気付かされたのだ)。

本作に対する読者としての私には、「本格ミステリ」を読むときのような「作者には騙されまい」とする警戒心を無かったがために、最後で見事にアッと驚かさたのである。「ああ、これは叙述トリックを仕掛けた作品だったのか!」と。

通常、「本格ミステリ」作品においては、それが「叙述トリック」を仕掛けた作品だとバラすのは「ネタバレ」としてご法度である。
なぜなら、「本格ミステリ」を読み慣れた読者なら、それが「叙述トリックミステリ」だと気づいた段階で、作者の手の内を見透かしてしまう蓋然性が極めて高いからだ。

「はは〜ん、この視点の頻繁な移動は、いかにもだな。だとすると、ここで交互に登場する人物は、実は同一人物なんじゃないか」とか、逆に「一人に見せかけて、じつは複数人」あるいは「男に見せかけて、女」「大人に見せかけて、子供」「人間に見せかけて、他の生物」「同時代に見せかけて、じつは別の時代」「同じ国に見せかけて、別の国」などのパターンを思い出して、眉に唾をして、ストーリーではなく、著者の「書きぶり」や「レトリック」に注目し、そこに隠された「無理」や「違和感」から、仕掛けを看破しようとするからである。

しかし、本作の場合は、もともと「宗教がかった」人間の視点で描かれており、そういう人の視点に立って「リアルに描く」だけで、それは一種の「叙述トリック」になってしまう。だから、そこにはほとんど「無理がない」。したがって、その仕掛けが看破されることも、ほとんどないのだ。

つまり、本作の凄いところは、「本格ミステリ」では作者が読者に対し、無理をしてでも技巧的に仕掛ける「叙述トリック」を、「マルチの人」の「自然な内面描写」として組み込んで見せた点にある。そこでの「叙述トリック」は、不自然なものではなく、「マルチの人」には極めて自然な、結果としての「自己に対する叙述トリック」になっていたのである。

言い換えれば、「マルチ商法にハマる人」や「宗教にハマる人」というのは、「自分自身に対して、叙述トリックを仕掛けてしまっている人」であり「自己を騙している人」なのだと言えよう。だからこそ、その「真相」が暴かれれば、その世界は「どんでん返し」されてしまう。

以上のようなわけで、本作は「自分を騙してしまう、弱い人間」を描く「犯罪小説」であると同時に、「どんでん返し」を仕組んだ「本格ミステリ」でもあるという、極めて珍しい傑作だと言えるのである。

初出:2021年6月21日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○










 ○ ○ ○








 ○ ○ ○




 ○ ○ ○




この記事が参加している募集

読書感想文