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萱野稔人 『リベラリズムの終わり』 : 〈時流迎合〉のレトリシャン:萱野稔人批判

書評:萱野稔人『リベラリズムの終わり』(幻冬舎新書)

本書は、まぎれもなく「反リベラリズム」の本である。
普通に読めば、そうとしか読めない内容であるからこそ、著者は本文中でも、そうではないと否認を繰り返し、ダメ押しのように「あとがき」でも、それを強調する。

『リベラリズムをどう評価するかという問題は「右」と「左」の対立に直接結びついている。リベラリズムに肯定的であれば「左」であり、否定的であれば「右」である、という対立だ。
 そうした対立のもとで本書が「反リベラリズム」の本だと分類されてしまうことは、私にとって不本意である。そもそも本書は「右」「左」のどちらかにくみすることをめざしてはいない。
 だから、あらためて強調しておきたい。
 私は本書で、リベラリズムという哲学原理はどのような限界を抱えているのかということを、リベラリズムをとりまく現代の状況をつうじて考察している。しかしそれはけっしてリベラリズムを否定するためではない。そうではなく反対に、フェアネス(公平さ、公正さ)を重視するというリベラリズムの最良の部分をより活かすためである。』(P238)

要は「私は〈中立〉であり、左右二極という世俗的なしがらみから超然とした客観的な立場から、公平に語っているんですよ」という、まことに臆面もない「自己申告」である。

しかし、こんなことは、「悪意」や「敵意」を持って「敵」を批判する人なればこそ、強調しなくてはならないことだし、強調しがちなことなのだ。
訊かれもしないのに、「私にはなにも疾しいところはありません」などと自分から言い出す人ほど、怪しい者はいない。そんなふうだからこそ「挙動不審」者なのである。
下心があって何かを企んでいる者、人を騙してやろうという者が、「私は悪意を持ってますよ」などと、正直に語るわけもない。
これは社会人としての常識であろう。

例えば、オレオレ詐欺の詐欺師は「私は、悪意を持って、あなたを欺こうとしています(あなたを欺きました)」とは決して言わない。逆である。「私は、善意から、貴方に助言してあげようとしているのだ。少々引っ掛かるところもあるかもしれないが、そこは私を信じてほしい」と言うだろう。しかしまた、そんな言葉を真にうける「ナイーブな人」も結構いるからこそ、この詐欺は成り立つのである。
したがって、当たり前の話だが、大人なら「善意からの行ない」であると、やたらに「自己申告」するような人に対しては、眉に唾して、適切に疑ってかかる必要がある。でないと、相手は「言葉のプロ」なのだから、上手に手玉にとられてしまうことにもなろう。

ところが、「そんなこと言われなくても、わかっている」という、自身の「知力」に過剰な自信を持っている人ほど、この種の詐欺に引っ掛かりやすい。認知能力が落ちている人ほど、自身の能力を疑うこともできないから、容易に、相手の口車に乗せられてしまう。

まして詐欺師は、その人が聞きたくないことは、決して言わない。
その人が、漠然と感じていることに、一定の方向付けを加えて形を与えて、その人が考えてきたことが「まさにそれだった」のだと思わせるのだから、人はそれを喜んで信じてしまうのだ。だが、その段階で、その人は詐欺師のマインド・コントロール下に落ちてしまっているのである。

 ○ ○ ○

本書に書かれていることは、ぜんぜん難しい話ではない。たしかに、薄い新書1冊で語ってしまえるほど、簡単な話である。
それで「リベラリズムの本質的問題点を剔抉している」と言うのだから、著者は歴史に名を残すほどの稀有な哲学者だ、ということになるはずなのだが、しかし、そこまで信じ込んでしまえる人というのは、哲学や思想の本を、まともに読んだことがない人に違いない。哲学や思想の世界は、そんな浅薄なものではない、という程度のことは、実際に哲学・思想書を読んだ人なら、容易にわかることなのだ。

哲学や思想の世界というのは、「自分の好み」に応じて「何が真実なのか」を決めつけるような世界ではない。
もちろん、人間誰しも「好みの考え方」があって、できればそれが「普遍的な真実」であって欲しいと思いはするけれど、そうした欲望を抑えて、「それは本当に正しいのか」と考えみる(自己相対化・自己検証の)姿勢が、哲学や思想をする人の根本にはあって、それが無い人というのは、基本的に「自身の好み」を「盲信」している「信仰者」にすぎない。
そして、そうした「願望充足的確信」が、きわめて危険だというのは、前述の詐欺の例にも明らかなとおりである。

つまり、「リベラリズム」とは、本書に語られるほど、薄っぺらな思想ではない、ということだ。
日本に、あるいは世界に、いったいどれくらいの「リベラリズム思想家」がいると思っていれば、読者であるあなたは、著者が言うような「薄っぺらなリベラリズム」といったことを、真に受けることができるのだろうか。

しかし、現実には「リベラリズム」は、現代の知的主流なのである。そのため、人数も多ければ、当然ピンからキリまでいて、キリが膨大だとしても、ピンの、つまり一流のリベラリズム思想家も大勢いる。
で、そんなピンのリベラリズム思想家が、本書の著者が言うほど「何にも考えていない」とか「現実的裏づけのないキレイゴトだけで、多くの人を騙し続けてきた」、なんていう「大胆な放言」を信じるというのは、いかがなものであろう。そういうものを信じる人の「リベラリストのイメージ」とは、きっと「テレビのコメンテーター」レベルなのではないか。
もっとも、「テレビのコメンテーター」が悪いというのではない。テレビはきわめて時間的表現的な制約のあるメディアだから、その限られた時間内で、理論的根拠まで懇切丁寧には語るということはできず、どうしても「ワンフレーズ・ポリティクス」的な「単純化されたメッセージ」になりがちであり、だからこそ、それだけでは、その中身の適切な判断などできはしない。

だから、「一流の思想家」の本を読んでみるといい。そして、真逆の立場の思想家の本と読み比べてみるといい。
好みの問題はあるにせよ、どちらの主張もそれなりに、問題の本質を突いており、素人が簡単に批判反論できるような、薄っぺらなものではないことを、きっと知ることができるだろう。「良書を読む」とは、そういうことなのだ。

それなのに、本書の著者は、そんな「リベラリズム」の思想を、こんなにも薄っぺらい新書1冊で、簡便に「本質的な批判を加えた」と訴えているわけなのだが、そんな「うまい話」を鵜呑みにするのは、哲学や思想の常識を欠いた人の、安易な信憑と言うほかないだろう。

本書で語られていることは、非常にシンプルである。
要は「外国人や生活保護受給者などに対する、世間の風当たりがキツくなっているのは、少子高齢化によって、国民に分配するための財政資源(パイ)が減っているからだ」というものだ。

そこで著者は、こうした「世間の風潮」は、「根拠のある反応」なのだとした上で、「分配するパイの目減り」のゆえに、外国人や生活保護受給者などに辛くあたる人が増えるのは当然であり、それを「右傾化」だなどと呼び、見下してあしらおうとするリベラルの態度は、根本的な問題を考えようとしない、不誠実な誤魔化しでしかない、と言う。
つまり、著者は「外国人や生活保護受給者、部落解放同盟などへの差別的排斥運動」をおこなった「在特会」などの存在には一切触れず、そういうものも「故ある反応」「右傾化と呼ぶべきではない」などと言うだけで、まったく批判しようともしないどころか、実質的には「正当化」してさえいるのである。

たしかに、国民に分配するべき「パイ」は減っていよう。しかし、だからと言って「移民を拒絶せよ」「自救能力もない劣等民は切り捨てろ」とは、著者も、決して言わない。
「誤解されては困るのだが、私はそんなことを言いたいのではない。そうではなく、リベラルは、こうした難問に気づいていながら、それに答えようとしないから、信用を失ったのだ。」というのが、本著において、著者が何度も繰り返すフレーズである。
つまり「私は、リベラリズムのために、良かれと思って、苦言を呈しているだけなのだ」というのが、著者の言い分なのだが、こういう「キレイゴト」なら、誰よりも詐欺師のお得意だろう。
「この投資は、後進国の人たちを助けると同時に、それによる金銭的リターンも確実な商品です」なんてのが、投資詐欺の基本的なパターン。要は、「他者からの称賛が欲しい」「損するのは困るが、リターンがあるのなら投資してもいい」「金儲けのことしか考えていない奴だなんて思われたくない」といった、人のありがちな「欲望」につけ込むのが、詐欺師の基本なのだから、彼らがことさらに「タテマエとしてのキレイゴト」を語るのは、必然なのだ。

そもそも「キレイゴト」と「お金」は両立しにくいものだから、リベラルは苦労するのであり、それが「両立できていないじゃないか」というような批判など、「自分を棚上げ」に出来さえすれば、子供にでもできる論難でしかないのである。

「リベラリズム」とは、単なる「自由(競争)主義」ではなく、「弱者に手厚く」という考え方に特徴があるのだが、無論それだけで「万事がうまくいく」などとは考えていない。

「善人」であるだけ、「お人好し」であるだけで、万事うまくいくなどと考える、まともなリベラルはいない。それくらいのことなら、当然のこと、誰よりも了解している。
それは「理想」ゆえこそ、容易には両立しないものなのだ。「弱者に手厚く」と「全体の利益」の両立が困難なことくらいは、子供にでもわかることなのである。
しかし、だからと言って、「弱者に手厚く」という「リベラリズムの中心理念」を捨てたら、世の中はどんなことになるか。弱者という「(政治的な)力なき者」を切り捨て、「人権」などという抽象理念は後回しにし、憲法前文が語る「世界に誇るべき(人道的な)立場」なんてものも(トランプ式に)なげ捨てて、それで「ただで済む」と思っているのだろうか。
「そうではない。そんな安易な、脊髄反射的自己中心主義では、日本は立ち行かない。日本にまともな未来はない」と考えるからこそ、「リベラリズム」は「弱者に手厚く」という「理念」を捨てないのである。

つまり、リベラルにとっての「弱者に手厚く」というのは、いわば「セントラル・ドグマ」なのだ(だからこそ、ロールズはそれを、フランスの3理念である「自由、平等、友愛」の、「友愛」に当たるものだとした)。
それは、その「理想」の実現が困難であったとしても、絶対に、捨ててしまうわけにはいかないもの。むしろ、「社会全体」を活かすためにこそ、中心に据えなければならない「理念」であり、その理念を活かすために「あらゆるもの」を動員すべきもの、なのである。

本書の著者は「リベラリズムは、リベラリズムだけでは、その中心教義を支えきれない欠陥品なのだ」と主張する。
しかし、リベラリズムとはもともと、功利主義であろうとなんであろうと、利用できるものは利用して、「安定した社会」の実現を目指すものであり、「弱者に手厚く」とは、その「象徴的な中心教義(そこを押さえているかぎり、大きく誤らないという基準)」なのであって、だからこそ、著者の批判は的外れなのである。

本書の著者による、「問題の恣意的単純化」と、リベラルに対する「一方的なレッテル貼り」と「説明責任の押し付け」は、非常にわかりやすく、ネットでもよく見かけるような(非哲学的な)シロモノでしかない。
しかし、それが、多少なりとも、もっともらしく見えるのだとしたら、それは読者が、著者に「有名人としての権威」を見るからであろう。「なにしろ、現代思想の本場フランスで学んだ、テレビにもよく出ている気鋭の哲学研究者なのだから、きっと(世界レベルを超えるような)すごい(斬新かつ的確な)ことを言っているのだろう」という、能天気なまでに過大な「先入観」を持っているからなのだ。

この点について、本書のレビュアーの一人である「起きて半畳、寝て一畳」氏は、じつに本質的な指摘をしている。

『次になにゆうのかな、と読者を引き込む腕はある。現在の日本政治・言論状況へのメッセージとしては読みやすい。ロールズの「共通資本」を出しながら論じたのは良い。
 しかし、上述の点から単純化させすぎているようで、自由主義の勉強をしてきた人が読んで新しい学びがあったといえるかな。これはあくまで一般向けということだろう。(あえて、好評価すれば古くて新しい主題と再認識させられたとはいえる)。また、財源を無視しがちだとして「リベラリズム」を何度も批判しながら、結局はそれへの自身の答えは直接なかったのもやや気持ち悪い。』

問題は、『単純化させすぎている』『結局はそれ(※ 「弱者への手厚い手当て」と「全体の利益」の両立)への自身の答えは直接なかった』という、『やや気持ち悪い』二点。
つまり、ここで指摘されているのは、本書著者の「語り」が、「問題の恣意的単純化と、説明責任の一方的押しつけ」という、よくある「ネトウヨ的手法(論破法)」に酷似したものである、という事実なのである。

じっさい、著者自身は、「弱者への手厚い手当て」と「全体の利益」の両立、という難問について、どう考えているのだろうか。

しかしそれは、本書の読者にはすでに明らかだろう。
要は「弱者という役立たずは、切り捨てればいい」ということなのだ。
だからこそ、身も蓋もない「自分の意見」は隠して語らず、次のように、読者に対し、誘導的に問うてくるのである。

『 私たちはこれに耐えられるだろうか。それでもなお(※ 世界のどこにも、犠牲者となる弱者のいない、弱者を手厚く遇する、そのぶん、みんながそろって貧乏になるような)世界国家が望ましいと主張しつづけられるだろうか。』(P235)

もちろん、著者の答は「そんな政治制度に耐えるつもりはありません」である。
著者は、このように非現実的な「リベラル理想主義的専制世界のディストピア」を描いてまで、読者に「弱者を切り捨てよ。さもなければ、我々も共倒れだ」と訴えたいのである。

 ○ ○ ○

私は、著者を、本書で初めて読んだ。初期の著作をその当時に買ってはいたが、積読の山に埋もれさせてしまい、今日にいたったのだ。それでも、著者のことはテレビで視てはいたから、「ご活躍だな」という程度には憶えいたのである。

そして、本書読了後「こんなことを書く人が、どう評価されているのだろう」と疑問に思い、ネット検索してみると、果たせるかな「萱野稔人の右傾化が止まらない」などと「左翼のネット民」から叩かれていたらしい。
だから、「きっと左翼リベラルが、嫌いになったのだろうな」と了解できた。

つまり、本書は「私が右傾化したのではなく、もともとリベラルに問題があったから、私はその点を、好意から指摘してあげているだけ。それを右傾化だなどと誹謗されるのは、きわめて心外だ」ということを、アピールするために書かれた「自己正当化の書」なのであろう。

著者はもともと、学生当時に「フランス現代思想が流行っていたから、フランスに留学することにした」という、きわめて平凡なノンポリで、流行に流される、しかし「優秀な人」であった。だからこそ、哲学を勉強したあとも、やっぱり「三つ子の魂百まで」で、「世間の空気」に流され、あるいは「時流」を読んで、自然に「反リベラル」に、転じたのであろう。また、そんな自分を正当化するためには、フランス留学してまで学んだ「哲学の知識」も役に立ったということなのであろう。
「哲学することはできなくても、哲学に関する知識は役に立つ」という、これはとても分かりやすい実例なのだ。

もちろん、私たちリベラルは、「キレイゴト」を語るだけで済ましてはならず、「全体の利益」との両立という難問と向き合い続けなければならない。
形勢不利と見て、世間におもねり、時流に乗って「右」に転ずるなどという、場当たり的な生き残りなど選ぶべきではない。

本書の著者は、地位もお金もある(それに、情報公開されてはいないが、若い奥さんや子供さんもいるし、イケメンの人気者)なのだから、「役立たずの貧乏人」なんかに「脚を引っぱられたくない」という気持ちになるのも、決して分からない話ではない。まして、「両親には、学的雰囲気はなかった」という趣旨のことを語っており、著者はそんな家庭環境にあって、それでも「自力」で哲学教授にまでなった人なのだから、「恵まれない生育環境」を言あげするような人たち(弱者)に共感できないというのも、あるいは仕方がないのかも知れない。
人間の「素地」というものは、なかなか「お勉強」だけで塗り替えてしまうことはできないものなのだ。

だが、ロールズの言う「無知のベール」とは言わないまでも、著者には、「本当に恵まれない人、不運な人への想像力」を持って欲しいのだが、やはりそれが、少々欠けているのではないだろうか。
「敵(頭の悪い偽善者たち)」を攻撃するのに忙しくて、そんなところまで想像力を働かせている暇などないのかも知れないが、しかし、「そここそが、人間にとっては大切なところなのですよ」と、著者に助言して差し上げたいところではある。

初出:2019年12月20日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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