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高橋昌一郎 『20世紀論争史』 : 良識派・高橋昌一郎の〈衣の下〉は「原発再稼働派」 【増補29版】

書評:高橋昌一郎『20世紀論争史』(光文社新書)

(※  当記事は、Amazonレビューの転載です。下のとおり【補記1】から始まっているのは、私のレビュー投稿の翌日に、反論レビューの投稿があり、それに、レビューを増補するかたちで反論したところ、私の増補版レビューが削除されたので、レビューを再アップした事情を説明するためのものでした。その後も削除は繰り返されており、そのたびに補記を付け加えたのですが、本文レビューの前に置かれた補記が長くなりすぎたため、【補記14】の段階で、いったん補記を整理しました。その後も、削除は続き、以降の補記は、本文レビューの後に付するかたちにしました。ここに収録したのは、本日2021年9月6日現在の最新版です。Amazonの方では今後も、削除の度に最新版をアップしていきます

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 【補記1】(2021.4.3)

昨日アップした私のレビューに対して、レビュアー「bluegreen」氏から反論があったので、それに対する再反論を「増補」してアップしたところ、さっそく「増補版」レビューが「削除」されたので、再アップしておきました。

「反論」ではなく、「管理者通報」で言論封圧か。
「科学」の世界とは違い、「政治」がらみだとよくあることです。

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 (中略)
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 【補記14】(2021.4.29)

また削除されたので、再アップしました。
13回目の削除です。よっぽど読まれたくないんですね。

いささか「補記」が長くなってしまいましたので、今回は【補記2〜13】を整理しました。
なお、「無削除版」については、私の掲示板「アレクセイの花園」に、本日(2021.04.29)付でアップしておりますので、ぜひご参照ください。

さて、レビュー本文以降の「補記」において、ポイントとなる記述は、

(1)文末に添付した【補論1】でも示したとおり、高橋昌一郎教授が、一般企業である「日産」から資金援助を受けているという事実。

(2)今回紹介した、近年激化してる大学での「国家予算(補助金)と競争的資金」争奪戦の背景には、安倍晋三政権以降の「科学技術の軍事利用」に道を開くという路線と、「日本学術会議」の「科学技術の平和利用堅持」路線との対立がある、という事実。

の2点だと言えるでしょう。
今回は(2)の点について、下のとおりご紹介させていただきました。

なお、以降の「削除」報告の補記は、文末に付します。

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 【政治と学術の暗闘と、その影響】

私はいま、小森田秋夫『日本学術会議会員の任命拒否』(花伝社)というパンフレットを読んでいる。
そこで語られている問題が、当レビューで指摘した「高橋昌一郎の二枚舌」の、背景にあるものかも知れないと気づかされた。

派手にニュースにもなった「菅義偉首相による、日本学術会議の新会員任命拒否」問題とは、政府が「科学技術の軍事利用」を進めるうえで、平和主義の「日本学術会議」を目障りな存在として、その弱体化を図ろうとした謀略の一貫であると言えるだろう。

つまり「科学技術の平和利用」に固執するような、人文系学者は排除したいからこそ、「科学技術の軍事目的研究」に物申した学者たちの、会員任命を拒否したのだ。

言い換えれば「科学技術の軍事利用」に理解のある学者は、政府からも歓迎され、何かと余録にあずかれるので、「日本学術会議」の発足の趣旨である「科学技術の平和利用」といったことに、あまり興味のない、とにかく「自分の研究を、予算をたっぷり使って続けたい」というノンポリ学者の場合は、政府の方針に媚びることになりやすい、ということになる。

そして、人文系の学者がすべて「平和主義者」か「反原発主義者」かと言えば、無論そんなことはないのだけれど、日本の学界においては、まだまだ「私は、科学技術の軍事利用に賛成です」と、そんな本音を公言できる雰囲気ではないから、いきおい「建前としては科学の平和利用を唱え、本音(裏)では、予算さえ出るのなら、軍事利用もいいじゃないかと考える」学者は、当然少なからず実在するのだ。

そんなわけで、高橋昌一郎が自著『フォン・ノイマンの哲学』では、一見したところ、ノイマンの軍事協力に否定的であるかのようなことを書きながら、その批判が通りいっぺんで、熱が込もらないものでしかなかったというのも、同書が「アリバイ作り」のために書かれたものであるなら、それも当然なことだし、同じ著者が「原発推進・再稼働派」であっても、何の不思議もない、ということになるのである。

「日本学術会議」の内部にさえ、科学技術の軍事利用に「理解を示す」学者がいるのだから、学術会議の会員ではない学者に、そうした「政府の方針に協力的」な学者も少なくないということは、容易に窺えるのである。

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【「bluegreen」氏による反論に対して】

本日(2021年4月2日)、私のレビュー「良識派・高橋昌一郎の〈衣の下〉は「原発再稼働派」」が投稿された後に、「高橋さんは原発推進派ではないんだがww」というタイトルのレビューを投稿した「bluegreen」(AHBSTGMO2DC3Y2CZUE3WURUN22MA)氏が、私の「読み」を完全否定し、私を批判している。

そこで、この反論の根拠もろくに示しておらず、「印象操作」にしかならない、「bluegreen」氏による「決めつけだけの短文」に対し、レビュー本文の前に、私のこの反論を「増補」して掲げておこうと思う。
「bluegreen」氏の無内容なレビューによる「印象操作」によって、私の長めのレビューを最後まで読もうとする律儀な人が減ることがあってはならないからだ。

「bluegreen」氏のレビュー全文は次の通り(1行空けは省略する)なので、具体的に反論させていただこう。

まず、私のレビューが長いからという理由で『よほどのコンプレックスと執念を感じるほど、異様としか言いようがない。。。』とのことだが、批判論文としては、決して長い文章ではない。

私のレビューは「面白かった・面白くなかった」と言ったような「結論だけの感想文」でもなければ、「あらすじ紹介文」でもなく、本書『20世紀論争史 現代思想の源泉』における、著者・高橋昌一郎の「秘められた意図」を、根拠を示して、批判的に論ずるものなのだから、長くなるのは当然なのだ。

たしかに、「bluegreen」氏の場合は、批判の論拠を示した文章を書けないので、「いつでも短い文章(印象論)」で済むのだろうが、私の場合「批判する場合には、十分に根拠を示さなくてはならない」と考えるので、どうしても相応に長くなってしまうのである。

したがって「bluegreen」氏の『いったいどこから高橋さんが原発推進派と断言しているのか??』という懐疑は、私のレビューを「読んでいないから」か「理解できなかったから」に違いない。理由は、嫌というほど懇切丁寧に、レビュー本文に示してある。

「bluegreen」氏は、高橋昌一郎が「原発再稼働派」ではない根拠として『2011年震災直後、週刊現代の高橋さんのインタビューをご一読あれと言っておこう。「人類は、まだ原子力を使いこなせるレベルには達していない」と答えている。Twilogにある。』と説明しているが、原発事故の直後に質問されれば、当然、「原発文化人」の多くも、そのように答えただろうことは、自明である。

逆に、あの事故の直後に「いやいや大丈夫です。人類は、原子力を使いこなせるレベルにあります」などと答える馬鹿正直な「原発文化人」など、一人もいなかったのではないだろうか。
それはちょうど犯罪者が、捕まった後に「犯意」を否定するのと同じことだ。「そのような認識はなかった」「天地神明に賭けて、そんなつもりはなかった」といった具合である。しかし、こんな「自己申告」を鵜呑みにするというのは、知的に、いかがなものであろうか。

私がレビュー本文で、本書の文章を具体的に示しながら論じたように、高橋は事故後の著作である本書においても、架空の「助手」の口を借りて、

と語らせ、自身を投影した「教授」にも、それを否定させてはいない。

だが、これが『原子力開発や遺伝子工学』などの危険性を訴えて、その技術の凍結を望んでいる人たちを『「反科学思想」を身につけた人物』だと侮蔑するものであることは、明白だろう。

つまり、もしも高橋昌一郎が、今も本気で『「人類は、まだ原子力を使いこなせるレベルには達していない」』と考えているのであれば、原発の廃止を求めている人たちを支持こそすれ、こうした人たちを『「反科学思想」を身につけた人物』などと侮蔑するはずもないのである。

そもそも「bluegreen」氏は、私がレビューのタイトルを『良識派・高橋昌一郎の〈衣の下〉は「原発再稼働派」』としたことの意味を、全く理解していない。
このタイトルの意味は「高橋昌一郎は、人前では良識派の衣を着て、それを演じているけれど、その本性は、とうてい良識派とは言えない、原発再稼働派の原発文化人」である、というものだ。つまり「高橋の表面(衣)だけ見ていたら、騙されますよ」という意味でなのである。

もちろん、世の中には、高橋の「衣」に騙される人は多い。
高橋だって、だてに著作のたくさんある文筆家ではないのだから、凡庸な読者を欺くくらいの筆力はあるし、なにしろヒトラーの『我が闘争』を読んでも、当時のドイツでは無論、今の日本ですら「なかなか立派なことを書いている」などと宣うレビュアーが少なくないというのが、今の日本の知的現実なのだ。
だから、高橋の「立派な肩書き」と「心にもないタテマエ」に欺かれる読者が多いのは当然だし、だからこそ、そんなものに「騙されるな」と注意を促す、私のレビューにも存在価値がある。

表面的な理解で、高橋を擁護するような「bluegreen」氏のような人は当然いるし、まして高橋には現実に、多くの弟子だの学生だのがいるのだから、私のように正面切って批判をすれば、擁護に走る人は出てくるのも当然だ。
だが、「bluegreen」氏のレビューを読むかぎり、氏は単に「読めない」し「書けない」だけの読者なのだろう。この程度の薄っぺらな根拠で、私の「高橋昌一郎批判」に反論したことになるのなら、「リベラル」を「パヨク」と呼んで悪口を掻き立てる「ネトウヨ」のそれだって、「反論」ということになるだろう。

---------------------(以下、レビュー本文)---------------------

本書が教えてくれるのは、「ひと通りの知識を持っていること」と「物事を本質的に考えられること」とは、まったく別物である、という「忘れられがちな事実」である。

本書の内容については、先行のレビュアーである「mountainside」氏が書かれているとおり『20世紀論争史を主に哲学✕科学の対立を軸に総括した本』であり、『余りに多くの論争がぎっしり紹介されているので、個々の論点の解説が少ない。これでは初学者は理解出来ない。』という評価が、まったく正しい。
本書は、ある程度の予備知識がある者にとっては「ごく常識的な、ひと通りの紹介」の域を出るものではなく、ほとんど著者一人満足しているだけの「コーヒーうんちく」同様に、まったく「深み」のない「カタログ的テキスト」だ。
だから「本書を読んで、興味を持ったテーマがあったら、次はもっと突っ込んだ内容の本を読んでね」という感じの「入門書」的な本だと理解すれば、それで十分だろう。

しかし、この「思索的な深み」の無さは、何も本書にかぎった話ではなく、むしろ本書著者・高橋昌一郎の弱点であり、問題点があることを見逃すべきではない。

高橋は「科学史に精通した哲学者であり論理学者」であるから、その「頭の良さ」に非の打ち所はないのだが、しかし、高橋の「哲学」とは、「哲学史家」の「哲学」でしかない。
つまり、先行の哲学者の思想を、よく理解して解説するのはお得意だが、当人には「哲学」とか「思想」というほどのものはなく、彼の口から語られるのは、ほとんど「通り一遍の良識的見解」でしかないようなものなのだ。

例えば私は、本書の一ヶ月前に刊行された『フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔』(講談社現代新書)を読んでいるが、そのレビュー「フォン・ノイマンという〈善悪の彼岸〉」で、著者について、次のように評している。

これが、著者をあまり「褒めていない」評価だということに、お気づきいただけただろうか?

この『フォン・ノイマンの哲学』において描かれるとおり、ノイマンは広島や長崎に投下された「原爆」の開発リーダーだったばかりではなく、戦後も、その死まで兵器開発に携わった人物であり、そのずば抜けた頭の良さも含めて、「悪魔」のような学者であった。
こうした事実からすれば、著者・高橋昌一郎の「ノイマン批判」は、ごく常識的な「良識的」批判の域を一歩も出るものではなく、『著者が、責任ある日本の哲学者であり論理学者として、「科学」や「科学技術」のあり方に関わってきた人であることを考えれば』、ノイマンのことを「倫理的」に批判するのは、「本気」かどうかは別にして、立場上『当然のこと』でしかない一一という、これは、高橋の「ノイマン批判」の「深みの無さ(切実さのなさ、本気の感じられなさ)」に対する、「物足りなさの表明」だったのである。

そこで本書『20世紀論争史 現代思想の源泉』だが、本書でも、高橋の形式的な「良識的」コメントは随所に見られて、その「字面」だけを鵜呑みにすれば、高橋は「良識的なリベラル」だと感じられるだろう。しかしそれは、果たして正しい「読み」なのだろうか。

例えば、高橋は、「教授と助手の対話形式」で書かれた本書において、「助手」の『でも、科学者は、あくまで「真理」を追求しているはずですよね。』(P265)という質問に対し、自身に擬した「教授」の口を借りて、こんなふうに答えている。

そして、こうした「教授」の説明を聞いて、「助手」は『科学者も、欲望に塗れた人間だということですね。』(P266)と残念そうに返している。
しかし、ここで問題となるのは、このように「良識的」かつ「倫理的」に語っている、著者自身は、果たしてどうなのか、ということだ。

上のように『社会的地位や名誉の保持、研究費の獲得と技術応用やビジネスに関わる金銭的な思惑、さらにノーベル賞授与に代表される科学者グループ間の先取権争い』などについて「批判的」に書き、それを『科学者も、欲望に塗れた人間』なのだと「否定的」に語るのであれば、少なくとも著者自身は、そうした「世俗的欲望」から距離をおいて、「学者の本分」を貫いていなければならない。
自分がしてもいないことを、臆面もなく偉そうに、他人に要求したり批判したりするのは、「非倫理的」でもあれば「偽善的」でもあるからだ。

もちろん、本書著者である高橋昌一郎は、「哲学者」であり「論理学者」だから『研究費の獲得と技術応用やビジネスに関わる金銭的な思惑、さらにノーベル賞授与に代表される科学者グループ間の先取権争い』については、「文系学者」として、おのずと、かなりのところ無縁ではあろう。
しかし、では『社会的地位や名誉の保持』についてはどうか?

高橋が『社会的地位や名誉の保持』など気にせずに、自分の信ずるところを公言するような「正直な人間」であったなら、つまり、本書で紹介されるファイアアーベントのような人間であったならば、きっと高橋も、もっと面白い「本音」を、私たちに聞かせてくれたであろう。
つまり、ごく形式的な「良識的」意見や、常識的な「倫理的」意見、あるいは「ひと通りの正論」などではなく、世間の「良識」に疑義を呈するような大胆な「個性的意見」を、『社会的地位や名誉の保持』に配慮することなく、大胆に語ってくれたことであろう。
だが、高橋昌一郎という人は、そういう大胆さとは真逆に、「無難」な「良識派」でしかないのである。

しかし、そんな「無難な良識派」である高橋の「本音」が、チラリと覗く部分がある。
まさに、良識派著者の「衣の下の鎧」だ。

高橋は、本書の最終章である第30章「「危機」とは何か? 科学共同体×人間性」において、多くの人たちが「科学」を知ろうとせず、「科学」に対して感情的に反発する「反知性主義」である「反科学主義」的な「反科学思想」に陥っており、それがいたずらに「科学共同体の危機」を招いていると指摘し、次のように本書を締めくくっている。

ここを読めば、著者である高橋昌一郎が、「本音」では、「科学の発展を素直に追認しない一般人たち」を、いかに見下し、バカにしているかが察せられよう。

架空の「助手」の口を借りて『「反科学思想」を身につけた人物、私の周囲にいくらでもいますよ。原子力開発や遺伝子工学の廃止を求め、臓器移植や動物実験の禁止を訴え、西洋医学や精神医学に不信感を抱き、有機栽培や自然食品を好み、環境保護運動やフェミニズムに賛同し、ヨガや気功を実践し、超自然現象や神秘主義に憧れ、星占いや宗教に基盤を置いて生活している人物……。』と、ミソもクソも一緒くたにして、「科学に無知」な「反科学思想」の持ち主扱いにして、「印象操作」の「レッテル貼り」を、意図的に行っているのである。

こんな人(高橋昌一郎)が、よくも『科学技術の進化と人間性への影響については、私たち誰もが考えていかなければならない大問題』などと偉そうに言えたもので、他人に「考えることを促す」前に、自分自身についての『科学技術の進化と人間性への影響』について、反省的に考えるべきであろう。いかに自分が、「学問的頭の良さと博識」によって「人間性」を歪め、その「傲慢不遜」を陰険に隠し持った人間になってしまっているのか、ということを。

もちろん『原子力開発や遺伝子工学の廃止を求め、臓器移植や動物実験の禁止を訴え、西洋医学や精神医学に不信感を抱き、有機栽培や自然食品を好み、環境保護運動やフェミニズムに賛同し、ヨガや気功を実践し、超自然現象や神秘主義に憧れ、星占いや宗教に基盤を置いて生活している人物……。』たちには、連続的な共通点(欠点や行き過ぎ、過剰反応)もあるけれど、しかし『原子力開発』に反対している人たちと『超自然現象や神秘主義に憧れ、星占いや宗教に基盤を置いて生活している』人たちを一括りにして、大雑把に「反科学的思想」の持ち主だなどと言えるのであれば、本書著者の高橋昌一郎だって『社会的地位や名誉の保持、研究費の獲得と技術応用やビジネスに関わる金銭的な思惑、さらにノーベル賞授与に代表される科学者グループ間の先取権争い』やっている『欲望に塗れた』科学者たちと一括りにして、「同じ穴の狢」だと言えるだろう。だからこそ高橋は、「科学」を批判する人たちを、「反科学思想」の持ち主だと断ずることもできるのだ。彼らを、「自分たちの商売(科学)を、邪魔する者たち」だと考えるからこそ、彼らの批判には真摯に耳を傾けようとはせず、彼らを「科学の助言者」だと考える謙虚さも持ち得ないのである。

こう批判すると、高橋はきっと「いや、私は、批判には耳を傾けるべきだと考えているし、事実ここでも『科学に対するこれらの批判の中には、正当な内容も多く含まれている。』と書いているではないか」と言い訳するだろう。
しかし、「反科学的な言説」にも少なからず「正当な内容」が含まれているなどといったことは、わかりきった大前提でしかない。
なぜなら、現実問題として、科学者たち、あるいはその周辺の「学者」たちである『圧倒的多数の科学者が直面している問題は、社会的地位や名誉の保持、研究費の獲得と技術応用やビジネスに関わる金銭的な思惑、さらにノーベル賞授与に代表される科学者グループ間の先取権争いなどで、とくに若手研究者などは、その中で右往左往しているのが現状』なのだし、所詮は『欲望に塗れた人間』でしかないのだから、彼らを「野放し」にはできず、適切な「監視」や「批判」が必要だというのは、高橋自身も認める、論を待たない事実だからである。

そもそも、本書はじつに「うさんくさい科学啓蒙書」なのだ。
と言うのも、本書の『20世紀論争史を主に哲学✕科学の対立を軸に総括した本』であり、『余りに多くの論争がぎっしり紹介されているので、個々の論点の解説が少ない。これでは初学者は理解出来ない。』という「形式」は、著者の「知的優位」を誇示するためのもので、その「ひけらかしの権威」によって「科学技術の前にひれ伏さない人たち」を「反科学」の「反知性の徒」だと批判することを正当化する、そんな意図が本書には見え隠れするからである。

著者は「あとがき」にあたる「おわりに」で、読者に対し、本書で紹介された数々の論争について、自分でもその議論に参加してみること(そのような読み方)を要望して、次のように書いている。

つまり、高橋は、自身が、本書で紹介された数々の「論争」について『上空から「俯瞰」』できていると思っているし、自身には、それが可能なほどの『幅広い視野』がある、と思っているのである。それを信じて疑うことを知らないからこそ、このように、読者に対しても『広い視野』に立つことを望むことが出来るのだ。

言い換えればこれは、自分は「視野の広い」人間であり、一方『原子力開発や遺伝子工学の廃止を求め、臓器移植や動物実験の禁止を訴え、西洋医学や精神医学に不信感を抱き、有機栽培や自然食品を好み、環境保護運動やフェミニズムに賛同し、ヨガや気功を実践し、超自然現象や神秘主義に憧れ、星占いや宗教に基盤を置いて生活している人物……。』たちは「視野の狭い」人間だ、ということである。
だからこそ「科学技術」に対して「わかりもしない馬鹿どもが、身の程知らずに、あれこれ注文をつけるな。お前らは黙っていろ」と言いたいのである。

そして、本書がじつに「うさんくさい科学啓蒙書」だというのは、本書が「反原発運動なんかやっているやつは、科学と魔法の区別もつかないような、愚昧の徒である」という「印象」を、世間に刷り込むための「プロパガンダ」の書であるからだ。

例えば、本書が採用してる「教授と助手(あるいは学生)」、昔ならば「師匠と弟子」の問答形式というのは、読者を「誘導」するのに持ってこいの、昔ながらの書き方だ。

私は、キリスト教神学研究者である山本義久教授の『世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義』(新潮選書)のレビュー「現代日本における、巧妙な〈キリスト教布教の書〉」2021年2月14日)で、仏教学者・佐々木閑教授の『別冊100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』と併せて、この「教授と学生の対話」形式を、次のように解説している。

つまり「学生」や「助手」の側は、「読者」に近い位置を与えられながらも、結局は著者の思惑どおりに、読者を誘導的に「共感」させるための「憑代(依代)」でしかない、ということなのだ。
現に、前述のとおり、本書の最後の最後では、「助手」は「反科学思想」を無条件に蔑視する「著者の操り人形」と化している。

本書著者の高橋昌一郎は、自身が「科学や哲学について博識」なだけではなく、「幅広い視野」を持った人間だと自負しており、それが過ぎて「増上慢」に陥っているのであろう。だからこそ、安易かつ迂闊にも、

などと、他者の「正当な不安や心配」への配慮を欠いた書き方をしても、読者がそれを鵜呑みにしてくれるだろうと、不遜にもそう考えたのだ。

だが、読者は「科学バカ」や「哲学バカ」ばかりではない。
「文章」のちょっとした「言い回し」に敏感に反応する「文学バカ」もいるのだということを、高橋は『広い視野』に立って認識すべきだし、もっと「文学」方面や「人間心理」方面についても学ぶべきだろう。

無論、すべてのことを専門的に学べる者はいない。人間には、それだけの時間が与えられていないからなのだが、しかし「人間として、謙虚である」「人間として、誠実である」ということは、「専門的知識」以前に学んでおくべきことだ。「腹の底で、人々を小馬鹿にしながらも、口先だけはご立派なことを曰い、それで世の中がうまく渡っていける」などといった考えが「人間として、恥ずべきもの」だということくらいは、子供のうちに学んでおくべきものなのだ。
そして、本物の馬鹿でなければ、反省は今からでも遅くはないのである。

本書著者・高橋昌一郎の「本音の立場」がわかりやすいのは、特に「原発問題」についてである。

見てのとおり、高橋昌一郎は「原発文化人」の一人である。
原発関連企業からお金をもらっているかどうかは不明だが、「原発推進派」であり、「原発再稼働反対派」を「反科学思想の持ち主」だとする「御用文化人」であるというのは、見てのとおりの事実だ。

この文章も、一見したところでは「原子力技術の危険性」を語って「警鐘を鳴らしている」かのように見える。特に「原子力兵器」については、批判していると言っていいだろう。高橋の言うとおり『核兵器を保有する各国々の政府や軍部が、故意あるいは過失によって核戦争や核爆発を引き起こす可能性もまったくないわけではない。』のだが、しかし、高橋が擁護する「原子力発電=原子力の平和利用」についても、これまでに幾度となく「故意(の不作為)あるいは過失によって」事故がくり返されてきており、そうした「人為事故」が無くなることはないと適切に判断したればこそ、多くの人は「原発再稼働」に反対しているのである。

高橋のこの文章で注目すべきは『自然災害に加えて、ずさんな危機管理体制による人災は、原子力開発そのものに対する不信感を生み出し』という部分だ。

言うまでもなく「原発のずさんな管理」の問題は、『自然災害』が「原因」ではない。
「警告されていた巨大津波に対して、何の対処しなかった」という事実からも明らかなように、問題は「自然」そのものではなく、「自然」に対して十分な配慮を怠った「人為(ヒューマンファクター)」なのである。原発事故の9割は「人為的な事故」であり、「自然災害」のせいになど出来ないのだ。(※ ヒューマンファクターとは、「錯覚」「不注意」「近道行為」「省略行為」の4つに代表される人間の行動特性である。)

それなのに、高橋は、意図的に『自然災害に加えて、ずさんな危機管理体制による人災』と、「主従を逆転させた」書き方をしている。まるで「自然災害」対策さえしっかりやっておけば、原発での「人為災害」は「ほとんど起こらない」とでも言わんばかりに。

しかし、そうではないからこそ、科学者も含めて「原発再稼働」に反対する人が少なくはないのだ。
人間は必ず「楽観する」「手抜きをする」「金儲けに走る」もの、つまり科学者と同様に『欲望に塗れた人間』であり、「原子力発電」という技術は「当面、決して万全にはならない」と適切に判断し、それに伴う「巨大なリスク」を勘案したればこそ、原発再稼働にも反対するのだし、世界的にもその方向に進んでいるのである。

そして、高橋がいかに賢かろうが、世界に多く存在する「反原発科学者」すべてよりも「原発の危険性」に詳しいなどということはありえない。少なくとも、そう考えるのが「謙虚」な姿勢というものなのだ。

なるほど、「文系学者」である高橋昌一郎は、「理系学者」のように『研究費の獲得と技術応用やビジネスに関わる金銭的な思惑、さらにノーベル賞授与に代表される科学者グループ間の先取権争いなど』に走る蓋然性は低いだろう。なぜなら「お呼びではない」からだ。
しかし、著作のたくさんある「文系学者」である高橋にも、「原発産業」や「原発推進政府」からならば「お呼び」かかっていても、何の不思議もない。かつて「原発安全神話」を振りまいた「御用学者や御用文化人」が大勢いたし、今もいる、という事実を忘れてはならない。

高橋昌一郎が「本当はどうか」については、隠されていればこそわからないことなのだろうが、高橋もまた『欲望に塗れた人間』であろうことは、他人事のようにそれを批判してみせる臆面の無さからも、明らかなのである。

今後、高橋昌一郎という「学者」は、そのような目で「監視」されるべきだろうと私は考えるが、ご当人はいかがお考えだろうか?
「どうか、私が道を踏み外さないように見守り、必要と思えば、批判的な助言を与えてほしい」と、そう望むつもりが、高橋自身にはあるだろうか?

 初出:2021年4月2日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
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 【補論1 高橋昌一郎教授も、企業から競争的資金提供を受けている】
 (2021.04.06)

レビュー本文に、引用紹介しているとおり、高橋昌一郎は、科学技術系の研究者が、企業から資金提供を受けることに、否定的見解を示している。
だが、当の本人も、じつは企業から資金提供を受けているのだ。

ご当人としては「科学哲学を講じている文系学者だから、資金提供は研究に影響を与えない」という立場なのかも知れないが、世の中には「無料(ただ)ほど怖いものはない」つまり「見返りを求めないという便宜供与ほど怖いものはない」という格言もある。
哲学者であり論理学者である高橋昌一郎にとっては、こうした世俗的格言など、顧慮に値しないものなのだろうか。

このように高橋は、「日産」から資金提供を受けている。
少なくとも、日産に関係する技術開発については、否定的なことは言わないだろう。なにしろ学者も『欲望に塗れた人間』なのだから。

また、大学を辞めた後に、日産に天下りなんてことはないようにしてほしい。ああ、民間から民間は、天下りとは言わないか。似たようなものだとしても。

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 【補記15〜21】 削除日まとめ

・(2021.5.3)
・(2021.5.9)
・(2021.5.11)
・(2021.5.21)
・(2021.5.27)
・(2021.6.3)
・(2021.6.4)

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 【補記22】(2021.6.17)

「bluegreen」(AHBSTGMO2DC3Y2CZUE3WURUN22MA)氏による「高橋さんは原発推進派ではないんだがww」というタイトルの(私のレビューに対する反論)レビューが、削除されている。

形勢不利と見てのことだろう。じつに不誠実な動きだと言うべきであろう。

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 【補記23〜27】 削除日まとめ

・(2021.7.29)
・(2021.8.6)
・(2021.8.13)
・(2021.8.14)
・(2021.8.20)

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 【補記28】(2021.9.5)

削除されたので、再アップしました。
26回目の削除です。

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