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島村恭則 『みんなの民俗学 ヴァナキュラー ってなんだ?』 : 〈反=アンチ〉ではなく、 〈非〉とすべき。

書評:島村恭則『みんなの民俗学 ヴァナキュラーってなんだ?』(平凡社新書)

本書は「民俗学」の紹介書である。入門書ではなく、紹介書に近い。
本書の目的は、多くの人が思い浮かべる「古き良き民俗学」ではなく、「現在進行形の学問たる民俗学」の紹介だと言えるだろう。そのために、あえて「ヴァナキュラー」という耳慣れない言葉を使用して、耳目を集めようとしている。

『 日本では、民俗学というと、農山漁村に古くから伝わる民間伝承(妖怪、昔話、伝説、祭りなど)を研究する学問だと思われている場合も少なくないようだが、現在の民俗学はそのようなものではない。
 本書では、ヴァナキュラーというキーワードを用いながら、既存の「民俗学」のイメージを超えた、もっと広くて現実的な民俗学の世界を紹介していく。本書を通して、多くの方に民俗学の面白さを知っていただくこと。これが本書執筆の目的である。』(P16)

すでに民俗学に興味を持っている人というのは、いわば「古き良き民俗学」に興味を持ち、そこから「民俗学」という学問そのものを知るに至った人たちだと言えるだろう。つまり、入り口は、どうしても「古き良き民俗学」になってしまうので、興味を持つ人が限定されてしまう。
しかし、「民俗学」とは、そもそも「古き良き文化を研究する学問」ではなく、いわば「古きをたずねて新しきを知る」ような学問であり、言うなれば「目的は今であり、今の実相に触れるために、古きをもたずねる」学問だと言うことができるだろう。
柳田國男の門下から、「考現学」の今和次郎が出たのも、故なきことではないのである。

しかし、総体としての「民俗学」に興味を持ってもらうために、「今」を強調するのが、どれほど有効かは、いささか疑わしい。
本書で紹介される「今または近い過去」を素材にした民俗学的研究事例も、読者自身に身近な話題であれば興味を惹きもするだろうが、そうでなかった場合は、「古い」ものよりもかえって「目新しさ」に欠けて、それほど魅力的ではない、中途半端なものに見えてしまうからだ。

しかしまた、それはしかたのないことでもあろう。「古き良き民俗学」の魅力だけでは、充分な人数の研究者が集まらないので、「新しいのも、ありだよ」とアピールするのもまた、「あり」だからである。

だが、私が本書の主張で引っかかったのは、著者が「民俗学」の特徴として語る、「対啓蒙主義」といった点に見られる、「反=アンチ」性ということである。

『 民俗学とは、人間(人びと=〈民〉)について、〈俗〉の観点から研究する学問である。ここで〈俗〉とは、(1) 支配的権力になじまないもの、(2) 啓蒙主義的な合理性では必ずしも割り切れないもの、(3)「普遍」「主流」「中心」とされる立場にはなじまないもの、(4) 公式的な制度からは距離があるもの、のいずれか、もしくはその組み合わせのことをさす。本書のサブタイトルにある「ヴァナキュラー(vernacular)」は、この〈俗〉を意味する英語である。』(前同)

これはたぶん、著者の中に「反=アンチの美学」的なもの、「庶民主義」的な「判官贔屓」があって、それが読者をも惹きつけるだろうという期待があっての強調なのだろうが、実際のところ「民俗学」が「反=アンチの美学」や、まして「反=アンチの思想」を持っているかどうかは、いささか疑わしいのだ。

たしかに、著者が紹介するとおり、民俗学の巨人たち個人には、そういうものもあっただろう。しかし、柳田國男や折口信夫ですらそうであったように、彼らの「民俗学」は「(戦時)時局」に利用された過去があり、彼ら自身「時局」に「おもねった」とは言わないまでも、「時局」という「支配的権力」的なものに対して「反=アンチ」の立場を鮮明にして抵抗することができなかった、という歴史的事実があるからである。

だから「非」くらいならいい。積極的な「反」とか「対(抗)」ではなく、単なる事実としての「非」なら、歴史的に見ても「事実」に相違ないからである。

あと、もうひとつ引っかかるのは、著者が「反・啓蒙主義」「反・合理主義」の魅力を、強調しすぎている点である。
たしかに、「普遍」「主流」「中心」に対する「反=アンチ」としては、「反・啓蒙主義」「反・合理主義」にも、意味や存在価値はあるだろう。
しかし、「普遍」「主流」「中心」に対して「反=アンチ」を唱える「民俗学者」たちは、はたして「普遍」「主流」「中心」的な学問の重要な価値について、充分に学んだ上でそう言っているのか、ということである。そうではなく、単なる「イメージ」だけで、「普遍」「主流」「中心」的な学問に対して、「傍流」として反発しているだけではないのか、ということだ。

例えば、どれほどの「民俗学者」が、「現代科学」や「哲学」「思想」などについて研究しただろうか。
たしかに、歴史に名を残すような人は「己を知り敵を知れば、百戦危うからず」と知っているから、「民俗学」以外の「主流」学問にも、相応の目配りをし、相応の敬意をもって「対」したことだろう。

だが、本書における著者の、「普遍」「主流」「中心」に対する態度は、二項対立的な「反=アンチ」であって、「仮想敵」に対する敬意が、充分だとは言えないようだ。
まただからこそ、著者の学生の中には、素朴に「スピリチュアルなもの」に惹かれて、疑問を持っていない人も少なからずいるようで、そういう人だからこそ「民俗学」に惹かれたという側面も無くはないようだ。
もちろん、そうした若者たちも、学問を深めていく中で、それなりに「近代的理性」の重要性を学ぶことになるのだろうが、本書における著者の、「普遍」「主流」「中心」に対する「反=アンチ」には、そうした配慮がなされているとは言い難い。

著者は、「民俗学」の「反=アンチ」として魅力を強調するあまり、「近代的理性」というものの重みを軽く扱いすぎていて、そこには、かの「オウム真理教による地下鉄サリン事件」などに関わる、安易な「スピリチュアリズム」への「反省と警戒心」を欠いているようにしか見えない。
実際のところ著者は、本書執筆時に、オウム真理教とその多くの被害者のことを、忘れていたのではないだろうか。

「民俗学」が重要な学問であるのは論を待たないし、より多くの人にこの学問を継承して欲しいという著者の思いも正当なものである。
しかし、自家宣伝のために、他者に対する敬意と配慮を欠くのはいただけない。いくら紹介書だとは言っても、「民俗学」には、歴史的にも明暗両面のあった事実に、もうすこし配慮すべきであろう。
「釣書」のような「仲人口」の紹介書では、結果として「騙された」ということにもなりかねないのである。

初出:2020年12月3日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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