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ブルーハーツの遺した 〈重い荷物〉を : 陣野俊史 『ザ・ブルーハーツ ドブネズミの伝説』

書評:陣野俊史『ザ・ブルーハーツ ドブネズミの伝説』(河出書房新社)

本書は、音楽評論ではなく、ザ・ブルーハーツ(以下「ブルーハーツ」と略記)の楽曲の歌詞を「文芸批評」の形式で論じた、半評伝的な長編評論となっている。

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これは著者が「文芸評論家」だからなのだが、端的に言って、本書は「文芸評論」として駄作であり、著者の文芸評論家としての力量も二流だと断じて良いだろう。したがって、本書は読むに値する作品ではなく、その理由をくどくどと書く価値さえないのだが、理由を示さないで完全否定するのは、さすが著者に申し訳ないので、その理由を簡記した上で、ブルーハーツについての私見を述べたいと思う。

本書著者の「文芸評論家」としてのつまらなさは、おおむね次の3点にまとめられよう。

 (1)分析の凡庸陳腐さ
 (2)もったいぶった言い回しと、無駄なペダントリー(衒学)
 (3)批評家としての覚悟のなさ

(1)については、例えば「リンダリンダ」(作詞・甲本ヒロト)を象徴する「ドブネズミの美しさ」とは、いったい何を意味するのかという、著者自ら掲げた「設問」の回答が、(さんざ持って回ったあげくに)結局は「甲本の実体験に基づく、本物のドブネズミに対するリアルな美的実感だろう」という、何のひねりもないところに落とし込まれてしまったり、「手紙」(作詞・真島昌利)に登場する「ヴァージニア・ウルフのメノウのボタン」とは何なのかという設問については「ウルフの全集を読んでみたが、結局、瑪瑙が一度だけ登場するけれども、それでこの歌詞の謎が明確に解けたわけではない」といった締まらないオチになったり、といったことである。つまり、結論としては何の解明もなく、わざわざ分析してもらうまでもない「当たり前の話」にしかなっていないのだ。
言うまでもなく、「文芸批評」とは「解釈」であり、それは「絶対客観的な正解」を提示しうるものではない。あくまでも、作品と評者の対決において見出される「秘められた可能性の説得力」でなければならない。ところが、本書著者には、そうした能力が皆無なのだ。

(2)については、(1)で示したように、要は、本書著者には「文芸評論家」としての分析能力(読解能力)がないので、「いかにも評論家でございという、勿体ぶった言い回し」や「衒学」でもないことには、評論作品としての体裁すらなさないレベルだ、ということである。
実例を上げれば、前述の「ウルフ全集を全部読みました」とか、必要のない「太宰治風と坂口安吾風」とか「ユダヤ人哲学者レヴィナス」の無駄に長々とした引用とか、「小説家ばかりではなく、詩人も挙げておきます」とか、こんなものは「文学ファン」や「文芸評論の読者」にとっては、幼稚な「虚仮威し」にしかならない。こんなもので感心するのは、あまり「文学」や「哲学」の本を読まない、音楽ファンだけだろう。

(3)については、結局のところ、本書著者は、編集者の意向を忖度し「ブルーハーツを褒める」ことを前提にして、本書を書いている、ということだ(その方が売れる。今さら批判論を書いても、売れないに決まっているからだ)。
つまり、本書著者は「対等の同じ人間」として「ブルーハーツ」に向き合ってはおらず、「信者をおおぜい持つ、神話化されたロンクバンド」として、その「信者向け」に本書を書いている、ということである。
これも言うまでもないことだが、評論家というのは「提灯持ち売文芸人」ではなく、批評対象と自身の実存を賭けて対決し、その結果として、賛嘆したり批判したりする者でなければならない。それなのに、本書著者には、その覚悟が、あるいは、その自覚が全くなくて、実に軽薄なのである。

以上のようなわけで、必然的に本書は「薄っぺらなブルーハーツ論」にしかなっていないので、一般読者は無論、ブルーハーツファンにとっても、読むに値しない一冊だ、ということになる。
ただし、何がなんでも「ブルーハーツを、褒めてくれば嬉しい」とか「ブルーハーツを、批評用語や権威筋の言葉で飾り立て、権威づけてくれれば嬉しい」というような、ブルーハーツの盲信者向けにはなるかもしれないが。

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さて、ここからは「私のブルーハーツ論」を可能なかぎり簡単に紹介したい。また、そのことで、本書著者を批判した意味も、より鮮明になると思う。

私は「ブルーハーツのファン」というほどではなく「けっこう好きだ」くらいの人間である。もともと私には音楽を聴く習慣がほとんどなく、もっぱら「活字と画像」の人間なのだ。
「ブルーハーツ」を知ったのも、実質的には、一時期ハマった「カラオケ」で、友人が「リンダリンダ」を熱唱したのがきっかけだった。音楽を聴く趣味はなくても、歌うことは子供の頃から好きだったので、友人が熱唱するのを聞いて、歌って気持ち良さそうな曲だと、軽い気持ちで興味を持ち、二枚組のベストアルバムを買って聞き込み、そこでやっと「ブルーハーツ」というバンドの全体像を初めて知ることになる。
そしてそれは、ブルーハーツが解散した、ずっと後の話である。

そんなわけで、私自身、ブルーハーツの「音楽性」を云々できるなどと思ってはいない。だが、歌詞から読み取れるその思想性(政治イデオロギーの話ではない)ということについては、おのずと感ずるところもあり、その点で「好感」を持ったのだ。
ちなみに、私がブルーハーツに出会う以前、唯一気になっていた曲が「青空」であったと、後でわかる。つまり私は、「元気なバンド」としてブルーハーツと表面的に出会ったけれども、実はそれ以前に「悲しみをかかえたバンド」として出会っていたのである。

本を一冊書くわけではないので、早速、「神様」の問題からブルーハーツを論じよう。
本書でも、ブルーハーツの「解散」問題とからめて語られながら、結局は甲本ヒロトの供述どおりに「それが解散の主たる原因ではない」だろうと本書著者も是認している、かの「信仰問題」である。

本書でも指摘されているとおり、ブルーハーツの楽曲においては「神様」は、讃嘆や信仰の対象ではなく、むしろその絶対性や超越性に対する、水平性からの反発や揶揄、からかいの対象となっている。ところが、メンバーの一人が「幸福の科学」の信者となり、真剣に「神を賛嘆する信者」の立場に立ってしまった(垂直性を受け入れた)。当然のことながら、そこで「絶対者」に対するスタンスの違い、による対立が生じた。

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だが、問題は「意見の対立」「立場の違い」などではなく、ましてやメンバーの入信したのが「幸福の科学」という胡散くさい新興宗教だった、といったことではない。
問題の核心は、人間集団の中で当然起こりうる「意見の対立」「立場の違い」に対して、ブルーハーツは正面から向き合いそれと「対決」することを避けて、「解散」という逃避を選んでしまった事実なのである。

本書著者である陣野俊史の指摘を待つまでもなく、ブルーハーツファンの誰もが知っているとおり、ブルーハーツの魅力は「抑圧的な権威や権力に対する、威勢のいい反抗」であり、その一方での「弱者に対する共感と連帯の意志」だと言っても良いだろう。ブルーハーツの魅力は、極めてシンプルでわかりやすいものだ。
だが、もう一つ見落としてならないのは、ブルーハーツには「孤独」や「自己嫌悪」といった「負の感情」を表出したものも決して少なくないという事実であり、これがあるからこそ、ブルーハーツは単なる「元気な跳ねっ返り(陽)」では済まない、人間的な「陰影の深さ」という魅力をも持ちえていたのである。

しかし、こうした「陰陽の両義性」が突き詰められることは、決してなかった。
例えば、「チェインギャング」(作詞・真島昌利)で『僕の話を聞いてくれ/笑いとばしてもいいから/ブルースにとりつかれたら/チェインギャングは歌いだす/仮面をつけて生きるのは/息苦しくてしょうがない/どこでもいつも誰とでも/笑顔でなんていられない』という歌詞が、いったい何を意味するのか。
多くのファンは、それを突き詰めることを怖れながらも、真島昌利の、あるいはブルーハーツの「正直さ」を賛嘆することで、満足していたのではないだろうか。

だが、言うまでもなく、この歌詞における『仮面』とは、ブルーハーツの、「元気者」であり「優等生(優しい弱者の味方)」でもあるという、広く認知された「セルフイメージ」のことに違いなかろう。
ブルーハーツの作品から、ファンはそうしたイメージを持つし、それは当然、ブルーハーツ自身が、自分たちをそうしたものとして歌ったからこそ、そのように受け取られたのであって、決して不本意なものではなかったはずだ。みんなから「あいつらは、優しい反抗者だ」という一種の「文化ヒーロー」的なイメージを持たれ、愛され賛嘆されて、悪い気がするはずなどないし、そうした肯定的なイメージが広く受け入れられたからこそ、彼らは人気バンドとして「売れ」もしたのである。
しかし、そうした「金ピカのヒーローの仮面」は、当然のことだが、「普通の人間」には重荷である。

昔『レインボーマン』という子供向け特撮テレビドラマがあって、そのエンディングが、主人公の青年の想いを歌った「ヤマトタケシの歌」(作詞・川内康範)で、こんな歌詞だった。

『どうせこの世に 生まれたからにゃ/お金もほしいさ 名もほしい/自分のしあわせ 守りたい/ぼくだって人間だ/ぼくだって若いんだ/けれども その夢 すてさせる/この世の悪が すてさせる』

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こうした想いは、ブルーハーツのメンバーだって、基本的には同じだったはずである。
この「ヤマトタケシの歌」では、主人公が「悪の組織と戦う変身ヒーロー」だったから、やむなく自分の「青春の喜び」を犠牲にしたけれども、もともと「好き」でロックバンドを始めたブルーハーツのメンバーは、「命を賭けて悪と戦うヒーロー」でなどあり得ないし、「聖人君子」でもあり得ない。
それこそ『あれもしたい/これもしたい/もっとしたい/もっともっとしたい』(「夢」作詞・真島昌利)で、女の子も引っ掛けたいし、金も名誉も賛嘆も欲しいだろう。しかし、それを露骨に語ることはできない。ファンの女の子を片っ端からベッドに引っ張り込んでいたとかいった週刊誌ネタにでもなれば、ブルーハーツのイメージは地に堕ちてしまう。

しかしまた、だからこそ彼らは、自身で予防線的に「俺たちは、そんなご立派なもんじゃないよ。聖人君子なんかじゃない」と、その作品の中で語り、そういう「いい加減さ」もあるんだと、日頃の態度の中で精一杯、しかしイメージを壊さない程度に、アピールをしていたのである。
そのことで少しでも『息苦しくてしょうがない』拘束を緩めようとしていたのだ。

しかし、それはまた、あくまでも「イメージを壊さない範囲での、アリバイ作り」でしかなかった。
ファンたちは「あんなこと言ってるけど、あいつらの本質は、優しさであり、真面目さであり、自由なんだよ」と思ってくれ(フォローしてくれ)るから、その「夢(イメージ)」を壊してしまわない範囲での、ささやかな「抵抗」でしかなかったのだ。
そして、これが、私の言う「ブルーハーツは、正面から問題に向き合うことを避け続けた」ということの意味なのだ。

彼らは(主に、甲本と真島かもしれないが)、自分たちの「二重性」あるいは「両面性」を、「裏表二面性」のようにも感じれば、「偽善」のようにも感じていたことだろう。「俺たちは、そんな立派なもんじゃないし、じっさい歌詞にして発表することなんかできないような、弱さや汚さも持っているんだよ」と思っていただろう。そして、そうしたジレンマに発する苦悩を、「チェインギャング」のように『息苦しくてしょうがない』という弱音として吐き出したり、また気を取りなおして『ブルースをけとばせ』(「ブルースをけとばせ」作詞・真島昌利)と自身を叱咤したりもしたのだろう。
だが、いずれにしろそれは、己の矛盾と徹底的に向き合う、ということではなかった。矛盾葛藤を止揚合一するのではなく、言わば「双極性障害(躁うつ病)」的に表現して、その場をしのいでいたに過ぎないのだ。

だが、そうした「モラトリアム(宙吊り)」状態が永続することはなく、やがて否応のない「決断」を突きつけられた。「お前たちの〈神〉とは何か?」という、根源的な問いである。

これは単に「メンバーの一人が、新興宗教にハマって困った」という話ではない。
問われているのは「ブルーハーツの神は、本物なのか?」という問いなのだ。「自由」や「優しさ」や「反権威」というのは、「商品(のレッテル)」ではなく、ブルーハーツが命をかけることのできる「神」だったのか、という問いだ。

無論、甲本や真島には「そうだ。自由や優しさや反権威が、俺たちの信じるものだ」とは、言い切れなかっただろう。なぜなら、彼らは、それに憧れながらも、それを「重荷」とも感じていたし、その意味では「仮面」でしかないと思っていたからだ。
つまり「俺たちは、自由や優しさや反権威の、ニセ信者だった」のだという「やましさ」があるからこそ、素朴に「超越的な神に、全てを委ねることを決めた」メンバーを、説得したり論破することなど、できる話ではなかったのだ。自身の「信仰」に疑いを持っている者が、どうして「他人の信仰的確信」と、真正面から「対決」することなどできようか。

だから、最後のアルバム『PAN』で、甲本は『天国なんかに行きたくねえ』(「ヒューストン・ブルース」作詞・甲本ヒロト)という「独り言」を、自身を守る呪文のように繰り返すしかなかったのである。
ブルーハーツの「神」は、「幸福の科学」の「神」と「対決」して、仲間を救い出すほどの力を持っていなかったのだ。そして、そんな「弱さ」すらも「押しつけない優しさだ」と自己弁護するしかなかったのである。

つまり、「ブルーハーツの解散」とは、彼らの「神」が「半端もの」であったことを、決定的に暴かれてしまった結果だ、と言うことができよう。
もう、彼らは「彼らの神様」をナイーブに信じている「振り」をすることが出来なくなったから、彼らは「ブルーハーツの神様」を葬るしかなかったのであり、「極めて倫理的な信仰(という神)」を葬送した後のメンバーたちは、晴れて「普通の弱い人間」として生きることができるようにもなったのである。

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もちろん、以上は、私の「解釈」に過ぎない。こうした「解釈」に同意できないファンは、大勢いるだろう。だが、これは「多数決」の問題ではない。「多数者の専政」は許されない。それは、誰よりも「ブルーハーツの神様」が許さない「醜態」でしかないだろう。

だから、私たちは「独りで」立たなければならない。そして「ブルーハーツの神様」を引き受けて、ブルーハーツが終焉を迎えた地点から、彼らの遺志を継ぎ、その「ブルーなハート」を抱えながら、また走り出さねばならないのだ。

私が、陣野俊史の『ザ・ブルーハーツ ドブネズミの伝説』が、「ブルーハーツ論」としてお話にならない駄作だと評価するのも、同書が「ブルーハーツ」との「真剣な対決」試みることもなく、薄っぺらな「神話の追認」に明け暮れるものでしかなかったからである。
「ブルーハーツ」が私たちに遺していったものは、決してそんなお易いものではない。そんなに「軽い荷物」ではないのである。

ちなみに、私の誕生日は、真島昌利と甲本ヒロトの間の、1962年10月だ。
この本を読むまで、彼らの生年を気にしたこともなかったし、音楽に興味のなかった私は、彼らとは全く違った人生を歩んできたのだが、「もう一人の同世代」として、私は、「猫なで声の賛嘆」ではなく、彼らのケツを蹴とばしてやりたいと思ったのである。「ガンバレ!」と。

初出:2021年2月8日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年2月18日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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【補記】(2021年10月22日)
今回、本稿をnoteに転載するにあたって画像検索をしていたところ、小説家の吉本ばなな『僕の話を聞いてくれ―ザ・ブルーハーツ I  LOVE』(リトル・モア刊、1989)という本を書いていたことを初めて知った。
たぶん、ブルーハーツファンの多くは知らないだろうが、吉本ばななもまた「スピリチュアルな人」として、文学方面では有名だ。
ここで問題なのは、吉本ばななが「怪しい新興宗教に入信している」とかいった下世話な話ではない。言うまでもなく「スピリチュアルな人」というのは、個人の性格的傾向性の問題であって、所属の問題ではないからだ。
したがって、私が言いたいのは、ブルーハーツの「理想主義的な歌」には「浮世離れ=現実逃避」したい人を惹きつける力があったのではないか、ということだ。そして、身も蓋もなく言ってしまえば「行動を伴わない(現実と格闘しない)夢想的な理想主義」と相性が良かったのであろうということである。

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