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夢枕獏 『上弦の月を喰べる獅子』 : これは 〈世界〉について 物語である

書評:夢枕獏『上弦の月を喰べる獅子』(ハヤカワ文庫)

本作は「仏教的世界観」を、壮大な異世界冒険譚として描いた作品だと言えるだろう。
しかし、多くの日本人は、「仏教」を「宗教」のひとつだと理解している点において、こうした説明は誤解されやすい。

あえて言いきってしまえば、「仏教」は「宗教」ではない。
「仏教」は、「宇宙論」的な「哲学」なのだ。つまり、「キリスト教」などに代表される「宗教」が、「宇宙的真理を語った(騙った)フィクション」であるのに対し、「仏教」は「宇宙に関する、解釈学的な哲学」なのである。
したがって「仏教」は、「真理」に肉薄しようとはするが、個々の解釈学的な「認識」をもって「真理」だとは主張しない。あくまでもそれは「真理」すなわち「悟り」に至るまでの過渡的認識でしかなく、当然「悟り」そのものではないのであり、おのずと「真理」でもありえないからである。

では、「悟り」に至った者、つまり「真理」に至った「覚者(ブッダ)」が語ったことは「真理」なのか?
無論「真理」である。ただし、その「真理」を正しく理解(解釈)できるのもまた「覚者=悟りを開いた者」に限られる。したがって「覚者(ブッダ)」ではない私たち「凡夫」が、「覚者(ブッダ)」の語る「真理」の言葉を耳にしても、それだけで「真理」を認識することはできない。私たちはあくまでも、そうした「真理の言葉」(例えば、経文や教典)に導かれることによって、個々が「覚者(ブッダ)」への道を歩まなければならない。すなわち「仏道修行」である。

もっとも、ここで私の言う「仏道修行」とは、あたりまえに「仏門に入って(出家して)修行をする」ということだけを意味してはいない。
私は「無神論者」であり「無宗教者」であるけれども、「この世界(宇宙)の真理を認識したい」と考え、自分なりに「探求の道」を歩んでいるという事実において、実質的には「仏道修行」者なのだ。
これは、「仏教」が一種の「真理探究の道=哲学」であって、キリスト教のような「真理を独占したと主張するフィクション」ではないからである。また、そうした意味で「仏教は無神論である」とも言われるのだ。

キリスト教のように、その教え(教義)こそが、この宇宙(=世界)についての「唯一無二の真理」であると説く「宗教」が、それを「正統教義」として独占し、それに反するいかなる考えも間違いだと断ずるのは、理の当然である。「真理」が一つであり、それと違っているところがあるのであれば、それはそこが間違いであると考えるのは、ごく自然なことだ。
だが、この場合に問題となるのは、なぜ自分たちの「教義」が「真理」だと断ずることができるのか、という問題である。

それが「真理」であり、「真理」であるが故に「この世界を救済してみせたという実績・事実」があるのであれば、それが「真理」だという、一応の証明や証拠にもなろう。しかし、キリスト教を始めとして、あらゆる「宗教」は、いまだにこの世界やそこに住む人々を救ったことがない。

イエスは同時代の人々に、間もなく訪れる「神の国」に備えて、早く悔い改めろと訴えたが、結局それは、いまだに訪れてはいない。「神の国の遅延問題」である。

では、この世界まるごとの救済ではなく、個々に救済された事実があるのかと言えば、その証拠もどこにもない。「天国」の存在も、天国へ行った人の存在も、どこにもない。それはキリスト教会や個々の信者が「ある」と主張しているだけであって、キリスト教徒以外の人にもハッキリと認識できるような、具体的かつ客観的な証拠は、どこにもないのである。そもそも、そんなものがあれば、すべての人が進んでキリスト教徒になっていたことであろう。

結局のところ、キリスト教のような「宗教」は、「証拠のない世界観=教義」を語って、それを信じろと訴えるものでしかない。つまり「妄信しろ」と訴え、「妄信する者だけが、結果として救われる」と訴えている、「信用のおけない博打的世界観」にすぎないのだ。「世界の真理」を独占的に知っていると主張する「宗教」とは、そういうものなのである。

その意味で「仏教」は、「宗教」ではない。
「仏教」は、あくまでも「世界解釈」であり、その意味で「哲学」でしかない。それ以上の、厚かましい自己評価を語ってはいない。あくまでも「私たちは、こう考えるが、どうだろうか?」ということでしかない。
そして、それが「真理」かどうかを確かめるには、個々が「覚者(ブッダ)」への道を歩むしかないのである。

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さて、本作は、このような「仏教的宇宙観」を、異世界冒険譚のかたちで描いた「物語」である。それはちょうど、実在の人物としての釈迦(シッダールタ)が「悟り」を開いたのは、じつはその短い一生においてではなく、じつのところ、極めて長くて遥かな久遠からの時間の中を生まれ変わり死に変わりして、仏の教えを求める「歴劫修行」の果てに、釈迦(シッダールタ)の生の段階において、初めて「真理」に到達したのだ、とするような、教典に描かれた「物語」と、同じことなのだ。

つまり、「仏教的宇宙観」とは、客観的な数字や数式で語られてはおらず、「言葉」を用いて「物語」のかたちで、比喩的に描かれているのだ。したがって、そこに描かれた「物語」自体が、そのまま「真理」だというのではない。その物語は、「真理」の「比喩的説明」形式にすぎないのであり、キリスト教のように「マリアの処女懐胎」だとか「イエスの処刑後三日目の復活」だとかいったことを「客観的事実=現実」として「そのまま信じろ」などとは言わない。

仏教教典には、先に紹介した「輪廻転生」的な「歴劫修行」といった「お話」だけではなく、とんでもなく壮大なお話が多数登場するが、それはあくまでも、この「宇宙=世界」というものの本質であり「真理」を説明するための「喩え話」でしかなく、それをそのまま信じるべき「真理」ではないのである。
仏教においては、そうした「物語(フィクション)」を参照し、助けを借りながらながら、個々がそれぞれに、この世界の「真理」を直覚しなければならず、それは「言葉」によって他者と共有できるようなものではないのである。

したがって、本書『上弦の月を喰べる獅子』という「作品」も、そういう「仏教教典」と本質的に同じものである、と言っても過言ではない。これは、夢枕獏という作家が書いた、彼なりの、過渡的な「世界解釈」であり「世界観」なのだ。
だから、本作には、この世界の「真理」が確実に含まれている一方で、当然のことながら誤認も含まれている。すべての「仏教教典」が「真理そのもの」ではないように、本作で描かれた「比喩的世界観」も、ひとつの「仏道修行」の過程で得られた「過渡的産物」にすぎない。
しかしまた、この世のすべての認識は「過渡的産物」にすぎない。「真理」を知るのは「覚者(ブッダ)」だけだが、その「真理」は共有し得ないのであるから、「真理そのもの」は、いかなる書物にも記されてはいないのである。

では、本書に示された「過渡的世界観」とは、どのようなものであろうか。
それは、きわめてオーソドックスな仏教的思想である「すべては、そのままに救われている」というものではないかと思う。
つまり、「近親相姦」も「殺人」も、この世界の究極においては許されており、赦されている。だからこそ、それは現に存在し、そうした「不幸」と思えるものにとらわれる不幸な人も、現に存在するのである。

誰も、好きこのんで「近親相姦者」になりたいとは思わない。誰も、好きこのんで「殺人嗜好症のサイコパス」に生まれつきたいとは思わない。しかし、この世界は、あらゆる可能性に開かれており、必然的に「悪」と呼ばれる存在に生まれついてしまう、不幸な人もある。
不幸としか呼びようのない肉体を持って産まれたり、不幸としか呼びようのない環境に生まれてしまい、不幸のままに死なざるを得ない人も大勢いる。それが、この世界の「真実」なのだ。一一これは、どういうことなのだろうか?

言ってしまえば、結局のところ、この世界には「善も悪もない」のだ。
それは、人間という「種」が生き延びるために生み出した「道具的観念」であって、それ自体が「宇宙の法則」でも「真理」でもないのである。私たちは、そうした「進化論的必然性」に縛られて、物事を判断するしかないように作られているだけで、それは、あらゆるもの、例えば、別の生命体に対しても矛盾なく適用できるような「絶対的真理」などではない。だからこそ、私たちは、クジラやイルカの命をどう扱うか、ノミやシラミや命をどう扱うのが正しいのかと考えた時に、自身の「独善」を認識しないでいられないのである。

したがって、本作『上弦の月を喰べる獅子』が、「宇宙論」であると同時に「進化論」であるというのも、当然のことである。
この「宇宙(=世界)とは何か」と考えることと、「人間とは何か」と考えることは、同じであるし、それは必然的に「生命とは何か」をおのずと問うことにもなる。「世界=宇宙」を問うことにおいて、「人間中心」主義では済まされないし、それで済まそうとすれば、「認識論的限界」において独善的な決定という「教義」を持ち、それを「信仰」するしかなくなるのである。

ともあれ、そんなわけで、この「宇宙=世界」は、なにゆえにか、一定の方向に「進化」している。人間を含むすべての生命体や非生命体の「進化=変化」も、その上でのことでしかない。
しかし、なぜこの「宇宙=世界」は「進化=変化」するのだろうか。どうして「静止」してはいけないのだろうか。なぜ「寂滅」であってはいけないのか。この世界が存在しなければ、そこには「善悪」も必要なく「幸不幸」も生み出されないではないか。一一たしかに、そのとおりなのだ。

だが、現にこの「宇宙=世界」は在り、必然的にそこには「善悪」が生み出され「幸不幸」が生み出される。これを、どう考えれば良いのか。言い変えれば、本来的に「善悪」のない、必然的に「不幸」をも含み持つすべての可能性に開かれたこの「宇宙=世界」が存在するという事実は、はたして「肯定」的なものなのか、それとも「否定」的なものなのか。これは、「愛」なのか「呪い」なのか。

それが「二つのものでない」と説くところが「仏教的な宇宙観」であり、そのうえでそれを「どちらと見るか」の判断は、個々に任されている。
個々の「悟り」とは、この「無意味の意図(意味)」を問うことの先にあるのである。

初出:2020年11月17日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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