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しまだ 『ママの推しは教祖様 ~家族が新興宗教にハマってハチャメチャになったお話~』 : 私は 「ママ」を愛する。

書評:しまだ『ママの推しは教祖様 ~家族が新興宗教にハマってハチャメチャになったお話~』(KADOKAWA)

今で言うところの「宗教2世」による「エッセイ漫画」だが、そんな時事的話題性にはとどまらない、「名著」と呼ぶべき傑作である。
すでに5年も前の本だが、多くの読書家に、強く強くお勧めしたい一冊だ。

本書については、刊行翌日である「2018年4月5日」に、Amazonカスタマーレビューへ、短文のレビューをアップした。

私が、「note」を始める前のことであり、この短文レビューについては「2021年6月9日」に「note」に転載しており、今回は「2度目のレビュー」ということになるわけだが、これまで「note」に500本以上のレビューをアップしてきた中で、これは、まったく前例のないことだ。
つまり、5年を経てもなお、前回の意を尽くせなかったレビューを補って、本書をきちんと紹介しなおさずにはいられなかった、ということである。

5年前「Amazonカスタマーレビュー」でレビューを書いた際は、刊行直後ということで、ほとんど内容には触れなかった。
それは、いちばん感心し、いちばん論じたい部分に触れることが、一種の「ネタバレ」になると考えたからで、そのため「とにかく並々ならぬ傑作だから、騙されたと思って読め!」と、ただそれだけを伝えたかったのだ。
下が、そのときの全文である。

『心に突き刺さる作品だ。

「家族が新興宗教にハマってハチャメチャになったお話」というサブタイトルどおりの内容を、面白おかしく描いているが、最後に明かされるのは、到底笑えない現実体験であり、最終ページの言葉は、あまりにも痛ましい。

愛と理解と哀しみに満ちた名著。必読。』

だが、もう今となってしまえば、すべての内容を明かした上で、本作をきちんと評価すべきだろうと考え、再度本書を入手し、再読した上でこれを書くことにしたわけなのだが、一一やはり、並々ならぬ「傑作」だと、あらためて感心させられてしまった。

繰り返しになるが、「宗教」に興味がない人、「エッセイ漫画」に興味のない人であろうと、とにかく「すべての読書家」に薦めたい傑作である。
書には、非凡な「愛と批評性」があって、学ぶべきことが、きっとあるはずだからだ。

 ○ ○ ○

本書は、母親が新興宗教にハマったために、娘である著者の経験させられたあれこれの思い出を語ったエッセイ漫画で、それだけであれば、今どきは、さして珍しくない作品だと言えよう。
だが、本書が、類書と決定的に違っているのは、次のような稀有な美点においてである。

(1)自身の「宗教2世」としての「被害者性」をアピールする類いのものではない。
(2)宗教にハマって家族に大変な苦労をかけた「ママ」に対して、それでも「愛に満ちた作品」である。
(3)「この宗教は、こんなにひどい」「信者たちは、こんなに狂っている」というような点を強調した、「世間の反カルト的イメージ」に迎合した作品ではない。むしろ、カルトにハマった人たちを、冷静に観察分析して、その問題点を的確に紹介しながらも、彼らの「どうしようもない弱さ」に対し、一定の「同情と共感」を寄せてさえいて、「とうてい肯定はできないけれど、でも、あの人たちの弱さは、多少なりとも誰にでもあることではないのか」と問題提起している。
(4)驚くべきことに、本書は一種の「メタフィクション」となっており、それが本作の「批評性(客観的公正さ)」を担保する「仕掛け」となっている。

以上の指摘だけでも、本作が並の「エッセイ漫画」ではないということがご理解いただけようが、このあたりについて、具体的に説明していくことにいこう。

まず、本書で最初に目につくのは、語り手の女子中学生の「しまだ」の「ママ」が、「ふわふわヒラヒラの服を着て、目をキラキラと輝かせた美少女」として描かれている点である。
一方、「しまだ」の方は、地味な冴えない女子中学生として描かれている。

つまり、この両者の「外見描写における明確な差異(あるいは、描写における鋭い対立)」は、本作の「主人公」と呼んで良いであろう「ママ」への、著者の「批評性」と同時に、「自己批評性」をも含んでいるということを意味している。
要は、自分は「平凡で、つまらない女子中学生」に過ぎなかったが、「ママ」は「美しい別世界に住んでいる人」だったということを「キャラクターの絵柄を変えることで表現」しているのである。
「私(しまだ)」は「リアル(現実)」の世界に住んでおり、一方「ママ」は、昔の少女マンガの主人公のごとき「純粋無垢でキラキラした世界」に住んでいる、と。

言い換えれば、「ママ」は「現実の世界」には住んでいないから、二人の会話は、どこまでも「すれ違わざるを得ない」という事実を、この描き分けによって、あらかじめ示しているのである。

最初のページで、語り手である「しまだ」は、「ママ」を次のように紹介している。

『  私の母は
いくつになっても
どこか純粋さの残る
少女のような女性でした。

自宅にて
ピアノレッスンの先生をし
そんな母の奏でる音とともに
私は育ちました。』(P3)

このような「ママ」を、著者は『昔の少女マンガの主人公のごとき』外見の人物として描いているのである。

だが、そんな「非現実的なまでに純粋」な「ママ」が、ある時、DVDを視て泣いているのに、「しまだ」は気づいた。

『 そんな私の母は一一

(※ ママが『ぐすっ…ぐすっ…』と泣いているのを見て、娘の「しまだ」が)
「ママ! 泣いてる! どうしたの!?」

(※ ママ、テレビの方を指さしながら)
「このDVDに感動しちゃって」

(※ しまだは「なんだ」と安心しながら)
「へぇ〜 なんだろう 映画? ドキュメンタリー?」

(※ ページをめくった、次ページには、テレビ画面の胡散くさい「教祖」のバストアップとともに『USANKUSEEEEEE!!』の効果音と、恐れ驚く「しまだ」のアップ)

(※ ママは)洗脳されていました 』(P3〜4)

という具合に紹介される。

なお、Amazonでは、本書は次のように「内容紹介」されている。

『宗教にハマった母親と巻き込まれた一家を描いたハチャメチャエッセイ!

ウチのママ、知らない間に洗脳されちゃってる!?教祖様のDVDに涙し、謎の合宿に連れて行かれ…信仰をやめる気はないママと一緒に暮らすって大変!純粋が故に宗教にハマるママと一家を描いた宗教ギャグエッセイ!』

これを読むと、なにやら「笑えるギャグ漫画」のように読めるし、じじつ本書は「笑えるギャグ漫画」として描かれており、思わず吹き出してしまうような「愉快な描写」もあるのだが、しかし本書は、決して、それにとどまるものではない。むしろ、痛々しいまでに鋭く深い「愛の人間批評」作品となっているのだ。

 ○ ○ ○

以降、「ママ」の「疑いを知らぬ、教祖への傾倒ぶり」が描かれ、「ママ」は娘の「しまだ」に、その信仰の素晴らしさを何とか理解してもらおうと、一所懸命に説明する様子が描かれるのだが、そうした言葉は、「しまだ」にとっては、まったく説得力のないものだった。

だがまた、「ママ」はこれまで、娘の「しまだ」に信仰を強いるようなこともなかったし、「しまだ」にとっては、「ママ」の調子っぱずれは、当たり前でもあれば、実害もないと感じられていたので、強く拒絶することもしなかった。

ところが、中学生にもなって、学校で友達と話をする中で、徐々に「しまだ」は、自分の「ママ」が、そうとう変わった人だという事実に気づき始める。
また、「しまだ」が信仰の素晴らしさを理解できる年齢に達したと判断したのか、「ママ」は「しまだ」に、熱心に信仰を語り、会合に誘ったりするようになる。

そして「しまだ」は、そうした宗教イベントに参加している人たちの、「ママ」と同様の、過剰なまでに「素直で前向き」な様子と、明らかに「ありがたさ」を演出された「教祖」の講演に強い違和感を感じ、自分なりに「新興宗教」の情報を集め、その問題点を理解するようになる。

しかしながら、「しまだ」にしてみれば、「ママ」は「ちょっと変わっている」とは言っても、決して「悪い人」ではないし、特に迷惑をかけられるわけでもない。
たしかに、信仰を勧められたり、会合に誘われたりするのは、迷惑だと言えば迷惑だけれども、しかし、オタクで、あまり勉強が好きではない「しまだ」にしてみれば、適当に話を聞いてあげ、たまに一緒に会合に参加してあげれば、それだけで機嫌が良く、「しまだ」の成績が悪くても、さほど気にする様子もない母が、「しまだ」には好都合な部分もあったのだ。

そして、こんな「しまだ」の非凡なところは、タイトルにもあるとおり、「ママ」の「教祖」に対する過剰な「入れ込み」よう、つまりその「信仰」は、それが「宗教」というものに分類されるという点を除けば「それほど珍しいものではない」と、最初から「事の本質」をしっかりと捉えていた点である。

『(※ 暗闇の中で、膝を抱える「ママ」のイメージカット)
(※ 「しまだ」への、ママの語り)
「ママにも人生に迷い不安だった時期があったの…
そんな時、今の宗教に出会い
そして」

(※ 暗闇の中で、ママの前に「ス…」登場する、光に包まれた教祖。それに、はっとするママ)
(※ ママの語り)
「そしてその時の教祖様の「真実の言葉」が、ママに刺さったの」
(※ 「真実」を書いた矢印が、ママの腹部を「ズバン」と音を立てて貫く)
「まるで 生まれ変わったような 気分だったわ!!!」
(※ 表情が『パアアアア』と明るくなるママ』(P85)

ここまでは「よくある話」である。
次ページは、この「ママの語り」に対する、「しまだ」の評価だ。

『(※ 希望を見出して、目をキラキラと輝かすママを見ながら、「しまだ」は)
「 要するに、それが洗脳された瞬間だったわけだよなぁ…ママを見てると本当にわかりやすいなぁ」
(※ そんな「しまだ」の思いにまったく気づいていない、ママの語り)
「その時から ママは真実にたどり着いたと思ったわ!」』(P86)

だが「しまだ」は、こうした宗教に対する「当たり前の評価」を超えて、次のように考える。

『 でも、やっぱり聞けば聞くほど、
私が漫画やアニメで
「心揺さぶられた瞬間」と
変わらない気がする。

(※ 本を読んで「うわあああん」と大泣きする「しまだ」のイメージカット)

いわゆる「人生の教科書」って
人それぞれだ。

誰だってリスペクトしてる
人物の作品や言葉、思想の影響は受けるし
熱中しすぎて周りが見えなくなる
ことだってよくある

(※ テレビの前で正座し、片腕を振り上げて「プ⚫︎キュアがんばれ〜」と(ガチ泣き)する「しまだ」自身の、想起的イメージカット)

ママはそれが
たまたま宗教で…
それがカルトだっただけ

何度も言うが
宗教が悪いのではない

ただ「それひとつだけ」を
完全に正しいと思い込み
盲目的になることが
何より恐ろしいと…
ママを見るたびに思う

(※ 『ママに一切見えていないものたち』の図示。「他の人の声」「自分とは違う価値観」「正論」「広い視野」)

「そう…何度も言うけど
誰でも こうなりかねんのだ
もちろん私も…」

(※ 『解釈の違いとか好みとかetc…』・本を片手に言い争う人たちの図)

「せめて自分は
そうならないように気をつけたい…」
「ただただ平和に
楽しいのが一番いいと
私は思うなぁ…。』(P86〜87)

このように、「しまだ」は、人間が、いろんなものに感動し、それに魅了され、影響され、しばしば、それ以外が見えなくなる瞬間のあることを自覚している。つまり、ママの場合は、それがたまたま「カルト」だったに過ぎないことを理解している。

その意味で、「宗教」というものを決して特別視してはいないし、「宗教」と「カルト」の違いが、その「良識性の有無」にこそあって、「特殊な価値観を信奉する」という点では同じだ、ということも理解しているのだ。
つまり、「しまだ」は、カルト問題の「特殊性と普遍的本質」の双方を、バランスよく理解しているのであり、これは、類書には滅多に見られない「冷静な視線」だと言えるだろう。

本作では、「ママ」の奇行だけではなく、他の信者の様子も「フェア」に描かれている。
例えば、その宗教団体の「夏合宿」に参加した際、同じグループになった同世代の女子たちは、信仰の話以外では「ごく普通の子」であり「感じの良い子」たちなのだが、信仰の話になると、たちまち「ママ」と同じような「素直すぎる」反応を示して、疑うということを知らない。

その合宿の「訓練」のひとつで、グループ内の一人が机の上に立ち、背後でその女子を受け止めようと態勢をとっている同じグループの仲間たちの方へ、後ろざまに倒れる、というものがあった。
つまり、受け止めるための態勢をとってくれている仲間の姿が視野には入らないため、机の上のメンバーは、後ろ向きで倒れ落ちることに恐怖感をおぼえるわけだが、この訓練が目指すのは「恐怖感を乗り越えて、仲間を信じる心を養う」といったようなことだ。

で、その女子は、当初は怖がって、なかなか後ろに倒れることができなかったが、仲間たちの声援に励まされて、最後は意を決して後ろに倒れ、仲間たちにしっかりと受け止めてもらう。
彼女は、みんなを信じ、そして受け止めてもらえたことに感動し、歓喜し、みんなも彼女の勇気と信頼を讃えて歓喜する。一一もちろん、受け止める側の一人であった「しまだ」の、一人だけ距離のある「受け止め」は、別にしてだ。

ともあれ、このように「ママ」以外の信者たちについても、基本的には「好意的」に描かれている。彼ら彼女らは「基本的に、真面目で、純粋で、いい人たち(なのだが…)」と。

また、この合宿で、たまたま「教祖から、個人的に声をかけられた」という経験を「しまだ」は語っている。
教団メンバーによる、演劇やダンスなどが披露されたあと、おもむろにメインイベントである教祖の説教が始まるのだが、その内容は、これまでにDVDなどで見せられたものと何ら変わりばえがせず、みんなが盛り上がる中、「しまだ」は仮病の腹痛を訴え、一人だけ先にグループの部屋へ戻ることを許されて、その会場を出る。
トボトボと歩く「しまだ」。するとそこへ、幹部2名を従えた、講演を終えて宿舎に戻るところだった教祖と、ばったり行き合ってしまう。

『 ちょうど講演が終わり
退場するタイミング
だったらしく
ここにいる信者の中で
一番教祖に興味がないであろう私が
最も教祖に近づいてしまった

(※ 思いもよらぬ遭遇に「えっと…」と、挨拶の言葉の出ない「しまだ」。
 すると教祖は、「しまだ」の肩をポンと軽く叩き『しゃきっとしなさい』と、ひと声かけて去っていく。
 後には『猫背』で立っている「しまだ」が残される)』(P65)

ここでの「教祖との遭遇」について、後のページで「しまだ」は、その時の教祖の印象を、次のように語る。

『 今でもふと思う

ママがあんなに
心から信じていた教祖と

たまたま私が
身近で話した時

『あ…人間だなあ』

はっきりと思ったのを
覚えている

あの教祖は
何を支えにして
生きているんだろう

たくさんの人達に
寄り掛かられて

それこそ
お酒とか
漫画だったりして』(P161〜162)

そう。「しまだ」にとっては、教祖は「ただの人間」だったのだ。

「ママ」が思うような「神」のような存在ではないかわりに、「世間」が思うような「悪魔」でも「ペテン師の極悪人」でもなかった。
「教祖」ではあったけれど、やはり、同じ「ひとりの人間」であることに違いはなかったのである。

このように、作者「しまだ」の視線は、あくまでも「フラット」であり、ことさらな「色づけ」には陥らない。
たしかにそこ(カルト)には「問題がある」のだけれども、しかしそれは「特殊」なことではなく、本質的には「よくある話」にすぎないと見抜いて、目の前の問題に感情的に巻き込まれることから、距離をとっているのだ。

 ○ ○ ○

物語の後半では、「ママ」とは性格が真反対に『ドライ』な「パパ」や、「しまだ」の「兄」や「弟」、同居している「母方の祖父母」のことが描かれ、その関わりから、『母のダークサイド』が「取り出されて」描かれる。
最終盤で描かれる、その「母(お母さん)」は、それまで描かれてきた「夢見る美少女キャラ」である「ママ」とは真逆の、「ダークで暴力的」な、タバコを吹かしながら自分勝手なことばかり言う「目の焦点の合っていない」、ほとんど「ホラー漫画のキャラクター」のごとき、狂った目をした不気味な中年女性として描かれる。

だが、こちらの姿こそが、「母」の「リアル」な姿だったのだろう。
無論、こうした姿が「母」のすべてではなかったにしろ、「母」の信仰に対し否定的に口出ししたときや、物事が思い通りにならなかった時の「母」の姿とは、このようなものであったに違いないという、恐ろしいまでのリアリティを、その姿は醸し出している。

このあと結局、両親は離婚することになる。
要は、時に暴れ、宗教に金をつぎ込み、子供たちの「給食費」すら払えないような状態では、まともな生活は続けられないと、ついに「父」は決断して、裁判のすえ離婚することとなり、親権は父の方が持つことになった。

それでも、こんな「母」を、高齢の「祖父母」だけに任せて、みんなが出ていくこともできないといった諸般に事情から、最初は父だけが別居することになったが、その後、兄が独立して家を出、弟も父親の方に引き取られてという経緯を経る。

そのあとのことは描かれず、最後は、大人になった「現在のしまだ」の、意外にあっけらかんとしたコメントが、次のように語られる。

『 一一というわけで…
母のダークサイドのみを描くと
こんな感じだった

(※ 『二度と戻りたくはねーや』と言っている「しまだ」のカット)

まぁ どの家庭にも
家庭の分だけ
事情はあるわけで
自分が特別変わっているとは
全く思ったことはない

まぁ 母親が
変わっていたのは
事実かもしれない

それでも
たまたま宗教が
身近にあっただけだ

大人になって
わかったことが
たくさんある

(※ 「今の私」と、物語の中の中学生の「しまだ」が向き合っているイメージカット)

母がいつも言ってた
「本物」や「真実」っていうのは…
ようするに
母の狭い価値観の中にしか
存在しない 崇高で理想的な
「まやかし」だった
そしてその可能性を
宗教に求めていたんだろう

そういう事を
充分に理解できたので一一一
私にとって得るものが
いろいろあったんじゃないかと思う

(※ 「」内は、キャラクター「しまだ」の語り、「」外はナレーション的な、作者の語り)

「そう考えてみれば
わりと面白い
子供時代では
あったかもね」

「何かいろんなことあったけど
今更昔のこと
考えるのめんどくさせえや」

(※ 「暗い過去」と書かれた黒い影が、今の「しまだ」を引き戻そうとし、それを『ひっぱられたくねーや』と片手で押しとどめている「しまだ」の、イメージカット)

「ていうか全部
ひっくるめて
「ハチャメチャ」の
一言で済む話
なんじゃないか?」

当然 最初は
これらを描くのに
抵抗もあったのだけど

(※ 『ひかれないかな』『ヤベーヤツって思われないかな』と思案する「しまだ」のカット)

思った以上に受け入れてもらえて
すごく驚いたと同時に
感謝しかなかった

というか
別に今こうして私は
普通に生きているわけだし
不幸でもないぞ…
どうせなら誰かにこれを
笑ってほしいなぁ…そうだ』(P174〜175)

両親の離婚後も、しばらくは「母」と同居したはずの「しまだ」が、「ダークサイドの母」シーンで描かれたような、かなり辛い体験を重ねたというのは、想像に難くない。

しかし、そんな「しまだ」も今は独り立ちして、母の下から離れて生活をしている。
そして、そうした「暗い過去」を突き放して見ることができるほどの精神的余裕を持てるようにもなったようだ。一一というか、「しまだ」はもともと、精神的に、かなりタフなタイプであったようだ。

そして、「母の思い出」を漫画化しようと思い立った「しまだ」は、(ページをめくった)最終ページで、次のように語る。

『母の良かったところだけを
 思い出してみて一一
 せめて漫画の中では
「ママ」を愛そう 』
(P176)

この最後の言葉には、「夢見る美少女のママ」と「中学生の頃のしまだ」が、仲良く並んで語らっている様子が添えられている
一一なんとも、胸に突き刺さる、美しくも悲しい「夢」のイメージカットではないか。

作者「しまだ」は、決して「母」を憎んでいたのではない。
なんとか「母を愛そう」と努力したけれど、やっぱり母を変えることもできなければ、そのまま丸ごと愛することもできなかった。一一それが残念でならないのである。

この世の中には、どうしようもないことがある、というのを、「しまだ」は嫌というほど思い知らされ、学んだことだろう。
だからこそ、どうにもならないことに、いつまでも拘泥するのは、自ら「不幸」の中にとどまり続けることでしかないと正く割り切って、「母の思い出」を「半分だけ」大切にして、そのことで「半分だけの母」を、つまり「ママ」を、心から愛そうと努めた。一一それが、この作品なのではないだろうか。

ちなみに、「しまだ」の「父」は、若い頃『社畜状態』だった労働環境に苦しみ、その際にカトリックの洗礼を受けたものの、その後は決して熱心な信者ではなかった人で、「宗教」や「妻」への評価は『ドライすぎ』るくらいで、「しまだ」曰く『さすがは昭和生まれ昭和育ちの現役教員』(P21)という、割り切ってこだわりのない現実主義者であった。

そんな「父」が、どうして真逆といって良いであろう性格の「母」と結婚することになったのかといえば、それはそれ相応の経緯があったのだが、ここでは、そこまで説明する必要はないだろう。

私が、ここで言いたいのは、「しまだ」の「精神の強靭さ」と、一面「宗教が悪いわけではない」「信仰者だけが、偏った思い込みを持っているわけではない」と、ある意味では「敵視していい存在」である宗教関係者を、それでも「同じ人間」だとフラットに見ようとする「並外れた理想主義(人の良さ)」は、「父のドライな強靭さ(リアリズム)」と「母の非現実的なまでの理想主義」を、半分ずつ受け継いだものだったと言えるのではないか、ということだ。
その意味では、この奇跡的な「バランス」が、この痛ましい「母娘」関係に、一条の光を残したのではないだろうか。

私が、本作を「並外れた傑作」だと評するのは、こういう「文学性」の故である。

自身の「不幸」ばかりを嘆き、自身の「被害者性」をアピールするだけといった「凡百の作品」と違い、本作は、「(過去を合理化して)自分の心を守る」という側面があるにせよ、それでも「母」を「半分だけでも救い出そう」とした描かれた、「愛」の作品だと、私はそう評価するのである。

特に絵がうまいというわけではない作者だが、最後のページに描かれた光景は、読む者の胸に深く刻まれて、残り続けることだろう。
少なくとも、私の場合はそうであったからこそ、5年を経た今になっても、この作品について、語り残したことを、語らずにはいられなかったのである。


(2023年7月9日)

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