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日蓮の血脈 : 創価学会と 私の弟

【旧稿再録:初出「アレクセイの花園」2005年10月17日】

※ 再録時註:要は「似た者兄弟」の話だ。今の創価学会がどうなっているのか、詳しいことはわからないが、当時の雰囲気をご理解いただける記録となっているのではないかと思う。ちなみに、弟は、結婚もし、子供はすでに社会人で独り立ちしているが、本人は定年後も嘱託で会社勤めを続ける予定で、その会社では、古参兵のように上司を脅しながら、現場主義の仕事をしているようである。弟の話を聞いていると、創価学会での話とは違い、むしろ「平凡な会社員」でしかないだろう上司の方に同情してしまう。なお、文体は「ございます」体から「である」体に直した)

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私には、年子の弟がいる。以下にご紹介するのは、この弟の「創価学会」がらみの逸話である。

私たち兄弟が十代前半だった頃に、私たちは、両親と一家4人揃って創価学会に入信した。入信時に特に抵抗感はなかった。それ以前に、「霊法会」という「霊友会」系の宗教団体に入っていたのだが、父がこの団体の信仰に飽き足らず、誘われるままに一家揃って、創価学会に入信したのだ。

さて、今の私からは想像できないかも知れないが、幼いの頃の私は「大人しくて優しいお兄ちゃん」の典型だった。
運動が苦手な分、テレビアニメを視たりマンガを読んだり、そのキャラクターの絵を描いたりするのが好きなインドア派で、いわゆる「わんぱく」とか「やんちゃ」なところはまったく無く、外へ遊びに出ると、ほとんど必ず近所の悪童たちに泣かされて家に帰ってくる、という泣き虫少年であった。

それに対し、弟は、腕力もあれば負けん気も強く、自分から仕掛けることはないが、やられたらやりかえす、不当なあつかいをうけたら、年上でも黙ってはいないというタイプで、よく相手を粉砕して帰ってくる子供だった。事実、中学では水泳、高校ではラグビーをやるようになる(一方、私の方は、中学では美術部、高校ではマンガ部であった)。

当然、殴り合いの兄弟ゲンカになれば、私に勝ち目はないので、ケンカになったとしても口喧嘩に止まるよう、私は、かなり気をつかいながら、兄弟ゲンカをしていた(※ このあたり、後年の「趣味の論争」における「相手のフィールドには立たない」という、駆け引き的テクニックに生きている)。

しかしまた、基本的には仲の良い兄弟で、私は弟を可愛がったし、弟は、私が泣かされて帰ってきた時には、腹を立て、頼みもしないのに敵討ちに行ってくれたりした(笑)。

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(※ いうまでもなく、これも「イメージ」です)

今年(※ 2005年に)亡くなった父も、若い頃は非常に「短気」だったが、「陽気」で「面倒見のよい」性格だったために人望はあったようで、こうした性格はストレートに弟に遺伝し、そのいっぽう、子供の頃の私は、性格的には、おっとり型の母親に似たんだろうと言われていたし、自分でもそう思ってもいた。

ところが、私の場合は、いわゆる反抗期あたりから、だんだん気が短くなり始め、両親にたいしては、かなり要求の厳しい、批判的な息子になっていった。
特に、幼い頃はべたべたに父親っ子だったにもかかわらず(あるいは、だからこそか)、父の曖昧な倫理観をいら立ち、今の私と同様、批評家的厳格さで、父を手厳しく批判することも、しばしばあった。
例えば、父は「差別問題」を扱ったテレビ番組を見ると「可哀想になあー。あの人らに罪は無いのに」などと同情するくせに、日常生活の中では「あそこのおっさんはヨッツやからなあ」などと訳知り顔で言ったりするので、時に私は、そんな父の矛盾や無自覚を、有無を言わせぬ正論で厳しく指弾したのである。

そんなわけで、私の場合は長ずるにつれ、だんだんと父親に性格が似てゆき、短気になっていったのだが、弟の方は子供の頃の性格まま成長したようで、あえて変化したように見える部分を指摘するなら、もともと真面目に怒る性格に、父親似の陽気さがからんで、やや「皮肉」なところが見られるようになっていったようだ。
つまり、今の私の性格に似ているというか、私の方が弟に似てきたと言うべきか、ともあれ、今ではすっかり「似た者兄弟」になってしまったのである。

で、そんな弟なので、創価学会組織に対する批判的なスタンスへの変化移行も、私よりずっと早かった。
私が思うに、そうした変化の契機となったのは、弟が大学へ進学して、創価学会の「学生部」で活動をしたからであろう。

当時の創価学会の地方組織は、その内部において、「指導部(高齢者)」「壮年部(中高年男性)」「婦人部(中高年女性)」「男子部」「女子部」「学生部(大学生)」「高等部」「中等部」「少年部」という具合に分かれていた。しかし、「学生部」だけは、男女別ではあれ、居住地域別ではなく、学校別主体の活動組織であった。

「学生部」というのは、次代の創価学会を担う人材が集う場所(要は、学歴主義的なエリート養成機関)だから、それゆえにこそ組織的な矛盾も露呈しやすかったようだ。
要は、信仰的・人間的には、中身など無いくせに、口ばかり達者で要領が良いだけの人物(イエスマン)が、組織の中で役職を得て、「不可能を可能にするのが、日蓮大聖人の信心だ。信心があれば、やれないことはないだろう!」といった軍隊式の物言いで、同年輩の者に指図するようになっていく、そんな姿を直に見て、弟は、信仰の世界にあるまじき「理想と現実のギャップ」に、否応なく直面させられたのであろう。

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その点、私は高卒だったため、基本的には「(居住)地域」での活動しかしておらず、創価学会組織内での「出世」とはおよそ縁のない、近所のおっちゃんやおばちゃんばかりを見ていたので、「組織(上部)の汚い現実」に直面することも無かったのである。

で、そんな弟の逸話なのだが、彼が社会人になり、すでに創価学会の活動から基本的には遠ざかった後の話である。

(1) 弟は、地域の男子部の会合に呼ばれた場合は、わりあい素直に出てゆき、そこで本音トークをして「地域の若者」の問題意識を煽り、場を盛り上げて帰ってきたようだ。
つまり、創価学会の「地域の若者」というのは、基本的には真面目な者が多く、かつまた教条主義的にマンネリ化した創価学会の会合に疑問を感じてもいたからこそ、弟の「本音の正論」には、皆、けっこう素直に煽られたのである。

しかし、弟は、それが「若者」相手だからこそ「一時的」にでも通用するのであって、すべての年齢層が集う地域の「座談会」では、それが通用しないということをよく知っていた。
だから、「座談会」へは「時間の無駄」だと、誘われても参加しなかったのだが、ある時、あまりに熱心に参加をすすめに来る壮年部の人がいたので、弟は「わかりました、行きましょう。基本的には私は黙っていますけど、でも、何か発言を求められたら本音で話しますけど、それでいいですね」と確認して、参加したそうである。

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創価学会の座談会は、みんなで勤行(※ 経文の読み上げと唱題)をした後、学会歌を歌い、聖教新聞の読み合わせや、男女青年部による研究発表、有志による信仰体験発表などがあった後、日蓮の遺誡文の勉強で締めくくる、という基本パターンで構成されている。
で、弟が発言を求められたのは、女子部による研究発表の後であった。

その時の研究発表の内容は、当時公明党が打ち出していた政策案の解説で、当然のことながらその解説とは『公明新聞』などの記事をもとにした「公式見解を平易に紹介する」といった類のものにすぎなかった。
座談会参加者たちは、この研究発表についての感想を求められ、順に「わかりやすかった」とか「すばらしい政策なので、ぜひ実現して欲しい」とか「そのために公明支援に頑張らなければならない」といった優等生的な感想を述べた後だったのであろう。弟も感想を求められ、そこで、次のような感想を述べたそうである。

「そんなことをここで研究発表するのは、なにか変やないですか。そんなことは、テレビのニュースをまともに見ていれば誰でもわかることやし、知ってて当たり前のことです。それに、ここにいるのはみんな公明党の支援者なんですから、そんなことも知らないという方がおかしい。そんなことも知らないで、どうして世間の人に公明党は正しいからって推薦することができるんですか」

もちろん、これは「政策実態にまったく無知な学会員による、盲目的な公明党支援」を言外に批判したものだ。
弟の皮肉な正論に、その場は一瞬凍りついたそうで、反論こそなかったものの、研究発表をした女子部の面々だけが、すごい目で弟を睨みつけていたそうである。こういう場合、男はうろたえるばかりなのが、女性は案外、腹が座っているものだからであろう(笑)。――しかしながら、弟の正論には、言葉の返しようがなかったのである。

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座談会が終わった後、それでも弟を誘った壮年部の男性は「問題提起になって良かったんじゃないか」というような言葉でフォローしようとしたようだが、弟は「僕みたいな人間は、四者(※ 壮婦男女の4部のことだが、ここでは子供から高齢者まですべて、の意)の会合には出ない方がいいんじゃないですかね、やっぱり」と言って帰ったそうだ。

(2) 弟が、社会人となり「男子部」になりたての頃、「男子部」の圏単位の会合があり、それに誘われて参加した時の話だ。
(※ 当時、創価学会組織は、最末端最小単位を「ブロック」と呼び、それがいくつかで集って「支部」、それがいくつかで「本部」、さらにそれがいくつかで「ゾーン」とか「圏」とかを構成する形となっていた)。

その会合では、余興的にそれぞれが「リングネーム」をつけての「腕相撲大会」が行われたそうで、悪役(ヒール)を気取った者は、学会と敵対した総本山大石寺の法主日顕をもじって「デビル日顕」などと名乗ったりしていたそうだ。

で、私の弟はどんなリングネームにしたのか?
それはなんと「池田小作(いけだ・こさく)」。つまり、創価学会のカリスマたる、池田大作名誉会長の名前をパロディー化したのである(笑)。

腕相撲大会で受付をしていた圏幹部は、当然のごとく、弟に対し「本当にこの名前でいくんですか?」と不満そうに尋ねたのだが、弟は「だんだん勝ち上がっていって、池田中作、池田大作となっていくんです」と不敵に応えたそうで、この時、弟は、その幹部の顔を見ながら「こういうところで、人間の本当の器が知れるんだ」と思ったのだそうである。

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もちろん弟のやったことは、常識的に考えれば「挑発」であり「ケンカを売った」と言ってもよいほどのことだったのだが、これは弟が「日蓮を本仏とする教義に反した、池田大作個人崇拝」に対し、真っ当な批判意識を持っていたからだし、またそうした筋論など一顧だにすることもなく「上にゴマをするだけのイエスマン幹部」に反発を感じていたからでもあろう。だからこそ故意に、同年輩の幹部たちの「人間としての器(=信仰者としての器)」を試してみたのだと思う。

(3)「会合に出てこない未活動家を、活動家に」というのは、どこの運動組織でも考えることであろうし、その方法として「役職を与える(ことで、責任を持たせ、自覚を促す)」というのも、よくある手であろう。
ある時、地域の青年部を牽引する人材としての新役職(肩書き)である「ニューリーダー」の面接があるからと誘われて、弟は様子を見に出かけたそうだ。半分は、喧嘩を売りにいったようなものだろう。

で、いろいろ質問され、それには例によっての本音で応えたそうなのだが、相手は、弟たち「ニューリーダー候補者」に「役職を与えるために呼んだ」わけだから、面接は、二十数人いた受験者全員が合格ということになったそうである。

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で、その後「ニューリーダーの誓い」という刷り物を配られて、それを合格者全員が読み上げて終会という段取りだったのだが、その紙に書かれたいくつかの項目のひとつに「われわれは池田先生の弟子として、広宣流布に邁進することを誓う」というような文言があったので、弟はここで挙手して「私は池田先生の弟子ではなく、日蓮大聖人の弟子だから、こんな誓いは立てられませんので、帰ります」と発言したのだそうだ。
すると、もう一人「僕もそうだから、ニューリーダーにはなれません」と言い、唖然とする人たちを残して、二人でさっさと会場から帰ってしまったそうである。

斯様に、かなり露骨に反抗的な弟なのだが、そんな彼を、それでもどうしてわざわざ会合に誘ったりするのだろう?
それは、建て前としては、信仰心が弱っている人(※ 未活動家)を「救うため」ということであり、本音の部分では「活動家を増やしたい」ということである。

そしてさらに言うなら、わが弟ながら彼には、人間的な「自信」と言うか、見るからに人を引っ張っていくような「力」が溢れているので、「こいつを活動家にすれば、バリバリやってくれるに違いない」という期待を抱かせる部分があったからだ。

それに、私自身も「直接会ってみると、文章からは想像できないほど、朗らかな人物」であるというような感想を、大森望に書かれたことがあるのだが、私も弟も、基本的には父親似の「陽気な自信家」であったから、腹に一物あったとしても、表面的にはニコニコしているし、ジョークも多い。
さらに、本音主義だから、相手の肩書きや立場に臆することも無ければ、誰とでも話せるので、そのぶん人と打ち解けるのも早いため、何となく「こいつなら味方にできるかも」と思ってしまうのであろう。

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(※ これも「イメージ」です)

しかし、実際には、そうではない。
相手が「何様であろうと関係ない」と思っているからこそ、誰とでも平気で話せる、ということなのだから、自身の意に反する意見を持つ者に対して、自身の意見を開陳し批判を加えることについても、まったく遠慮がない。
「そこまで言ったら、相手の立場が無い」などというヌルイ配慮など金輪際しないのである。

まあ、こういう人間は、そうそういるものではないため、相手はつい「見かけ」だけで判断してしまうのだろうが、その代償は、とんでもなく高くつくことになるのである。

さて、こんな弟について私が思うのは、――たしかに「似た者兄弟」ではあるものの、やはり弟の方が「キツイなあ」ということである。私などは、やはり子供の頃と同じで、本質は優しいのだ(笑)。

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