見出し画像

佐藤優『日本国家の神髄 〜禁書『国体の本義』を読み解く〜』 : プロテスタントの〈ペルソナ〉:佐藤優批判

書評:佐藤優『日本国家の神髄 〜禁書『国体の本義』を読み解く〜』(扶桑社)

本書は、いくつかの重大な問題点と欠点をはらむ書物だ。だから、とうてい高く評価することはできない。

だが、先に評価できる点を指摘しておこう。
戦後に占領軍から、戦前の天皇制国家イデオロギーの解説書として禁書あつかいにされて以来、戦後民主主義には馴染まない禁断の書として読まれなくなってしまった『国体の本義』を、全文紹介した、という本書の功績は極めて大きい。
それは、『国体の本義』という「日本の国体」解説書が、どのようなものであったかを、「客観的資料」として提示し、その実態を広く知らしめたという点においての価値である。
私たちは今後、『国体の本義』を、又聞き情報や漠然としたイメージで語るのではなく、手軽に原テキストに照らして語ることができるようになったのだ。

したがって、これは『国体の本義』の「中身が素晴らしい」という評価ではない。あくまでも、本書の功績は「資料提示」としての価値であって、「資料=『国体の本義』」そのものの中身の問題ではないのである。
私たちは今後、『国体の本義』という本の「幻想」に脅かされる必要はなくなった。隠されているからこそ、すごいことが書かれていたのではないか、などという過大な想像を無駄に膨らませなくてもよくなったのだ。いまや『国体の本義』は、佐藤優の評価とは違って、「幽霊の正体見たり枯れ雄花」だと評価することが、容易にできるようになったのである。

では、『国体の本義』の正体とは何か。
簡単なことである。
『国体の本義』とは、天皇家は「高天原から降臨した神(アマツカミ)の系譜」だとか「アマテラスオオミカミ直系の万世一系の家系」だとは「だから、天皇は現御神(アキツキカミ)」だとかいった、世界のどこにでもある「勝者の(捏造した)歴史フィクション」としての「政治神話」を基盤とした、日本は「天皇を長とする家族国家(=国体)」だという「奇麗事」によって、国民を自主的に国家に従属させようとした「政治イデオロギーの書」にすぎない、ということだ。

では、佐藤優による本書『日本国家の神髄 〜禁書『国体の本義』を読み解く〜』の問題点とは何か。つまり、著者・佐藤優の問題点とは何か、というと、おおよそ次のようなことになる。

(1)「日本の国体」である「天皇を長とする家族国家」というのが、「歴史的事実」ではなく、「信仰的事実(信じる人の内心の事実)」でしかないと理解していながら、それを「日本(国民全体)の国体」であると認め、強調してしまっている点。
(2)「読み解く」という立場から、過剰に『国体の本義』の著者の立場に、擬似的に、自分の立場を寄せて書いている点。
(3)意図的な「迎合」で、保守層をコントロールできるという「慢心」に基づいて、演技的な「外交官的綺語」を弄し、結局はそちらに引き摺られている部分について、十分に自覚的ではない、という点。

この3点について、順に説明していこう。

まず(1)についてだが、『国体の本義』が語っているのは、前記のとおり「神話というフィクションに基づく奇麗事」でしかない。つまり、その奇麗事を支える「現実的な根拠」が無い。したがって、そこで語られる「奇麗事」は、現実にはそのまま実現しない(通用しない)。そのため、その「奇麗事」が「建前」にしかならず、その「奇麗事」を語る国家の側(統治者側)の人間は、おのずと「本音と建前」を使い分けるようになる。つまり、国民に「嘘をつく」ようになる。その結果が、「神国日本の惨めな敗戦」という「あり得ないはずの現実」の招来であった。

こんな惨めな結果(現実)を招いたのは、国民を騙した権力側の人間が悪い、というのは無論だが、そもそも「日本は神の国」だとか「天皇は神の末裔で、生ける神」だとかいった、馬鹿馬鹿しいほど「自己中心的かつ自己満足な寝言」を信じた国民も、大いに(頭が)悪いのである。
当然、そんな馬鹿馬鹿しい絵空事を信じなかった人も大勢いたし、今だって、そんな馬鹿馬鹿しい絵空事を「国体」だなどともっともらしく言われたって信じない、まともな知性を持った人は大勢いる。

それなのに、佐藤は本書において、信じる人も信じない人も引っ括めて、「神である天皇を冠する家族国家という国体」という「ご都合主義的フィクション」を、「信仰的事実」の名のもとに、「日本の国体だ」と断じているのだから、そんなものを信じていない人間にとっては、いい迷惑であり「お前の信仰を、勝手に他人にまで押しつけるな」ということにしかならないのだ。

(2)について。佐藤優は、決して馬鹿ではない。とにかく博識だし、外交官としてロシアの政治家や外交官と渡り合ってきた人なのだから、現実というものも、人並み以上に分かっているはずだ。だからこそ、本書にも書かれているように「右の言説は、右でしか崩せない」と言った考えを持っている。
要は、いくら理屈を言ったところで、論理的な正しさだけでは、他人の確信を覆すことはできない。それをやりたいと思うのなら、まずは相手の懐に入り、信頼を勝ち得た上で、相手の理屈を逆手にとることで「納得」させるしかない、という、いかにも「外交官」的な理屈の持ち主なのである。

当然、本書でも、佐藤は「私は右翼である」と断言する。読者の中には「あれっ、佐藤優って、どっちかと言えば、左翼リベラルじゃなかったっけ?」と思う人も少なくないはずだ。その認識は、基本的に正しい。
ただし、「左翼リベラル」だって人間なのだから、何から何まで「すべて左翼リベラル的思考」の持ち主だというようなことではあり得ない。基本的に「左翼リベラル」で、そう自称し他称される人であっても、「右翼・保守」的な部分は必ずある。それが人間なのだ。
だから、佐藤優が「私は右翼である」と言ったとしても、あながちそれは「嘘ではない」。正確に言えば「完全な嘘ではない=一面の真実である=一面の真実に過ぎない」ということなのだ。
まして、本書の佐藤には「右翼の懐に入って、彼らの思想をより良き方向に教導する」という政治的な大目的があるのだから、「私は保守・右翼である」という断言が少々ハッタリがましいものだとしても、「自分は誤解されているところがあるかも知れないけど、本質的には右翼であり保守なんですよ。だって、日本を守りたいと思っている人間ですからね。その意味では、あなたたちの仲間なのです」とアピールするのも、過剰なほどに「国体」や『国体の本義』を持ち上げてみせるのも、すべて「任務遂行」のためには必要なことなのである。なにしろ「外交官」なんだから、祖国のためには「嘘も方便」なのだ。

つまり、佐藤優が、右翼が喜ぶように「国体」を全肯定したり、『国体の本義』を持ち上げてみせるのは、そうすることで、「今の保守や右翼の偏狭さ(排外主義的復古趣味)」という問題点を是正するためなのである。「天皇を冠する日本の伝統とは、本来、外部に関して寛容であり、むしろそれを積極的に消化吸収する柔軟性にこそある(のだから、愚かな排外主義や、先祖帰り的な復古趣味は、大間違いである)」ということを言いたいのである。
無知で愚かな「今の保守や右翼の偏狭さ(排外主義的復興趣味)」を是正できるのであれば、「国体」を承認し、『国体の本義』を長所を評価することくらい、なんら怖れるに足らぬ、なにしろ「馬鹿と鋏は使いよう」なのだから、というのが、したたかな「外交官的知」に自負を持つ、佐藤優の「本音」なのである。

(3)について。このように、佐藤優は「国を守る為ならば、人を騙すことも辞さない」人であり、まして「完全な嘘はついていない。ある意味では本音を語っている、とも言えること、しか語っていない」というように、自身をメタ的に多層化して、自他に対して、自己を正当化してもいる。これは、他人を騙すだけではなく、まずは自分を騙すという「騙しの高等テクニック」なのだ。
言うまでもないことだが、どんな嘘つきでも、無意識のうちに「やましさ」を感じているもので、それを感じないのは「サイコパス」のような「人格的な部分欠損者」であると言っても良い。そして、佐藤は決して「サイコパス」ではないので、嘘をつくにしても当然どこかで「やましさ」を感じないではいられない。しかし、鋭敏な人間というのは、その隠された「やましさ」を鋭く嗅ぎつけるもので「こいつは嘘をついている」と直観してしまうのだ。だから、そういう人間にも「本音」がバレないようにするには、一時的に「本音」を消してしまうと良い。存在しないものを、他人に感知されることはないからである。そして、この「一時的な本音の消去」という技法こそが「自己暗示」なのである。「私は心の底から、それを信じている」と自分に言い聞かせて、一時的に「他人格者(他の思想の持ち主)」になりすますのである。これは優れた外交官として「インテリジェンス(諜報活動)」に従事していた佐藤なら、とうぜん備えている技能なのだ。

そして佐藤が、このような「自己暗示」に並外れて長けているというのは、彼が「プロテスタントのキリスト教徒」であることが、大きく関係している。
と言うのも、言うまでもなく、「現実主義的理性」と「キリスト教の信仰的教義(イエスの復活、三位一体の神など)」は、明らかに「矛盾」するのだが、これを両立させている人というのは、基本的に「自己欺瞞の術に長けた人」でなければならないからである。

例えば、キリスト教と言っても、カトリックの場合だと「神と信者である私の間には、教会が仲保者として存在する」ために「教会の指導に反する、嘘はつけない(教会が認めれば、それは神が認めたということだから、嘘もつける)」ということになるのだが、プロテスタントの場合は「神と信者である私」は直結しており、その間に入るものは無い。「信者である私」は、ただ「(自分の考える)神」に忠実でありさえすれば良いのだから、その「忠実さ」には、解釈の余地が無限に存在する。だからこそ、カトリックとは違い、プロテスタント教会は際限なく分裂するのだし、それは「誤り」ではなく、むしろ「信仰的誠実さ」の表れということにもなるのである。

したがって、人間として生きる本質の部分である「信仰」において、このように「現実主義的理性」と「キリスト教の信仰的教義(キリストの復活、三位一体の神など)」は「矛盾しない」という過酷な論理的自己鍛錬を重ねてきた佐藤優にとっては、「左翼リベラルであること」と「保守主義者(右翼)であること」は、当然「矛盾しない」ということになる。
つまり、佐藤は「神と私自身」に対し、しごく誠実に「私は、ある時には左翼リベラルであり、別のある時には右翼であり保守である。これはなんら矛盾ではないし、嘘をついているわけではない」ということになるのだ。

しかし、問題は、それは「佐藤優の内的論理」でしかなく、平たく言えば「個人的都合」でしかない、という点だ。
つまり、現実社会のおいて、他者に対して、その「何とでも理屈はつけられる」という態度で、その場その場の理屈を平然と口にするというのは、他者にとっては「不誠実きわまりない言葉」であり「態度」でしかないということになるし、当然こちらの方が、健康的な考え方なのだ。つまり、佐藤優の論理は「信仰的に病んだロジック」だと呼んで然るべきものなのである。
だからこそ、最近の佐藤は、本書のような自著について、

『私はいろんな形で、イタズラみたいな仕掛けの本を書いています』
 (『君たちが知っておくべきこと 未来のエリートたちとの対話』より)

と書いて、自己正当化をしている。
あれは「イタズラ」みたいなものであり、決して「相手を騙そうとか、裏切ろうとか、傷つけようとかしたものではないんですよ」という、言い訳なのだ。
(※ 本書『日本国家の真髄』は、2009年初刊、2014年新書化。『君たちが知っておくべきこと』は、2016年初刊、2019年文庫化)

しかし、相手が誰であれ、無知で愚かな「右翼であれ、左翼であれ」、佐藤優のこの「言動」は批判されてしかるべきである。それは、佐藤自身の想定する「我が神」という「不在の存在」が許しても、血肉を備えた人間の間では許されてはならない「非倫理」なのだ。

例えば、本書において佐藤優は、「国体」論者として、次のように書いている。

『 神武天皇は、大和(奈良)の橿原に都を定められた。天業の回復である。この出来事によって高天原の神々の精神が、現実の歴史に形をあらわすようになった。このときを基点として皇紀が現在で二六六九年続いているのである。われわれはこの現実を感謝して受けとめなければならない。』
(本書新書判、P187)

神武天皇は、天皇家の万世一系を正当化するために創作された、架空の人物である。しかし、明治政府は、その「政治的フィクション」を補強するために、巨費を投じて橿原神宮を創建した。
しかし、そのために、もともとその地に住んでいた、被差別民を含む多くの貧しい人たちの部落が、神武天皇を祀る土地に「ふさわしくない」「見苦しい」をいう理由で、強制的に排除されたという歴史が、厳然と存在する。

そして佐藤は、そんな人たちもすべて引っ括めて、「天皇を長とする家族国家」という「国体」が、日本人全体のものであり、日本国民ならば『われわれはこの現実を感謝して受けとめなければならない。』と言うのだ。
ならば、沖縄の「辺野古の基地建設」のための埋め立ても『われわれはこの現実を感謝して受けとめなければならない。』ということにはなるまいか?

無論、佐藤は「そのつもりはない」と言うだろうが、しかし「橿原の地」に対する、この「無神経な記述」を、保守・右翼を気取って書いたからには、その責任をとってから、「そのつもりはなかった」と言い訳すべきではないだろうか。

これは「上手の手から水が漏る」というような言葉で済まされる問題ではない。
これは、佐藤が、他人をコントロールできるという「慢心」において、自己の「他者に対する不誠実」を自己正当化したあげくの、必然的な過ちなのである。

佐藤の「理想や現実主義」を否定しようとは思わない。むしろ、それを支持するからこそ、その「負の面(犠牲)を見失うな」「己が力量に酔うて、道を誤るな」と言いたいのである。

初出:2019年10月7日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○














 ○ ○ ○



 ○ ○ ○







 ○ ○ ○











この記事が参加している募集

読書感想文