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福永武彦訳 『現代語訳 古事記』 : 〈文学〉でも 「歴史」でもない。

書評:福永武彦訳『現代語訳 古事記』(河出文庫)

昔から、ネット右翼とは数えきれないほど、やり合ってきた。

彼らはよく「日本の伝統」ということを口にするけれど、では、その伝統にそった生き方をしているのかと言えば、そんなことはまったくなくて、ネットにへばりついた生活をしている者が少なくない。

だが、それはまだいい。彼らも現代人なんだから、現代の生活をすれば良いと思うし、そのなかで「伝統」を生かせば良い。
しかし、彼らの多くは、肝心の「歴史」を知らない。なにしろネットにへばりついていて、ろくに本も読まないからである。

私がネット右翼との数々のケンカ(と言うのも、彼らの場合、「議論」というものが出来ないのだ。彼らは「日本の伝統」について考察・検証したことはなく、ただネット上で得た、好みの情報を妄信しているだけなので、おのずとケンカになる)のなかで、特に印象に残っているのは、二十年も前、私が、あるネット右翼に「神武天皇は実在しない」というのを「常識」として告げたところ、彼が「神武天皇が実在しないという話は初耳だ」という趣旨の返答をしたことだった。

神武天皇ご即位

(天孫降臨の神の血をひく神武天皇)

その彼は、ネット右翼の中では、ごく例外的に素直な性格の持ち主だったので、私が「歴史学的には、それが定説だそうだ」と告げたところ「知らなかった」と応えたのだが、たいがいのネット右翼なら、そう説明されても「その定説が、正しいという保証はあるのか」とか「それは左翼学者の売国的陰謀だろう」などといった、反論にもならない反論を返して、意味のない抵抗を試みるだけである。

とは言え、私とて特別に「歴史」が好きだったわけでも詳しかったわけでもない。当時の私は、教科書で習った「歴史」を、ぼんやりと憶えている程度で、神武天皇の非実在説については、「昭和天皇の戦争責任論議」「天皇制の是非論」のなかで、たまたま目にしたにすぎなかった。
私にとって「昭和天皇の戦争責任」や「天皇制の問題」は、「同時代のリアルな問題」として無視できないものであり、それを考えるために必要な知識とは、「明治以降の歴史」で、おおむね事足りるものだったのである。

もちろん「歴史」という「暗記もの」の学校教科が好きではなかった私は、「明治以降の歴史」についても、「昭和天皇の戦争責任」や「天皇制の問題」を議論するための「基礎知識」として、必要にかられるかたちで、社会人になってから本を読んで学んだものであり、そうして「歴史」を学んだからといって、愛国主義者になるとか、好きな学説にしがみつく、などということはなかった。

もともと私は「文学」好きなので、物事というのは「事実確認(読み込み)と適正な解釈とその蓋然性の検討」の問題だと考えていたから、ネット右翼的な「自分に好都合な歴史学説を妄信する」という態度には、嫌悪しか感じなかった。
彼らは「教祖の本しか読まないで、それにしがみつく妄信者」と同じなのだが、私にすれば「他の宗教の本も読んでみろよ」とか「批判的な意見にも耳を傾けてみて、どっちにリアリティーがあるか考えてみろよ」などと思うのだが、ネット右翼と呼ばれる人たちは、そういう自己検証はまったくせず、自説を強化する同信者と群れて、そのタコツボの中で、妄信を強めていくだけだったのである。

私とっては、「歴史」は趣味でもないし、「反天皇制」もイデオロギーの問題ではなく、ただ「真相(事実)は何か」が問題であった。

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(アマテラスオオミカミの血をひく、神武天皇)

「文学」ならば「好み」でも良いが、「歴史」は「好み」で選ぶようなものではない。
むろん、目の前に実在するわけではない「過去の世界」については、研究検証し解釈し、そしてまたそれを研究検証し解釈するという行為のくり返ししかあり得ない。だからそこに、おのずと「好み」の混入してしまうのも避けられないことなのだが、しかし、避けようとして避けられないのと、初めから「自身の好みの正当化」を避ける気もないというのとでは、大違いだというのは、わかりきった話のはず。だが、「妄信者」たちには、それは当たり前ではないのである。

「ネット右翼は、本を読まない」というのを、私は経験的に知っているので、時々、「あなたはそんなことを言うが、いったい何を読んでそう言うのか」と尋ねることがある。
彼らが「ソース」として「ここに書いてある」示すものは、たいがいはネット上にアップされている「保守派論壇人」の語るところのものだ。彼ら(保守論壇人)は、しばしば「学者」であったりするから、ネット右翼は、彼らの意見を「信じるに値する論拠」とするのだが、しかし、では、その学者自身が論拠としているものや、その解釈が本当に正当なものなのかまでは、ネット右翼たちは検証したりはしない。その学者の意見を構成する、原資料や論文にまで当たろうとはしないのだ。
つまり、彼らが「論拠」として示すものは、「自身で検証した学説」ではなく、単なる「好みの学説」にすぎない、ということなのである。

似たような話を、もうひとつ。
ネット右翼の多くは、決して自身を「ネット右翼」とは認めない。「ネット右翼」とは「蔑称」だと感じているのか、その呼称は「信用ならない人たち」という意味で使われていると思っているのか、そのあたりは定かではないにしろ、千人ちかくとやり合っても、自らを「ネット右翼」だと認める者は、ただの一人もいなかった。で、彼らがしばしば(特に近年)好んで自称するのが「保守」である。

そこで私は、あるネット右翼に「あなたは保守だそうだが、最近では、どんな保守思想家の本を読んでいるのか?」と質問したところ、彼は「ケント・ギルバート」だと応えた。
たぶん彼も、「小林よしのり」「山野車輪」と答えては、格好がつかないと考えてのことなのだろう。彼らとしても、ネット以外は「マンガしか読まない(活字の本を読まない)」「マンガで済ましている」と思われるのは、論争上、好ましくない、くらいのことは考えた上で、そう答えたのだろうと思う。しかし、そこまで配慮しても、その回答が、「外国人弁護士」のケント・ギルバートなのだから、あとは推して知るべし、である。

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(安倍晋三首相との対談)

そこで私は彼にこう返した。
バークオークショットまで読めとは言わないが、日本人なんだから、小林秀雄福田恆存くらいは読んだ方がいいですよ。でないと、何の「保守」思想かということになるから」と。

 ○ ○ ○

事程左様に、「日本の歴史と伝統」などといったことを訳知り顔で語る人の「多く」が、じつはそれについて、ろくに勉強もしていない。そしてこれは、何も「ネット右翼」にかぎったことではない。

もちろん、「古代史」ファンだとか、「古典文学」研究家などは、『日本書紀』や『古事記』を、基本文献として読んでいるだろうし、「好き」だからこそ、読んでも「面白い」のであろう。
しかし、そうした「歴史文献」は、一般の日本人にとっては、決して、読んで「面白い」ものでない。「原文」は無論のこと、現代語訳で読みやすかったとしても、そこに描かれた「物語」は、現代の「歴史小説」や「時代小説」のようなエンターティンメント(娯楽作品)ではないのだから、そういうものと同様の「面白さ」を求めるのは、どだい無理な話なのだ。

そんなわけで『日本書紀』や『古事記』は、「文学として読もうと思えば、読めないこともない」文献ではあるけれども、基本的には「文学」ではない。
それは、勝ち組の「大和朝廷=天皇家」が、自分たちを正当(正統)化し権威づけるために、「神話」と「歴史的事実」と「フィクション」をこき混ぜて作った、「政治的歴史文書」なのである。

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(イザナギとイザナミによる国生み)

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(天孫降臨の神々)

この事実は、『日本書紀』や『古事記』を、読む人が読めば明らかなことなのだが、読んでもわからない人が少なくないというのも、また事実だろう。そもそも「権威ある歴史文学」だと思い込んでいるから、「醒めた目」で、それ以外の読み方をすることのできない人が少なくないのである。

例えば、本書の解説者である山本健吉は、〈先の大戦時において『日本書紀』や『古事記』が、戦争遂行のためのイデオロギーたる「国家神道」の「論拠」であり「聖典」とされたがために、その反動で戦後はすっかり読まれなくなってしまったが、しかし、そこには、原「日本人」の心が描かれているのだから、先入観を持たずに読むならば、きっと得るものも少なくないはずだ。本居宣長は、そのことをよく教えてくれた人である。〉という趣旨のことを書いている。

しかし、読めばわかることだが、『日本書紀』や『古事記』に描かれている「日本人」とは、「天皇とその周辺の、支配者階級の人たち」だけであって、「当時の日本人」のごくごく一部でしかない。
つまり「庶民」の「心」などは、どこにも描かれていないどころか、朝廷に従わなかった人たちは、「蝦夷」だの「土蜘蛛」だの「熊襲」だのと、良くて「蛮族」で、少なからず「妖怪」「化け物」扱いにさえされたのである(歴史的なものとは言え、「女性蔑視」の酷さも特筆すべきだろう)。

つまり、『日本書紀』や『古事記』に「日本人の心」を求める姿勢というのは、きわめて偏頗なものだと言うしかない。『日本書紀』や『古事記』を「文学」として見るから、そこに有り難い「心」を読みとろうとするのだが、その前に必要なのは、これらが「政治的歴史文書」なのだという「醒めた目」なのである。

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本書は、福永武彦による、たいへん親しみやすく読みやすい現代語訳となっており、『古事記』という書物が「いったいどのようなものなのか」を知るのに、最適な手引き書となっている。

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『古事記』を、「学問」として研究する人や、「文学」として楽しみたい人は、「原文」で読むべきであろうが、「天皇家の歴史」あるいは、そうした意味での「フィクショナルな日本の歴史」が、どのようにして捏造されたのかを知るためならば、この現代語訳で充分であろう。

現代語訳でもいいから『日本書紀』や『古事記』を読んでいたならば、そして当たり前の判断能力がある人なら、「神」の血をひいた神武天皇が、実在したなどとは思わなかったであろう。
資料に当たり、事実を確かめようとしないからこそ、「願望充足的妄想」が際限もなく広がって、「宗教的な妄信」になってしまうのである。

安倍晋三・現総理も所属している「日本会議 国会議員懇談会」の政治家なども、その多くは『日本書紀』や『古事記』を読んでいるわけではないだろう。それほどの読書家は滅多にいないし、「日本の歴史」をろくに知らなくても、彼らは平気で「日本の伝統」を口にして、それを「子供たちに教えよ」などと知ったかぶりで提言したりするのである。

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「げに恐ろしきは無知」と言うべきなのだ。


初出:2020年7月20日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2020年7月24日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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