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岩田重則『靖国神社論』 : 悪しき〈霊的国防装置〉としての靖国神社

書評:岩田重則『靖国神社論』(青土社)

『(※ クロフツの推理小説に)共通して言えることは、探偵が決して天才的ではなく、地道に捜査を続けていく「足の探偵」ということである。それゆえ、クロフツの小説は「リアリズム推理小説」と呼ばれることがある。テンポが遅いためしばしば退屈と評されることがあるが、日本においては戦前からS・S・ヴァン・ダインらとともに人気を集めていた。』(Wikipedia「F・W・クロフツ」)

本書における著者の姿勢は、まさにクロフツが描くところの、名探偵・フレンチ警部を彷彿とさせる。

というのも、本書はそのテーマである「靖国神社」そのものを直接的に分析・解明するのではなく、ここでは、「靖国神社」という「事件」の発生にいたる経緯を、その源流に遡ってから、順次追っていくという、「倒叙推理小説」に近いかたちが採られているからだ。
つまり、そのスタイルとは、「結果としての事件」を一目見て、その場でその全貌を直観する、シャーロック・ホームズに代表される「天才型探偵」ではなく、あくまでも地道に「事実を裏づけ」ていった末に真相にいたる、フレンチ警部のような、いわゆる「足の探偵」のスタイルそのままなのである。

したがって、本書は『靖国神社論』というタイトルではあるけれども、類書のように、靖国神社そのもの、つまり靖国神社の「成立以降の姿」を分析的に論じるものではない。
そうではなく、現状のような性格を持つものとしての「靖国神社」が、どのような経緯を経て生まれたのかを、その源流である「楠正成」にまで遡り、そこから「楠正成→楠正成祭祀→長州藩奇兵隊の招魂場→明治政府の統制による招魂社化」を経て「靖国神社」が生み出されるという過程を、丹念に追うのだ。

そして、そのことから明らかにされるのは、楠正成祭祀の精神とは、もともとは「七生報国」ではなく「七生護皇」であり、「何度でも生まれ変わって、天皇にお仕えしお守りする」という「執念」に倣おうとしたものであり、そのためには西方浄土への成仏をもあきらめて「魂魄をこの日本の地に留め置こう」とするものだったという事実である。

つまり、先のアジア太平洋戦争中において唱えられた「七生報国」というのは、本来は「皇」であったものが「国」へと微妙にずらされたスローガンであり、「死して護国の鬼となる」という言葉もまた、同様のズラしによって、たくみに「国家」に回収された後の観念だと言えるのである。

したがって、「国家神道」の根本理念とは、神道的なかたちで、仏教的な「成仏」を否定して、戦死者の魂魄を「この世=日本」に留め、独占し、それを「鬼神」に変えてでも「国家」を守ろうとするもので、「靖国神社」とは、そうした理念を体現した「国を守るための、そして、そのために命を捨てる国民を生み出すための、霊的な装置」だと言えるのである。

しかし、前述のとおり、ここには「皇室=国家」だという、微妙な「ズラし」のあることを忘れてはならない。

と言うのも、明治維新までの江戸(徳川幕府)時代においては、必ずしも「皇室=国家」ではなかったからだ。徳川幕府は「皇室の権威」を利用しただけであり、実質的には「徳川幕府=国家(天下)」だったからである。

したがって、「楠正成」の魂を招いて祭祀を行なった人たちの多くは「反幕府」であり、巨大な幕府権力を倒すことで、命がけで皇室に仕えようとしたからこそ、「七生護皇」の楠正成をその理想として祀り、自身を楠正成の生れ変わりであり依り代だと考えようとしたのである。

ところが、その「反幕府」が、じっさいに徳川幕府を倒して「玉=天皇(皇室)」を手中におさめた途端、本来は「巨大な権力に立ち向かう抵抗者」のための信仰であったはずの「楠正成祭祀」は歪められ、最後は明治政府によって「国家のための信仰」へと回収されてしまう。そして、その完成形が「靖国神社」だったのである。

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もとより、六百数十ページにおよぶ分厚い本書の中身は、こんなに簡単にまとめられるものではない。
本書著者の調査検証は、きわめて緻密周到なものであり、あらんかぎり実証的なものであるから、私の大雑把で観念的な「まとめ」から、本書を推し量るようなことはして欲しくない。

ただ、ひとつだけハッキリ言えることは、毎年、春と秋の2回おこなわれる靖国神社の例大祭にあつまる多くの人々(信者たち)のほぼすべてが、本書に示されたような「靖国神社の出自やその歴史」を知らずに、同社を「慣習信仰」的に、あるいは「政治イデオロギー」的にありがたがっている、だけだという事実である。

彼らの多くは、今ある「靖国神社」をそのまま肯定することしか考えていないために、現状に反する「出自」や「過去」などには興味がないし、時には、意識的に目を瞑りもする。
つまり、靖国神社の宮司でさえ、こうした「歴史」を直視することなく、むしろそれを都合よく「解釈的に改変する」ことで、「霊的国防装置としての靖国神社」こそが「あるべき姿そのもの」であると、見せかけようとさえしているのだ。
だが、そんなものが、はたして「靖国神社のあるべき姿」であろうか?

その「出自」からしても、今の「靖国神社」は、決して「戦死者の魂を弔う」ための施設にはなっていない。
そうではなく、戦死者の魂を神社に引き止め(成仏をさせないで)、その「魂魄=鬼」によって、「霊的な国防」をなそうとする「霊的な国家権力装置」でしかないのは、歴史的経緯に照らして、もはや明らかなのである。
そしてその点で、多くの国民は、意図的に「誤解させられている」のだ。

また、そのような事情だからこそ、戦死者たちは、その個人的な意志や思想・信条・信念などに関係なく、つまり「本人の意志」に関わりなく、「靖国神社」に寄り集められているのである。彼らはもはや、「個人として、尊重され弔われるための存在」ではなく、「国家を守るための霊的資源」なのだと言えよう。

そのために、奇兵隊の招魂場時代までは律儀に作られていた、誰にでも顕彰供養の可能な「個人」の名前の刻まれた「神霊」碑は、靖国神社においては建立されず、ただ「神体である、鏡と剣」に次ぐ「副神体(副霊璽)としての、戦死者氏名帳」にその名を記されるだけで、あとは人目に触れない神社の奥深くへと秘匿されてしまうのである。
つまり、靖国神社のおいて大切なのは、「戦死者個人」ではなく、「国家」なのだ。

このように、その歴史を追うことで、「靖国神社」は、戦死者を弔うための宗教施設ではなく、戦死者を「護国の鬼」へと変換して利用する「国家の霊的国防装置」であるという事実がハッキリとする。

だからこそ、イデオロギーの観点から「靖国神社」を論じるだけではなく、その「歴史」を正しく知ることで、「靖国神社とは何か」を、まずは正しく理解すべきではないだろうか。

本書は、すべての日本人が読むべき、本当の意味での「鎮魂の書」である。

初出:2020年9月7日「Amazonレビュー」

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