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森達也 『千代田区一番一号のラビリンス』 :  われら〈人肉食〉の 日本国民

書評:森達也『千代田区一番一号のラビリンス』(現代書館)

本作を評するのに「面白い」という言葉ほど、無神経なものはない。
たしかに、本作は「面白い」し、読者を面白がらせようともしているだろう。また、「興味深い」という意味においてならば、「面白い」という評価も、作者の望むところであろう。
しかし、本書は、読者が「ああ、面白かった」といって楽しんでくれれば、それでよし、とするような「娯楽作品」ではない。

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こう書くと、「それくらい、わかっているよ」と、本書を読んだ読者の多くは、そう考えることだろう。だが、本当に「わかっている」のであれば、本書を語るのに「面白かった」で済ませることなど到底できないし、ましてや、だからと言って、本作が、いかなる問題を扱っているのかを「解説」して、それで満足するわけにもいかないはずだ。

つまり、本作が読者に求めていることは、読者自身が、たとえ半歩でも、「天皇制」の外部に、実際に出て見せることなのだ。少なくとも、その困難と痛みを、自覚することなのである。

だが、そのことを「わかっている」読者は、ほとんどいない。
いないからこそ、本書を「面白かった」「すごかった」「さすがは森達也」「われわれは問われている」といった「感想」を持つことで、満足してしまう

それが、単なる、資本主義的な「娯楽消費」でしかないということにすら気づかず、それに抵抗する森達也を褒めることで、まるで自分が彼と「同じことをしている」かのような気分になって、満足してしまう。

はたして「自分なら、同じことをやれるのか?」と、自らに問うことの必要性にすら気づかずに、「今のままの自分」に満足するだけなのだ。

だが、森達也が、「娯楽小説」を書きたくて、本書を書いたわけではないことくらい、その内容からして明白であろう。本書が「娯楽小説」的な体裁を採っているのは、ひとまず「読まれなければ話にならない」からだというのは、明らかなはずだ。
なのにどうして、本書を「面白かった」で済ませることができるのか。

本書で提起された「歴史的な問題」を、まるで歴史の外部に立つ「批評家」ででもあるかのように、他人事のごとく「解説」したり、作品を「賞賛」したりすることで、何やら「やるべきことをやった」ような気分に、どうしてなれるものなのか。

森達也のファンであれば、森が、多くの読者から「面白かった」という賛辞をもらって、それで満足するなどとは思えないはずだ。きっと、森ならば、口では「ありがとうございます」とは言っても、その顔が仏頂面であろうことくらい、容易に想像できるはずなのだが、どうしてそんなことすら想像できないのか。
そんな「顧客」たちが、どうして今さら「あの人たち」の痛みを想像できるだろう。

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だが、その程度のことすら想像できないからこそ、多くの人は、天皇制という共同幻想に易々と巻き込まれ、あるいは「明仁さんと美智子さんは、国民に寄り添う、尊敬すべきご夫婦だ。私たちは、彼らを象徴として冠していることを誇りに思う」とでも言って、理解者づらで褒めていれば、それで満足できるのだろう。
こういう安易な「肯定性」こそが、森達也を苛立たせ、明仁・美智子夫妻のような「人権を奪われた、哀れな被害者」を生んでいるということに、多くの人は、まったく気づかないのである。

本書が求めているのは、「本書を、どう評価するか」とか「明仁・美智子夫妻を、どう評価するか」といったことではない。問われているのは「では、あなたはどうするのか?」ということであり、読者が問うべきは「自分は、どう行動するのか」ということなのだ。

今さら、ああ考えるとかこう考えるではなく、現にこの「非人道的なシステム」に翼賛している自身を、今の日本の「空気」づくりの一翼を担ってしまっている自分を、どうするのか。どうにかする気があるのか。それが問われているのではないのか。
少なくとも、そうした「空気を乱す態度表明」なくして、それを口にせずして、良い人ぶって「他人」を褒めていても、どうにも仕方がないではないか。

 ○ ○ ○

本書は「天皇小説」である。
作中には、平成時代の天皇皇后であった、明仁上皇と美智子上皇后が、「人間」として登場して、当たり前に夫婦の会話を交わし、当たり前に生活している。その「許された範囲内」において。

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その描写は、明仁氏と美智子さんに好感を抱く私たちの持つイメージを見事に捉えて、二人の「日常の姿」を、その息遣いまで再現して、ほとんど感動的である。

だが、無論これは、森が想像力を駆使して描いたフイクションであって、現実の二人そのものではない。
森も、私たちも、日常の(公務を離れた、素顔の)二人など知り得ないのだから、このフィクションがどれくらい、素顔の二人に近いかなど、じつのところ、判断のしようはないのである。

ただ、このように十分なリアリティーを持って「描かれた二人の姿」は、私たち日本国民が、彼らに強いている「抑圧」を、赤々と照らし出す。
この「あたり前の夫婦」が、その当たり前さを、当たり前に公にすることもできず、『日本国の象徴であり日本国民統合の象徴』などという「抽象観念」を演じなければならない、そんな「非人間的制度」と、それを疑いもなく追認している「日本国民の非人間性」を照らし出すのだ。

『 そう言いながら立ち上がった妻は、ティーポットから紅茶を二つのカップにそそぐ。新婚時代は給仕が食後のお茶を持ってきた。皇室では当たり前の光景だ。でもそんな日々がしばらく続いたころ、提案があるのですが、と美智子は昭仁に言った。私たちでできることは私たちでしませんか。それからは食後のお茶やコーヒーは自分たちでいれることにした。あのころは大変だった。常磐会などを中心とした東宮参与の女性たちから、返事の仕方に品がないとか手袋の袖の長さが足りないとかお辞儀の角度が深すぎるとか、妻はさんざんに批判されていた。国会で「おふたりの婚約は恋愛によるものか」との質問が出たときには驚いた。なぜ国会でそんなやりとりをしなくてはならないのか。もっと驚いたのはこの質問に対して宇佐美宮内庁長官が「恋愛ではない」と否定したことだ。長官からあとで「妃を守るためです」と説明された。もしも恋愛であるなどと答えればバッシングにさらに油をそそぐことになります。このときは確かにそうかもしれないと思いながらも、私たちは恋愛すら公式には許されないのかと少しだけ絶望的な気分になった。このころにアメリカの『タイム』誌は妻の写真を表紙に使い、「ある女官は怒気を含んで正田美智子さんを『あの成り上がりの小娘』と呼んだ」「華族の婦人たちが正田家を『かかあ殿下(※ ママ)と空っ風の上州出身』だといって嘲笑している」などと書かれた特集記事を載せている。そう言えば結婚直後の園遊会に初めて出席した妻が列席者の一人に声をかけたとき、まだ皇后が声をかけていないのに出しゃばらないように、と女官から注意されたこともあった。乳人を廃止して母乳で育てると宣言したときは、下品だとかお里が知れるなどの声は自分の耳にも入ってきた。ずいぶん苦労したと思う。つらい思いをさせてしまった。
 自分を見つめる夫の視線に気づいた妻は、微笑みながら「なあに?」と首をかしげる。
「何でもないよ」と明仁は答える。
「私と結婚できてよかったわね」
「うん」
「まあお上手」
 自分で言ったんじゃないかと思いながらも、明仁は口もとをほころばせる。確かにそうだ。この人と結婚できてよかった。出会えてよかった。もしもタイムスリップして人生をやり直す機会を与えられたとしても、私はこの人を探すはずだ。この人に出会えるまで、テニスコートに通い続けるだろう。』(P44〜45)

若い人は知らないだろうが、これらはすべて事実である。
美智子さんは、現在の「天皇制」が成立した明治以降、皇位継承者の嫁として、初めて「民間」から輿入れした人だった。
当然、伝統とその権威を重んじる皇族たちには、万世一系の「血を汚す」に等しい冒涜的な結婚である、と認識されただろう。当時、むしろ今よりも「民主的」だった一般国民は、美智子さんのシンデレラ・ストーリーを(娯楽消費的に)歓迎したけれども、皇室や保守勢力は、決して明仁皇太子と美智子さんの結婚を、歓迎したりはしなかった。

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そんな中で、決然と美智子さんを守り抜いたのが、明仁皇太子その人であった。
周囲の反対を押し切って、美智子さんと結婚したからには、自分が彼女を守り抜くと決意し、それをやり通したのである。

そして、そうした事実を、多くの国民は「客観報道」を通して知ったのだが、本作のように明仁氏の視点で、そうした歴史を語ったものは、これまでなかった。
「皇室の歴史」は、「歴史的な事実」としては語られたが、「人間の生きた事実」として語られることはなかった。だからこそ、明仁氏の視点での、この架空の描写は、特別な迫真性を持って、読む者の感情を揺さぶってくる。

だが、こうした「非人間的なシステム」は、明仁氏と美智子さんの時代で終わったわけではない。

今の天皇皇后である徳仁氏と雅子さんについても、同じような問題があった(いうまでもなく、「今上天皇・皇后」などという形式主義表現が、人格の尊重を意味するものではない)。
皇太子時代の徳仁氏が欧州歴訪前の記者会見で「それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した「人格否定発言」事件(2004年)についてなら、まだ記憶に新しい人もいるだろう。
雅子さんは、その後皇后となり、近年では徐々に公務にも戻られたので、こうした過去も徐々に忘れられかけているが、同様の「人格否定」問題が、解消されたわけではない。

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昨年の成婚までの3年半にわたる「眞子さんと小室圭氏との結婚」問題も、皇族であるがゆえに、眞子さんの「人格」は、激しく否定された。しかも、眞子さんの「人格」を否定したのは、「皇族」たちや「保守派」である前に、「一般国民」であり、その走狗である「マスコミ」であったという事実が、「天皇制・皇室制度」の「差別性」の根深さを、あらためて浮き彫りにしたと言えるだろう。
「皇族」を「非・人間」扱いにしているのは、一部の「保守派」に止まるものではなく、「皇室ファン」を自認している、多くの「普通の日本国民」であり、そこには、本書を絶賛し、明仁氏や美智子さんを敬愛しているつもりの「リベラルな国民」も、多く含まれているはずだ。

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このように、本作は、「娯楽消費」して済ませていいような作品では、決してない。天皇皇后を含む皇族は、「ただの人」であって、大衆的「娯楽消費材」などではない。
彼ら彼女らは、その人格を尊重されねばならない、「同じ人間」なのである。

作中でも描かれているとおり、本作は本来、テレビドキュメンタリー作品として企画されたものが、その理想的表現形式を実現しえず、やむなく「小説」という形式を採ったものである。

森達也は、それが極めて困難なことであることなど百も承知で、しかし、天皇皇后を退位する前の、明仁氏と美智子さんの「人間としての、生の姿と声」をドキュメンタリー作品として、国民に伝えられないかと考えた。それが、二人をはじめとした「皇族という被差別者」たちを、当たり前の「人間」に還元して救い出す、最も有効な手法だと考えたからだ。彼らを食い物にしている日本国民の犯罪を、世に知らしめ、突きつけるためである。

無論、誰だって、彼らが「同じ人間」だということくらい、頭では承知している。しかし、多くの「普通の国民」は、「現実逃避の具」としての「特別な存在」が欲しいという無自覚な欲望にしたがって、彼らをスケープゴートとして「国民国家」の祭壇に捧げ、焼き殺してきた。

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だから、「特別な人」でも「人格者」でもなく、「あたり前の人間」としての、明仁・美智子夫妻の「姿と声」を伝えたいと、森達也は考えた。だが、それは予想どおりに、巨大な壁に阻まれ、最終的には、「小説」というかたちで提供されるしかなかったのだ。

だが、森の想いに、「小説」という次善の形式を強いた存在と、その「小説」作品を「娯楽消費」した存在とは、結局のところ、同じものである。
「私は、上皇ご夫妻を敬愛する、良き理解者である」と思っているような人たちが、本書を読んで「よくぞ書いてくれた、さすがは森達也だ」と「喜んで」消費し、森の尻馬にのって「問題提起の口真似」をして、彼らを「娯楽消費」する。

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本書では、「天皇制」「マスコミ」「国民」による「日本における、三位一体の問題」が描かれており、どれか一つを批判すれば、それで問題に片がつく、といった話ではない。
私たちは、この「三位一体の怪物」の外にいるのではなく。その一部なのだということを、決して忘れてはならない。
我が身を斬らずば、その人自身、無自覚に「人肉を喰らう化け物」であり続けるしかない。

それが、日本の「近現代史」の、偽らざる一面なのである。

(2022年6月14日)

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