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森達也・望月衣塑子『ジャーナリズムの役割は空気を壊すこと』 : 天才としての〈天然〉

書評:森達也・望月衣塑子『ジャーナリズムの役割は空気を壊すこと』(集英社新書)

本書における対談のテーマは、タイトルどおりの「ジャーナリズム」論である。

要は「ジャーナリズムは、いかにあるべきか」という話なのだが、その前提として「日本のジャーナリズムの惨状」が語られ、検討されており、この状況を改善するには何がなされなければならず、何が必要かといったことが、いくつかの角度から語られている。

しかし、森達也と望月衣塑子両名の本は、それぞれにすでに何冊も読んでいるし、森が監督を務めた望月の主演映画『 i --新聞記者ドキュメント--』も観ているほどの両名のファンの私だから、本書にそれほど目新しい発見があるわけではなかった。
要は、長いものに巻かれずに、自分のやり方を通すしかないというのが結論なのだと思う。

その意味では、やはり「凡庸なジャーナリスト」のみなさんには、本書は反省材料にはなっても、あまり役には立たないかもしれない。結局、二人は、一種の「天才」だからで、他の人は「わかっちゃいるけど、やめられない」凡人だからである。

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しかし、その「天才」の一人である森達也をもってしても、望月衣塑子という人は、やはり別格の「天才」であるようだ。
それは、森が「世間の常識」に抗って表現をするために、あれこれ考え、迷い、工夫しながら進んでいくところを、望月衣塑子は脇目も振らずに駆け抜けていってしまうタイプの「天才」だからである。「なんで、あんなに無防備にやれるんだ? あの女には到底かなわないな」というような感じなのであろう、きっと。

森達也は本書の「プロローグ」で、望月衣塑子を次のように評している。

『 (※ 映画『i』の)最後のフレーズが示す意味は、この対談にも共通する。(※ 本書の)エピローグで望月は僕について、こんなフレーズを書いている。

「そうするつもりはないんだけど、気づいたら他の人とは、ずれているんですよね」。こう語っていた森さんの「無意識のずれを気にしない」姿勢こそ、ジャーナリズムに携わる人には必要不可欠な要素だ。

 補足するが僕はジャーナリストではない。そしてこのように書く望月本人はまったく気づいていないようだが、「無意識のずれを気にしない」姿勢は、僕よりも望月のほうがはるかに濃厚だ。つまり天然。ところが彼女には、(僕にはない)ジャーナリストとしての芯がある。自覚がある。モティベーションがある。小さくて弱い人たちの声を届けたいとの意識がある。強くて驕る権力に対しての怒りがある。
 だからこそ望月は、孤立しても動揺しない。嘲笑されても臆さない。罵声を浴びせられても逃げない。同調的に平面化して一方向に暴走する空気を壊すことに躊躇しない。彼女のそんな姿勢は、この対談においても存分に示されている。』(P17〜18)

まったく同感である。
本書の対談における望月衣塑子の発言は、一見したところは何ら目新しいものではなく、いかにも彼女らしい「正論」だ。一方、森の方は、いつものことだが、物言いに「一捻り」がある。それは「世間の正論」に抗ってきた人らしく、「そんな正論で、簡単に語れるようなことではない」とか「きれいごとだけで誤魔化すな」という意識や反発が、そこにあるからであろう。だから、そんな森には、その物言いにも態度にも「少し斜に構えたコワモテぶり」みたいな部分があるのだ。

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ところが、望月衣塑子には、そんな屈折がない。
まともなことをまともに信じて、それをそのまま口にする。するとそれは、一見したところ、世間でもよく見かける「(タテマエとしての)正論」に見えるし聞こえるから、それに対して森は、時にひとこと注釈を付け加えたりする。すると、普通の対談者ならそこで「あっ、しまった」という感じになって、森に迎合するような物言いになるのだが、望月衣塑子の場合は「なるほど、そうですね」と納得して、おしまい。自分が、森を怒らせたかもしれないとか、不愉快にさせたかもしれないなどと、いらぬ気を回すこともなく、やりとりの内容に即して、「なるほど」「そうですか?」「どういう意味でしょう?」とかいった感じで、他意なく、平気で、それこそ子供のように率直に、反問できる。一一これが、天下の森達也でも「真似のできない」、望月衣塑子の「天才としての天然」なのだ。いわば「鈍感力」なのである。

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こうした「鈍感力」の凄さというのは、「闘う人」つまり「傷の痛みを知っている人」でないと、なかなか理解できず、単なる「鈍感」であり「無神経」であると誤解し、低く評価してしまう。
しかし、望月衣塑子の「鈍感」は、「無用な敏感さ」を持たないという意味での「鈍感」であり、闘う前から、予防線を張ったり、逃げ出したりしないような「図太さ」なのだ。
だから、強敵と対峙すれば、敵の力量に対し、必要に応じて対処はするし、できもする。ただ、彼女の場合は「枯れススキに幽霊を見てしまう」ような敏感さではない、ということなのである。

それに、望月衣塑子は、自分の「信念」を、「観念としての信念」に形式化した上で保持しているのではない。彼女の場合、その「正義」とは、森も書いているとおり、「実感」であり「感情」なのだ。つまり「観念」や「イデオロギー」ではない。だからこそ、行動に直結する。
「許せない」「可哀想」「何様」「何それ」「頑張れ」といった感情が、彼女の中の「正義」から直接出ているので、わざわざ観念化して、理屈で自分を納得させる必要がないのである。

だからこそ、実際のところ森は、望月を羨んでいるのだろう。
無論、望月衣塑子のような「真っ直ぐさ」では、面白い映画は撮れないだろうが、彼女の場合は、その「生き方そのものが、芸術であり作品」なのである。だから、どうしたって羨まずにはいられないのだ。

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したがって、私としても、森達也を非凡な人として尊敬してはいるものの、自分がなれるとしたら、森ではなく、望月衣塑子になりたいと思う。あの揺るぎない「天然の鎧」が欲しい。まさに彼女こそ「鉄壁のイソコ」と呼ばれるべきだったのだ。

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そして、言わずもがなながら、そんな「天才」に比べると、悔しいことだが、私なんかは本当に「凡才の努力家」だ。
まず「個性がなければ、存在意義がない」と、自覚的に「個性的」であろうとしている。
また、そのために周囲から浮いたような場合、決して「平気」なわけではなく、むしろ「ここで退いたら凡人だ」と思うから、ヒーローを目指して、意地でも平気な顔で踏ん張るのである。そして、そんなことを、ずーっと意識的に繰り返してきた。

でも、「天才」は、意識しなくても、自然にそれがやれてしまうのだから、正直「ずるいなあ」と感じもするが、それを言っては、凡才の妬みにしかならないから、私は、望月衣塑子に「憧れる」と表現するのである。

つまり、ことさら頑張らなくても、ヒーローを目指さなくても、思いのままに生きているその自然体が、そのままヒーローであり得ているのが、望月衣塑子という人である。

どうして、神様はこんなにも不公平なのか。
一一無論それは「神が存在しないから」なのだが、神が存在しないからこそ、望月衣塑子のような「天才」が、人間社会には是非とも必要なのである。

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(2021年11月5日)

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