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〈文体〉とは、オタク以前以後だけに非ず。

また面白い記事を見つけたので、それをネタに一文を草したい。

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「オタクになる前となった後のツイートの違い」を比較したツイートが的確すぎて共感呼ぶ 「これがオタク構文」「もうあの頃には戻れない」
 この大げさな感じ、確かにオタクだ……!
(「ねとらぼ」2022年04月14日 18時00分 公開)

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https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2204/14/news009.html

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この記事は、私のような「文学趣味」の人間にとっても「面白い」。
ただし、「面白い」といっても、その意味するところは、「オタク」の人たちとは少し違うはずだ。

この記事には、「これがオタク構文」「それを早口で言っちゃうよね」「語彙力高まってる」といった反響ツイートがたくさん寄せられたそうだが、これらは、この記事への「共感」を示した言葉だと言えよう。つまり「そうそう、そのとおり!」「私も、そんなこと感じていた」というような「感情」を表明した言葉だ。

たしかに、私にも「そうだな。面白い指摘だ」(なんていう、シャア)みたいな感想はある。
しかし、「文学趣味」の人間は、単なる「共感」に、満足はできない。「共感」でお終いなのは「エンタメ」であって、「文学」的には、もう一段「深い」ところに踏み込んだものでないと、物足りないのだ。
「共感的消費」ではなく、「文学」には、そこから「新たな何か」を生み出す、クリエイティブさが求められるのである。

例えば、この「オタク以前・オタク以後」という「文体変化」の問題だと、たしかにこれは「あるある」として面白くはある。だが、「文学」的には、そこは「探求の出発点」でしかなく、そこから「この文体変化は、何を意味するのか」という、一歩を踏み出さなくてはならない。

で、この「文体変化」が何なのかというと、それは「所属する文化の違い」であり、その間の「移行(移住)」だ。一一というのは、誰でも気づくことであろう。
「一般人」村から「オタク」村への移行によって、「言葉遣い(方言)」が変わった、ということである。

つまり、オタクになる前の「今日はイチゴのタルト食べたよ~!おいしい!」といったツイート文が「一般人」構文であり、「イチゴ、文句無しにうめェな。イチゴである時点で最強なのに、さらにタルトになったら負けようがねぇンだわ……」が「オタク」構文。
前者は、「無個性」であり、言わば無難に「標準語」。後者は、「個性的」なのではなく、「村の看板」を背負った、言わば「訛りの強い言葉」なのだと言えるだろう。

なぜ、このように「文体」が変わってしまうのかといえば、それは、その人の「住む村の言葉遣い」がそれであり、そうした言葉遣いをすることが「自然」でもあれば、その言葉遣いによって、半ば無意識に「仲間認定」してもらえるためである。
つまり、自分が「居たい場所」にいるためには、同じ言葉遣いをしないと「浮いてしまう」恐れがある。だから人は、言葉遣いを、周囲に合わせようとするのである(例えば、大阪で東京弁を使っていると「気取っている」などと言われてしまうことがある)。

しかし、「文学」は、こういう表面的な迎合による「個性の消失」を好まない。
「文学」において重要なのは「オンリーワン」であることであって、「他には代えられない存在」であることだ。

もちろん、「エンタメ」の場合は、そうではない。「エンタメ」は、消費材であるから、消費者の意向が第一であり、自ずと消費者に迎合しなくてはならない。選んでもらわないと、商品にはならないからである。

だが「文学」は違う。「文学」は、読者(消費者)を「選ぶ」ものなのだ。だから、大量消費の対象にはならないが、大量生産物では飽き足らない人には、「他には代えられない」存在となり得るのである。

したがって、言うまでもなく、「文体」というのは、「オタク以前・オタク以後」に、二分されるのではない。

「文学」の立場から言えば、「個人主義・共同体主義」に分けられるのだと言っていいだろう。つまり、「個性」重視か「共同体(の秩序)」重視か、という違いである。
そして、そうした観点からすれば、「オタク以前」も「オタク以後」も、「共同体主義」という意味では同じであり、だからこそ「無個性(似たり寄ったり)」で、およそ「個性」というものを持たないから、「構文」と呼ばれることにもなってしまう。要は「村の文法」に縛られているのである。

もちろん、「個人主義者」になれば良いというものではないし、そもそも、そうなれるものではない。「個人主義者」というのは「共同体主義者」とは違って、独り立ちしなければならないのだから、そう容易なことではなく、誰にでもなれるわけなどないからである。
つまり「人がどう言おうと、私はこれで行く」という「個性の強度」を持っていなければ、おなじみの「同調圧力」に、あっという間に潰されて、無難な「ぬるま湯」に浸かるしかなくなるのだ。個人としての、覚悟と力がなければ「個人主義者」ではありえないし、自分の「文体」などというものは、持てるわけもないのである。

そして、かく言う私は「自分の文体」を持っている。そこに相応の自負があるから、こういう文章も書ける。自負がなければ、周囲から叩かれることを恐れて、こんな趣旨の文章は書けないであろう。そういう人は、「無難」で「似たり寄ったり」の文章を書いて「共感」を求め、そのことで、ささやかな「承認欲求」を満たすしかない。
この「(他者からの)承認欲求」というものは、「自己承認」の強度に反比例するものであり、要は「自己承認(自信)」が無い人ほど、他人からの承認を求めざるを得ない、ということなのだ。

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無論、「個性的な文体」というのは、必ずしも「上手い文章」であるとは限らない。「個性的」ではあっても、「下手な文章」というのは、当然ある。一一その実例が、私の文体だ。

私の文章というのは、とにかく「堅苦しく理屈っぽい」。これは、決して褒められた「文体」ではない。たとえ、理屈を語るにしても、堅苦しくなく流麗に語って読者を納得させる文体の方が望ましいし、優れたものに決まっているからだ。
だが、そういうものが書きたいと思っても、私にはどうしてもそういう文章が書けない。

一見してわかるとおり、私の文章には「つまり」「したがって」「しかし」「だが」「むしろ」「要は」「言い換えるなら」「もちろん」といった接頭語が頻用される。これだから、私の文章は、嫌でも「堅苦しく理屈っぽい」ものになってしまうのだが、どんなに推敲しても、結果的には、このような文章になってしまう。

なぜなら、これが私の「思考様式」であり「言いたいこと」であり「個性」だからだ。最終的には「私はこのように書きたいから、このように書くしかない」ということであり、これこそが「個性」。
周囲が、どのようなものを求めようと、このようにしか書けないし、このように書かないのであれば、そもそもそんなものは「書く価値がない」から「書かない」ということにしかならないのである。

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そんなわけで、私は、単なる「共感」を求めているわけではない。
「そうそう、そうだよね」で終わるのではなく、そこから一歩踏み出して「新しい地平を開くヒント」を与えてくれるようなものを求めているし、そういう文章しか書く気にならない。そういうものでないと、自分自身「つまらない」と思うからだ。

私が昔から(ハンドルネーム「アレクセイ」の時代から)言っている格言の一つに、

「個性とは、求めるものではなく、嫌でも出てしまうものだ」

というもの(アレクセイの格言)がある。

そう。「個性」とは、ある意味では「呪い」であり、「個性的な文体」とは、自ずと「呪文」めいたものとならざるを得ないのである。

(2022年4月15日)

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