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「私は他者を否定しないが、あいつらは否定ばかりだ」という矛盾

書評:倉持麟太郎『リベラルの敵はリベラルにあり』(ちくま新書)

リベラルが想定する〈個人〉の概念は、人間への期待値が高く設定されすぎていて、現実には大半の人を置去りにしており、〈愚民〉扱いにしている。しかし、一方でリベラルは、寛容や多様性というものはの重要性を語るのだが、これは明らかな矛盾ではないか。違った考えの持ち主どうしを調停し、いかにして多様性の実現を図るか、というリベラル本来の寛容の努力が、なされていないのではないか。
一一 本書・第一章、第二章で展開されるこのような指摘は、じつに鋭いし、反省させられるところのものだった。
まただからこそ、リベラルを自称する著者自身が、違う意見の持ち主に対する、どのような「具体的調停策」を提示してくれるのかと期待したのだが、これは完全に、期待はずれに終った。

つまり、「原則はご立派なのだが、当人が現実にやっていることは、自身の批判対象である、分断的な〈アイデンティティ・デモクラシー〉とやらと、大差のないしろもの」としか、評価し得なかったのである。

実際、本書を通読すれば、著者は「仮想敵」として、右左の別のない「永田町的なもの」「選挙政治的なもの」を、徹底的に「欺瞞的」かつ「悪辣なもの」として描きだす反面、「自党派」の一角を為すであろう「一部政治家」や「無党派層」については、「無謬の被害者」ででもあるかのごとく、「きれいな面」だけを強調し、持ち上げ、煽てあげてみせる。

本書を読めば、著者が、政治家の誰とつきあい、どんな「人脈」の中で動いているのかは、わかりやすいくらいわかりやすく、そうしたテリトリー(なわばり)に規定された、「敵」へのこき下しと、「味方」への諸手を上げての賛美は、むしろ凡庸な「党派的身ぶり」の域を、一歩も出るものではない。
またそれだけではなく、(「あとがき」としての)「おわりに」での、権威あるあれこれを援用しての「自己賛美」も、かなり鼻につくものだ。よくもまあ、ここまで自分を飾り立てられたものだと、読んでいるこっちの方が鼻白んでしまう。

著者の訴える、民間からの政策提言運動とか、政治のIT化とかいったアイデアは、具体策としては大いに結構なことだと思う。だが、それは今の政治を、直接にどうこう出来るものではない。結局それを採用するのは、今の政治家だからだ。

こうした、いかにもごもっともだけれでも、特別目新しくもなければ、さほど実効性があるとも思えない提言が、本書の中でだけは、多少なりとももっともらしく見えるのは、結局のところ、今の政治の世界を「徹底的に扱き下ろしているから」に他ならない。それらに比べれば「たいそう立派に見える」というだけの話。

しかし、実のところこれは、今の政治に不満を持ってはいるものの、たいして勉強もしていなければ、さして動きもしない「無党派層」に対する、一種の「大衆煽動」なのではないだろうか。

著者は「開かれた討論会」なども組織し「参加者は、議論することの素晴らしさを体感して、みんな満足した」(第六章)みたいな話も書いているが、そりゃあ、言いたいことがあっても、反論や批判が怖くて日頃は黙っている人たちが、「論破したらダメ」「笑顔でやりましょう」といったルールに守られて、鬱積させていた自論を人前で吐きだせるのなら、「意見発表会」としての結論がどういうものになろうと、それはそれで「個人的には満足できる」だろう。
しかし、そんなものは、お互いに褒め合いをする「宗教団体の会合」、例えば「創価学会の座談会」なんかと、どれだけ違うと言うのだろうか。ああした会合では、皆さん、実に活き活きとしているのを、はたして著者は、ご存知なのだろうか。

つまり、結局のところ、著者が「無党派層」を煽てあげ、味方につけた「先」にあるのは、凡庸な「数の政治=選挙政治的なもの」でしかないのではないかと、私は疑ってしまうのである。
いずれ著者が、有力な政治家の「政策顧問」とか、そんな肩書きを得た頃には、「数も大事」とか言っているのではと、疑ってしまう。
今は偉そうになってしまった、あの人もこの人も、地位と権力を得るまでは、それなりに「謙虚でご立派なこと」を口にしていたものなのである。

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『 野党やリベラルがうわごとのように繰り返す「寛容」や「多様性」というのは、そこに至る前段階に「対立」や「敵意」を含んでいる。決して無条件の肯定のことではない。対立やお互いの敵を受け止め、それでもなお、相互理解のために歯を食いしばる、そのときのエンジンが、「寛容」や「多様性」という規範である。今の政党政治は、この意味での寛容や多様性は一切実現できていない。無条件肯定か無条件否定の応酬に堕している。』(P246)

同様に、著者自身もうわごとのように繰り返す「寛容」や「多様性」というのは、そこに至る前段階に「対立」や「敵意」を含んでいる。決して無条件の肯定のことではない。対立やお互いの敵を受け止め、それでもなお、相互理解のために歯を食いしばる、そのときのエンジンが、「寛容」や「多様性」という規範である。今の著者は、この意味での寛容や多様性は一切実現できていない。無条件肯定か無条件否定の応酬に堕している。

実際、著者の、「敵」に対する身も蓋もないこき下ろしには、著者自身の揺るぎない「独善」が含まれている。でなければ、臆面もなく、次のように書くことなどできないのではないだろうか。

『 自分たちだけが唯一正しいなどと思わないこと。SNSなどのネット空間は過剰代表された人々に占拠される可能性があること。このような現状の構造を理解し、罠に嵌らないことが、リテラシーである。よく、子どもに対して怒らない、相手に怒りをぶつけないために、「怒りをおさえるために6秒待て」と言われることがあり、私も日常的に実践している(にしては本書はキレすぎ?)。自分が唯一正しいと思いたいときや、ネット上に躍るセンセーショナルな見出しに飛びつく前に、6秒待ってはどうだろうか。「いや、待てよ、これは構造的な落とし穴に嵌っていないか?」と。』(P300~301)

そう。傍目には『キレすぎ』にしか見えないような書き方であることを、著者自身、十二分に自覚しているのだ。
だが、にも関わらずそれを、自称「リベラル」の名に恥じない「寛容」や「多様性」を感じさせる書き方に改めようとしなかったのは、著者が『自分が唯一正しいと』思っているからに他ならない。
人がどう思おうと、書き直す必要などないと確信しているからこそ、『(にしては本書はキレすぎ?)』などと、ユーモアのつもりなのだろう、なかばふざけてみせることも出来たのだ。

著者のこうした、鼻持ちならない「高慢」や「自信過剰」は、次のような表現にも明らかだろう。

『 むしろこうした永田町の磁場を飛び越えて、当該テーマに対する様々な実務レベルでの専門家たちの意見を集約できるのは、インターネット社会ならではの利点である。そこでは当然、テーマ設定した主体が想定もしていない批判や反対論もあろうが、それこそが、当該テーマの解決策を逞しくするプロセスだ。非生産的な「ためにする」批判や、「シャンシャン」の賛成ばかりで構成される議論から独立した、実のある議論が期待できる。
 また、高齢者がネット空間へのアクセスに消極ということも、好転的に作用するかもしれない。既得権益と規制を振り回すミドル・シニア層の「ジャマおじ」がいない空間での開かれた議論は、いまだかつてない新鮮な空気での議論となるのではないか。』(P318)

「高齢者」や『既得権益と規制を振り回すミドル・シニア層の「ジャマおじ」』を排除した空間でなされる議論を『開かれた議論』だの『かつてない新鮮な空気での議論となるのではないか。』などと表現するのだから、著者が「目の上のたんこぶ」を排除したがっているという本音は明白だ。「若い我々だけで、気持ちよく盛り上がろうぜ」というのが、この一節の、偽らざる趣旨である。

『「Aを支持してください、強いリーダーシップで日本を良くします」「Bを支持しちゃだめです、あれは知的レベルの低いヤクザみたいな人達だから」などといきなり言われて、普通の人が支持や不支持を決めるとでも思うか? それでは宗教の勧誘と変わらない。
 現状の政治過程における対話の欠如は、中間層にとっては不幸極まりない状況である。』(P247)

「私を支持してください、無党派層(中間層)を大事にして日本を良くします」「右や左の永田町人間やその取り巻きの市民運動なんか支持しちゃだめです、あれは自分のことしか考えていない独善的な人達だから」などといきなり言われて、普通の人が支持や不支持を決めるとでも思うか? それが意外に「思う」のである。つまりそれは、宗教の勧誘と何も変わらないのだ。
 現状の運動過程における、著者の「敵」との対話の欠如とその隠蔽は、中間層にとっては危険極まりない、誘惑的な欺瞞である。

『このSEALDsも含めて日本の既存の市民運動は、政党や党派性と表裏一体となった選挙密着型市民運動の側面が強い。その多くは、意識的かどうかは別として、実質的には選挙の「ためにする」市民運動であり、結果として、既存の選挙代議制民主主義を前提にした党派性政治の構図を円滑に再生産し続けるための集団と化している。』(P296~297)

著者が、「専門家」と「(今は)非主流の一部政治家」と「無党派層(中間層)」に食い込んで、政治的影響力を高めていった、その「出世」の先にあるのは、果たして「寛容」や「多様性」を尊ぶ、リベラルな政治空間なのであろうか?

私には、到底そんなふうには思えない。私は「疑り深い」のだ。
じっさい著者は、

『批判や小言よりも行動、チャレンジ、具体化を』(P322)

と言ったかと思えば、

『 元大阪市長の橋下徹氏のように「政治を語るなら立候補しろ」などという意見は、私の考えの対極にある。橋下的発想こそ、「永田町的な」「政治的なるもの」だけで自給率100%のハリボテミンシュシュギから脱却できない原因だ。
 それぞれが、自分の居場所から、自分のできる範囲で、権利や自由について自分なりに考えればよい。自分の社会的立場を利用して何か政治的なイシューを考えるきっかけを提供すればよい。』(340P)

などと、平気で語る。
私は、安倍晋三も橋下徹も、もちろん大嫌いだし、「政治家になる覚悟がないのなら、政治を語るな」なんて理屈が、暴論であることなど自明だとも思う。
けれども、「一部の極端な人」や「市民運動」を票田にする政党の「選挙政治」的なやり方も、「未組織無党派層」を結集して味方につけようとする著者も、「100%のハリボテミンシュシュギ」ではないにしろ、「90%のハリボテミンシュシュギ」ではないのか。

自分に与しない「個人」たちの発言は、既成政党の応援団だと決めつけた上で『批判や小言』だと一蹴し、自分が組織化しようとする「無党派」の人たちには、物わかり良さげな顔で「あなたたちは、あなたたちの立場で、問題提起してくれればいいのですよ」などと煽て上げる。
つまり、その人たちの「言葉」だけは、どうやら『批判や小言』にはならないようなのだが、これはあまりにご都合主義に過ぎないか?

『 もうお気づきの人がいるだろうが、現在の日本の政治過程は、まさに、政権or野党の批判か、その逆の擁護・賛美のどちらかしか存在していない。
 与党も野党も、自分たちが唯一正しいとの前提から、自らは擁護し相手は徹底的に批判、それだけの応酬をしている。』(P245)

著者が、天然なのか、自分が「成り上がる」ために、意識的に「ナイーブな人たちを利用」しようとしているのかはわからない。
だが、どっちにしろ、こういう「政治的な人間」に対してナイーブな若い人たちには、「無闇に自信ありげで、断言と決めつけの多い、それでいて手前味噌だったり、自己矛盾も気にしない、やたら調子の良い人」というのは「あまり信用すべきではない」と、(馬齢を重ねただけの「ミドル・シニア」の一人として、)ぜひ助言しておきたい。

彼らの、『さあ』みなさん、なんていった「調子の良い、煽り文句」に乗せられると、利用されるだけ利用されて、後でポイ、なんてことにもなりかねない。
「宗教」に注意する必要もあろうが、「アムウェイ」のような「あなたもエリートになれますよ」的なものの『罠』にも嵌らないよう、充分に注意すべきであり、それが『リテラシーである』。(ねずみ講やマルチ商法的なもので、上手に儲けるのは、最初の一部メンバーだけなのだ。彼らはじつに「賢い」のである)

ちなみに私は、著者と同じく「反安倍」「反橋下」「反体制」「反宗教」の「リベラル」で、「反市民運動」ではない「嫌市民運動」の、スタンドアローンの快楽主義者である。
単純に「群れて騒ぐ」のが嫌いな人間なので、政治的には無力だが、「それがどうした、大きなお世話だ。お役に立てなくて申し訳ないね、政治的エリート君よ」と考える、いささかへそ曲がりの「個人」なのである。

初出:2020年10月19日「Amazonレビュー」

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