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ジャファル・パナヒ監督 『人生タクシー』 : これは 〈フィクション〉である。

映画評:ジャファル・パナヒ監督『人生タクシー』

本作は、イランの国家当局から映画制作を禁止された、ジャファル・パナヒ監督の「作品」であり、2015年度ベルリン国際映画祭の金熊賞(グランプリ)受賞作である。

つまり彼は、国家体制の批判だとか、イランの内情を描いた映画を撮る社会派の監督なので、これまでに逮捕・服役も経験しており、塀の外に出ても、やはり「映画を作ってはダメ」ということになっているのだが、そこはもともと反骨心旺盛な監督のことだから、黙っておとなしくはしていない。「映画」がダメだと言うのなら、「記録映像」なら良かろう、というわけで撮られた「映画」が、本作『人生タクシー』なのだ。

本作は、映画制作を公然と行なえなくなったパナヒ監督が、タクシー運転手に転じて、そのタクシーの車載カメラによって、客たちの様子を写した「ドキュメンタリー」ということになっている。
「これは、たんなる記録映像を編集した作品であって、いわゆる映画ではない」というタテマエの作品なのだが、開幕後20分もすれば、本作が「ドキュメンタリー風の映画」であることがわかる。なかにはわからない人もいるかも知れないが、普通に考えて、こんなに次々と「面白い客=絵になる客」が乗ってくるわけがない、と気づかされる。つまり、客たちは基本的に「仕込み」なのである。

もちろん、本編中の最後の客である「当局に活動を制限されている、女性人権弁護士」などは、現実に(監督の知り合いの)弁護士さんなのかもしれないが、いずれにしろ作品のなかで描かれているように「たまたま乗った」のではなく、シナリオどおりに乗って、シナリオどおりに話したのであろうことは間違いない。
この女性弁護士に限らず、俳優たちの演技は、ドキュメンタリータッチに合わせて、じつにリアルで、たいへん素晴らしい。みんなそれぞれに個性的で、生々しくも味があるのだ。まただからこそ、これは「現実」ではないとも気づくことができる。現実は、これほど「稠密」ではないからである。

しかし、パナヒ監督が、本気でこの作品を「ドキュメンタリー」だと誤解させよう、そのことによって当局の取締りの目を逃れとしたのかというと、それは疑わしい。
やはり、これはどう見ても「ドキュメンタリー風のフィクション(映画)」にしか見えないからだ。本気でドキュメンタリーに見せかけようとするのなら、もっとそれらしく作ることも容易に可能だったはずだからである。

たとえば、乗り合いタクシーであるパナヒ監督のタクシーに乗り合わせた男性客と女性客が、当局による「犯罪者の見せしめ的処罰」について口論を始める、男客は「もっとやりゃあいい」と言い、女客は「それは間違っている」と批判する。男客は女客よりも先に下車する際に、じつは自分は「路上強盗」をしている人間だと明かすが、パナヒ監督は男からの代金の受け取りを断る。男を怖れてではない。「もういい」という感じで断るのだが、これはなぜなのか?

男の考え方に同調できなかったからだという「雰囲気」はあるものの、具体的には何も説明されてはいない。
しかし、パナヒ監督が「映画を撮れなくなったために、やむなくタクシー運転手に転職した」という「設定」なのであれば、ここは、理由はどうあれ代金を受け取るべきであり、それでこそリアリズムなのだが、タクシー運転手としてパナヒ監督には、まるで商売っ気がない。どう見ても、プロのタクシー運転手ではないのだ。これは、どういうことか?

考えられるのは、次の2点であろう。

(1) 自分が金銭に鷹揚な人間だと見せたかった
(2) 自分が、実は本物のタクシー運転手ではないということを暗示した

(1)は、つまらない「見栄」でしかないのだが、そんなことで、演出的に「ドキュメンタリー」のリアリズムを失わせるようでは、とうてい一流の監督とは呼べまい。
だとすれば、考えられるのは(2)であり、監督は意図的にこの作品が「ドキュメンタリーではない」ということを、このような「不自然な演出」において、暗示したのではないだろうか。

つまり、挑発的に「これが、本当にドキュメンタリーだと思うかい、お役人さん? そんなわけないでしょう。映画を撮ってはいけないとお上から言われたからって、私がおとなしくドキュメンタリーでお茶を濁すことなんかするわけないでしょう。そうですよ、これはドキュメンタリーなんかじゃなくて、フィクションに決まっていますよ。それは見ればわかるでしょう。だから、取り締まりたければ取り締まればいい。私もそのつもりで、腹を括って、ちょっと、からかって見せているんですよ」というニュアンスが込められているのではないだろうか。
だからこそ、この作品は「これはドキュメンタリーである」と訴えている作品ではなく、逆に「これはフィクションである」と訴えている作品なのではないだろうか。

実際、パナヒ監督は過去に『これは映画ではない』というタイトルの「映画」を撮っており、監督の「言明」は「真(現実)」だとは限らないということを、すでに「自己申告」しているのだから、いまさら「これはドキュメンタリーである」などと言って、当局に信じてもらえるなどという「虫のいいこと」など、監督自身も考えてはいないだろう。

そして、そもそも「ドキュメンタリー」が「現実(真実)」を伝え、「フィクション」が「作り事(嘘事)」を伝えるものだなどという発想を、まともな映画監督が持つわけもない。

「現実」や「真実」というものを「虚構(フィクション)」を介して描くのが「映画」の王道なのだから、もとより「フィクション」であることは、なんら後ろめたいことでも恥じるべきことでもないのだ。
したがって、この『人生タクシー』という作品が、「これはフィクションである」と、ヌケヌケと訴える映画であっても、なんら不都合はない。

つまり本作は、「ドキュメンタリー」でもなければ「ドキュメンタリーを装ったフィクション」でもない。より正確に言えば「ドキュメンタリーを装っているように見せかけている、アイロニカルなメタ・フィクション」なのではないだろうか。

映画の中のパナヒ監督は、一見したところ温厚そうに見えるけれど、単に温厚な人が、国家権力を相手にして、くりかえし「ヤバい橋」を渡ったりはしない。彼の中には間違いなく、あえて国家権力を嘲弄してみせるような、筋金入りの反骨心があるのではないか。
本作は端から、当局に認められないことを前提として、わざわざ当局をからかってみせた「挑発的に批評的な作品」だと言えるのではないだろうか。

そしてさらに言うなら、本作は「映像作品に対する、視聴者のリテラシー」を問うているのかもしれない。

「お役人さんでさえ、この映画が単なる記録映像ではなく、明確なメッセージをこめた、疑似ドキュメンタリー形式のフィクションであることに気づいたわけですが、さてあなたは、まさかこれをドキュメンタリーだと、ナイーブにも真に受けたりはしなかったでしょうね?」といった、視聴者・鑑賞者への「問い」である。

初出:2020年11月16日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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