書評:青木理『時代の抵抗者たち』(河出書房新社)
なかにし礼、前川喜平、古賀誠、中村文則、田中均、梁石日、岡留安則、平野啓一郎との対談集、と言うよりも、むしろインタビュー集と言った方が正しいだろう。つまり、青木は、自分が語るよりも、彼らの言葉と想いを引き出すことに注力している。
その点で、青木ファンとしてはやや物足りない部分が残るものの、しかし、青木の姿勢が意味するのは、彼が今も「学ぶ人」だということではないだろうか。
自分の意見らしきものを語るだけなら、どんなに「中味の無い人」にも、それは可能だ。
あえて言うが、思想の左右にかかわりなく、有名な論者の意見を「そうだ、そうだ!」と言っているうちに、自分がその論者なみになったと勘違いしている人は少なくない。
そして、そういう人は、人の話を聞かない。議論をしない。ただ「私はこんなことを考えている。どこからも文句はつけられまい」と、一方的に訴える。しかし、そこで語られている言葉は、実際のところ「他人の言葉の引き写し」でしかない。
だから、自分が現に動かなければならない場面、たとえば、家庭や職場においては、その「借り物の正論」は、まったく機能しないのだ。
たとえば、安倍晋三や麻生太郎を見ると良い。彼らはじつにペラペラとよく喋るが、その言葉には、何の重みもなければ、知性の欠片も感じられない。
古賀誠が、大平正芳の想い出を、次のように紹介している。
「文人宰相」と呼ばれた人の風格が目に浮かぶようである。だが、それと同時に、今の総理との違いに愕然とさせられ、暗澹たる思いにとらわれざるを得ない。
大平が完璧な政治家だったとか人間だったなどとは露ほども思わないが、しかし今の総理や大臣が、あまりにお粗末すぎるので、大平たちの想い出が、絵のように美しいものと感じられるのだろう。私たちの日本の政治は、いつの間に、ここまで卑しく劣化してしまったのか。
しかし、これは私たち「国民」のせいであり、責任でもあることを、決して忘れてはならない。
あんな「子供総理」を育て上げたのは、間違いなく私たち国民なのである。
中村文則は、そんな日本国民の「自画像」を、見事に描いてみせている。
私たちが変わらなければ、政治は変わらない。
プレイヤーとしての政治家の顔ぶれが変わっても、その悪しきルールは残りつづけるだろう。
だから私たちは、本書に登場した「抵抗者たち」の言葉に黙って耳を傾け、「自分がこの人の立場なら、何をするだろう。何ができただろうか」と問う必要がある。
ただ彼らを祭り上げ、抵抗の最前線へと送り出して、みすみす見殺しにするような大衆であってはならないのだ。
「美しい国」を育てる「美しい政治家」を生むのは「美しい国民」であり、それは私であり貴方なのである。
初出:2020年6月5日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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