見出し画像

桐野夏生『日没』 : 〈Who done it〉 誰が作家を殺すのか?

書評:桐野夏生『日没』(岩波書店)

「表現抑圧」がテーマの「ディストピア小説」である。一種の「ホラー(恐怖小説)」でもあろう。

他のレビュアーもすでに指摘しているとおり、「ディストピア小説」の古典としては、オーウェルの『1984年』、ブラッドベリの『華氏451度』などがすぐに想起される。これらの作品は、国家が国民全体の「思想統制」を行なっている世界を、大きなスケール感で描いているのに対し、本作では、国家機関らしき謎の組織が、作家を個々に「思想矯正」する(ことで、間接的に国民全体の「思想統制」をしようとしている)というお話になっているので、話のスケールは小さく、物語はほぼ「病院の中」だけに終始する。つまり、拉致され、閉じこめられ、暴力的に思想矯正がなされる、というかたちで展開する物語であり、「国家体制の恐怖」よりも、もっと直接的な「主体性喪失の恐怖」が描かれている、と言ってもいいだろう。
そしてそうした点で、本作は、スティーブン・キングの『ミザリー』や、ジャック・ケッチャムの『隣の家の少女』に近い味わいの作品だとも言えるのだ。

「倫理」を振りかざして「自由」を抑圧しようとするのは、国家の常態であって、決して珍しい話ではない。国家とは、もともと統制機関であり、個人の完全な自由など認めるわけもない。民主主義国家においては、主権者である国民個々の自由を最大限に尊重するというのが、前提条件でありタテマエともなっているが、国家を運営する側の人間、つまり権力者の側としては、個人の自由の制限は否応なく必要なものであり、より多く制限(統制)した方が、仕事としても「楽」に決まっている。
しかしまた、人は「自由」を求めるものであり、「国家」に対しては「最低限の制約で、最大限の福祉」を求めるだろう。だからこそ「権力を与えている」のだから、それは当然の要求なのだ。
そこで、この二つの「当然」は、いつでも対立する。

しかし、帯に惹句に『ポリコレ、ネット中傷、出版不況、国家の圧力。』とあるように、本書のテーマを、「国家による言論弾圧」を描いたもの、だと単純に理解するのは、たぶん間違いだ。
問題は、それだけではなく、むしろ『ポリコレ、ネット中傷、出版不況』の方なのではないだろうか。つまり、私たち自身が、多かれ少なかれ関わっている部分である。

例えば「ポリコレ」だが、これを口先で批判するのは簡単だ。だが、自分が(本作主人公のように)「差別される側」に立たされることを考えてみれば、「ポリティカル・コレクトネス(公正な表現もしくは言葉の使用)」の必要性を説く人たちの努力を、そう簡単に否定しさることなど出来ないのは明らかだろう。
確かに「弊害」はあるものの、もとより多くの「メリット」があるし、そもそもそれは「弱者のために」なされている「善意」の行動なのである。

次に「ネット中傷」。これも、そう簡単に否定できるものではない。と言うのも、「中傷」と「批判」は紙一重であり、もともと境界線など無いのだから、(本作でも示唆されるように)「中傷はいけません」という言葉は、そのまま「批評禁止」ということにすり替わりかねないのだ。

次に「出版不況」。これも簡単な問題ではない。人が本を読む動機は「面白いから」だと言って良いだろう。それが娯楽小説か、難解な哲学書かは別にして、人はそれが「面白いから」読むのであるが、しかし今の世の中には、新しくて「面白い」メディアやツールが溢れていて、なにも「本」を読まなければならないという理由は無い。
つまり、私たちが「面白いから」本を読むのであるかぎり、「出版不況」は必然的な流れであって、それを責めることなど誰にもできない。

しかし、これらの諸条件が重なって、作家は「自由に表現する」ということが難しくなってきている。

言い変えれば、これからの時代、「お金ももらい(原稿料や印税で生活し)」かつ「自由に書く」ことが、ますます困難になるというのは、ほぼ必然的なのだ。
なぜなら「自由」であることは「他人を傷つけるというリスク」をともなうし、昔とは違い、ネット社会では、作家が自由に書いた「表現」に対して、一般の読者が自由な「表現」として、直接的に反応を返してくる。「表現者」は、もはや「作家」だけではなく、すでに彼らは「特権的な地位」にはないから、特別に守られてもいないのだ。
また「出版不況」であれば、出版社が「売れるものを書け」と言うのは、資本主義社会における必然で、おのずと「自由」に書きたいのなら「趣味でやれ」あるいは「自費出版にしてください」ということにもなろう。そうしたきわめて厳しい局面にある現在、「良い作品なら、きっと売れる」などという甘い幻想など、とうてい持ちようもないのである。

つまり「表現の自由」と「金儲け」は、両立困難な時代になってきた。
自分の「自由」を守りたければ、出版社にも、読者にも頼らず、「本にならなかろうが、売れなかろうが、とにかく書きたいことを書く」しかない。そんな覚悟がなくては、「表現の自由」は守れない。「二兎を追う者は一兎をも得ず」なのである。
そして、そんな状況のなかで、さらに「国家の圧力」が加わる。

はたして作家は、それでも「表現の自由」を守り抜けるだろうか?

私たちが知っている「四畳半襖の下張裁判」や「サド裁判」など、「表現の自由」が争われた裁判は、「本が売れる時代」を背景としたものだということを忘れてはならない。今は、そんな悠長な時代ではないのである。
したがって、本作が「救いのない結末」を迎えるのも、言わば、必然的でもあれば合理的でもあったのだ。

はたして作家たちは、「職業作家」であることを諦め、それでも「自由に書き続ける覚悟」があるだろうか。読んでもらえないものでも、書き続ける覚悟があるだろうか。この「日没」の先に、ふたたび日の昇る朝(あした)がめぐり来ると信じることができるだろうか。その時まで、はたして持ちこたえられるだろうか。
「表現欲求」は死なないだろう。だが、生身の「職業作家」は、日の昇る朝まで、生き延びることができるのだだろうか。

「作家」殺しの実行犯は「国家」かも知れない。
しかし、その背後には、もはや「活字(本)」に「娯楽」しか求めなくなった、私たち「国民」のいることを忘れてはならない。

初出:2020年10月22日「Amazonレビュー」

 ○ ○ ○






















この記事が参加している募集