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佐藤優・富岡幸一郎 『〈危機〉の正体』 : あなたという〈魍魎の匣〉

書評:佐藤優・富岡幸一郎 『〈危機〉の正体』(講談社)

いま話題の、いわゆる「宗教二世」などは別にして、ひとまず自分から進んで「宗教」に帰依入信する人の動機というのは、多くの場合、自身や家族が難病に苦しんでいるとか、病気や事故災害などで家族や親しい人を失ったとかいった場合が多い。
もちろん、前者で期待されているのは「科学を超えた宗教の力(ご利益)」なのだろうが、後者の場合は、すでに「結果」は出てしまっており、その「不幸な現実」を変えることなどできないというのに、どうしてそれでも「宗教」にすがったりしてしまうのだろうか?

いろいろと理屈はつけられよう。だが、後者の場合は、基本的には「納得できない(結果の出てしまった)現実」に「理屈をつけて、納得したいから(決着をつけたいから)」である。過剰な「意味の病い」に憑かれるからだ。

例えば「なぜ、息子は、あんな難病に罹って、さんざ苦しんだあげく、死ななければならなかったのか。私たち夫婦に健康上の問題はなかったし、遺伝的な問題も無かった。また、息子自身、とても親孝行な子で、周囲からも愛されていた。そんな息子が、なぜ、よりによって、こんな不幸な目に合わなければならなかったのか?」あるいは「どうして、私は、ある日突然襲ってきた自然災害によって、家族を失い、家財産まですべて失って、路頭に迷わなければならなかったのか。こんな生き地獄に落とされなければならなかったのか。私は何も悪いことはしていないに、なぜ、私なのか?」また「娘は、なぜ殺されなければならなかったのか? つきあっていた彼氏もおり、まじめに将来設計をして一生懸命に働いていた娘が、たまの休みに出かけた繁華街で、通り魔の男に刺殺された。被害者が、娘である必然性などまったく無い犯行だった。ただ、たまたま、その時そこを通りがかった、というだけの不運なのだ」といったことだ。

(秋葉原無差別殺傷事件の現場)

「宗教」に帰依入信する人の中で、「被災者」「犯罪被害者(家族)」というのは、数としては少ないだろう。だが、ここでは、そこが問題なのではない。問題は「理不尽な不幸(不遇)」という点である。
現状に「心から満足している」人は、決して「宗教」に帰依入信したりはしないものなのだ。

こうした人たちのこうした「心理」は、多かれ少なかれ誰にでもあることで、決してわかりにくいものではないだろう。
だが、同時に誰もが気づくとおり、事実としては、彼らの「不幸」に、「理由」などというものは無い。
つまり、そうした「不幸」とは、「理不尽」なものと言うよりも、「理不在」の事態なのだ。要は、「不運」なだけだったのである。

だが、人は、しばしば、そんな「理屈」では納得できない。
つい「なぜ、選りに選って私たちが、不運な目に遭わなければならなかったのか?」と考えてしまう。
しかしながら彼らは、誰かに「選りに選られた」わけではない。「たまたま」彼らだっただけであり、科学的な表現で言えば「確率論的に」彼らであっただけ、なのだ。

理屈では、そうである。しかし、人の「感情」は、そんなことでは収まらない。納得などできない。
だから、理由のないところに理由を求めざるを得ず、存在しないものに「不幸の原因や根拠」を求めざるを得ないということになりがちである。だからこそ、そんな人たちが、止むに止まれず、「この世の理」の外にある「宗教の理」の中に、その理由を求めて、納得しようとするのだ。

そもそも、「葬儀(や埋葬といった一連の儀式)」という「虚礼」が意味を持つのも、多くの「死」における「理の不在感」に対する「形式的な意味の充填」による「納得」を目指すものだからであり、それを心理学的にはそれを「喪の作業」と言う。

「葬儀」とは、死者を送る者たち(生者)にとっては、「死者のため」になされるものだと認識されているが、実際のところ「葬儀」は、「生者」のために行われているものでしかない。
葬儀とは「生者が納得するため」に行われる、「目に見える、意味づけの儀式」であって、「葬儀」など、やろうとやるまいと、すでに不在の、「死者」には関係のない話である。

だからこそ、「葬式」は盛大なほど「ありがたいもの(生者にとって効果的)」ではあるが、実際のところ、それは「気持ちの問題」でしかないのだから、「葬式の大小で、死者の成仏が決まるわけではない」という、一見「合理的な理屈」で、近頃では「小さなお葬式」の価値が称揚されるし、葬式などしない人(火葬場への直送)も増えている。

(安倍晋三元首相の国葬の儀)

かく言う私もそうで、母の葬儀はしなかった。こうした私の心理は「私と世間を納得させるために、母をその死後まで利用したくはない」というものであった。
つまり「母の死は、母のものであって、私のものではない(母を、私が納得するための道具にしてはならない)」という、徹底した「個人尊重」主義的な考え方によるものである。

そんなわけで、「宗教」に帰依入信する人たちは、決して「特別な人たち」ではない
ほぼすべての人が、家族が死ねば「葬式」をするし、受験生は「合格祈願」のために神社仏閣にお参りする。

そんなもの、所詮は「気休め」だと思ってはいても、それでもそれがやめられないのは、心のどこかで、いくらかは「信じている部分がある」からに他ならない。
「葬式」をしないと「何か良くないことが、起こるのではないか」とか、「合格祈願のお参り」も「しないよりはした方が良い気がする」と思うからこそ、それをするのだ。
100パーセント信じているわけではないが、数パーセントは信じているのである。

しかし、多くの「死」においては、それを受け入れる用意がある。
「歳も歳だったから」「若死にの家系だったから」「働きづめだったから」「酒タバコをやめなかったから」等々、つけようと思えば、「ある程度の理由」ならつくものが大半であるため、人は、数パーセントだけ残っている「不全感(納得できない部分)」を、「葬儀」などで「昇華」して済ませるのである。

すなわち「いろいろあったけど、これでお祖父ちゃんは天国へ行ったよ」「これでお婆ちゃんは、病気に苦しむこともなく、お墓の中で安らかに眠れるよ」といった「フィクション」によって、たいがいの場合は「折り合いがつけられる」のだ。

ところが、場合により、その人の性格によっては、この「折り合い」が、どうしてもつけられない場合があり、つけられない人もいる。

そうした場合、彼らは「宗教というハード・フィクション」に頼らざるを得ない。
「体系的に構築された理論があり、その支持者も多いフィクション」である。そんな「強力な武器」でなら、自分たちの心に巣食った「無意味という虚無(心の隙間)」を埋めて、平明な「日常の理」に復帰できると、そう考えるのだ。

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本書は、ほとんど「無内容」である。

語られていることは、きわめて「当たり前(凡庸)」な話でしかなく、自分なりに問題意識を持って物事を考えている人にとっては、わざわざ金を払い、時間を費やしてまで、読むほどの価値(中身)などない本なのだが、ただし、本書には、「現実の無意味に耐えられない人が、葬式やお参りなどによって与えられる、超越的権威というフィクションにすがることで、救われる」のと同様の、「効果」はあるだろう。

つまり、佐藤優や富岡幸一郎の「権威」を「信じられる」人には、実際には「無内容」な本であっても、「救われはする」ということだ。
これは、池田大作の本」や「大川隆法の本」と、まったく同様の話である。

したがって、本書で強調されるのは、対談者双方の「権威」である。
すなわち、佐藤優の「元外交官」「プロテスタント神学者」「沖縄出身」「博識の読書家」といった「特権的肩書き」であり、富岡幸一郎の「高名な神学者であるカール・バルトの研究家」「文芸評論家」といった「権威の権威・的な肩書き」である。
だからこそ、富岡が、保守思想家である西部邁の主催する言論雑誌の編集長を勤めていたということは紹介されても、安倍政権を背後であやつる胡散臭い保守思想団体と見られていた「日本会議」で講演をするような「反動保守思想家」であるという「負の側面=マイナス権威の側面」は語られない。

(前ローマ法王ベネディクト16世)

本書の特徴は、佐藤優の著書にも顕著な、「有名人(権威者)の著書からの引用」がむやみに多く、それを「これは重要な指摘です」などと、さらに言挙げする「追認的議論(私はこれを分かっており、この人と同レベルの思想家である、との自己アピール)」ばかりで、「自分の言葉」の部分は、きわめて凡庸だ、という点である。

また、同様に両者は、「互いに褒めあう」ことによって、互いを「箔付け(権威づけ)」することに忙しい。
相手が、ある意見を述べると、もう一方は「それは重要なポイントですね」とか「まさにそれです」とかいった具合に受けて、相手の意見を持ち上げ「箔付け」するのである。

そうすると、一一「キリスト教神学」や「保守思想」に無知な、ほとんど大半の読者は「(よくはわからないけど)すごい!」と感心し、感心してみせることにより、そうした「権威」のすごさを認める自分も「権威の側にある人間だ」というフィクションにおいて、「心の隙間」を埋めることができるのである。

(荘厳な大聖堂)

つまり、本書を喜ぶような読者は、「実質的な価値のある意見」が聞きたいのではない。それを参考にして「価値のある生き方をしよう」としているのではない。
そうではなく「何者でもあり得ない、凡庸な今の私を、そんな不全感から救ってくれるような、ありがたい話が聞きたい」だけなのである。

ひとことで言えば、「自己逃避であり現実逃避」としての「虚礼としての読書」である。

本書で、佐藤優と富岡幸一郎が「迷える読者」たちに保証しているのは、「逝ってよし(成仏してください)」の一言に他ならない。


(電力会社の連絡組織「電気事業連合会」発行の新聞・佐藤優は原発ムラ文化人)
(右派団体「日本会議」主催の講演会)

(2022年11月26日)

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