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「人は死ねば(ゴミを残して)無になる」 : カレー沢薫『ひとりでしにたい』第1巻

書評:カレー沢薫『ひとりでしにたい』第1巻(モーニングKC・講談社)

かつては「独身貴族で、憧れの的」だった叔母が、老いてのち孤独死して腐乱死体で発見されたという事実を知らされ、ショックを受けた主人公のアラサー独身女子が、「そんなふうにはなりたくない」と、にわかに自分の生活を見つめなおそうと繰り広げるドタバタ「ラブコメ」とでも呼べばいいだろうか。
「独居高齢者」や「親の介護」問題、あるいは「若者の生活環境と意識の変容」といった問題が紹介されて、老いも若きも、色々と勉強になる作品ではある。

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さて、私は2年後に定年退職を控えている準高齢者なので、「独居高齢者」や「親の介護」問題の方はおおよそ知っていたし、完璧ではないにしても、それなりの準備や覚悟はできている。

私は独身で子供もいないから、ずいぶん昔から、独居高齢者として独りで老後を生きて、誰にも看取られないで一人で死ぬ、つもりでいた。もちろん、家で一人で死ぬ前に、入院して病院で死ぬかもしれないが、それはそれでいい。ただ、独居である以上、家で寝込んだり、突然倒れてそれっきりの可能性の方が高いと考えているだけだ。
したがって、外形的な意味で「きれいに死にたい」とも思っていない。つまり、ドロドロの腐乱死体になってもかまわない。もちろん、できるかぎり他人に迷惑はかけたくないが、突然倒れたら、そんなことも言っていられないから、それはもうしかたがない。
そもそも私は、常々「葬式はいらないから、火葬場直送で済ませてくれ。法律が許すなら、死体をそのまま山へでも捨てて欲しいくらいなんだが、そうもいかないから、できるだけ簡単に済ませて、焼いた骨は適当にこっそりゴミに出してくれたらいい。墓なんかバカバカしいから」などと言っている「無神論者」なのである。もちろん、必要経費は残しておく。
死ぬにあたっては、見栄えとか死後の心配ではなく、「苦しみたくはないな」とは思うが、それも計画できることではないから、心配してもしかたがない。そこそこ苦しんでも、死んだら「助かる」のである。

父はすでにおらず、母は高齢者施設(老健)に入れてある。母の介護度は高いので、値段はそれほど高くない。母の年金に余る部分を私が払っているが、そんなに大した金額ではないし、保護者の私が先に死んでいなくなっても、弟がいるからなんとかなるだろう。いずれにしろ、もう90歳だから、老い先は長くないはずだ。

そんなわけで、私がいま考えているのは、生きている間は、できるだけ好きなことをして、そこそこ健康で生きていたいということで、病気で苦しむくらいなら、さっさと死んだほうがマシだろう。また、頭がボケてまでボンヤリと生きていたくはないが、現にそうなったら、そうは考えられないかもしれないので、これも今から心配してもしかたがないだろう。

ともあれ、そこそこ蓄えはあるし、小銭を稼ぐ方法くらいならある。だから、80歳くらいまでなら、無駄遣いをしなければ、それほど生活には困らないだろうし、それでも予定に反してお金が無くなったら、遠慮なく「生活保護」だって受ける。それだけの税金は払っているから、ぜんぜん申し訳なさはない。
むろん、事情があって税金を納められなかった人も、遠慮なく「生活保護」を受けて欲しい。誰もがそれを受けられる国だという前提で、私もこれまで税金を納めてきたからだ。
しかしまた、将来的に、まともな生活保護がなされないような国になったら、それはそれで諦めるしかないだろう。だが、体が少しでも動くのなら、為政者の一人でも刺して死にたいものである。むろん、そんなことをさせない国であって欲しいと思う。

それにしても、今の若者は可哀想だ。申し訳ないという気持ちもないではないが、しかし、私はまず自分のことを考える。他人のものまで毟り取ろうとは思わないが、約束されていたものを支払ってもらうのに遠慮するつもりない。
だから、若者たちには誠に申し訳ないけれど、なんとか自分の身は自分で守って欲しい。それでも、あなたたちに対して、まともに報いてくれない国ならば、黙って殺されないで、「上位1パーセントの人たち」を道ずれにでもして欲しい。余計なお世話かもしれないが、泣き寝入りだけはしないで欲しい。

いずれにしろ、死んだら、自分は存在しないのだから、何も気に病むことは(でき)ない。

押入れの奥に隠した、エロ本やバイブレーターやロリコンダッチワイフなんかは、たしかにちょっと恥ずかしいけれど、それも生きているうちだけの話なのだ。

初出:2020年12月23日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2020年12月26日「アレクセイの花園」

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