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ボロを出し始めた〈コウモリ男=佐藤優〉

イソップ寓話に「卑怯なコウモリ」というのがある(「鳥と獣と蝙蝠」とも言う)。
こんなお話だ。

『昔々、獣の一族と鳥の一族がどちらが強いかで戦争をしていた。 その様子を見ていたずる賢い一羽のコウモリは、獣の一族が有利になると獣たちの前に姿を現し、「私は全身に毛が生えているから、獣の仲間です」と言った。鳥の一族が有利になると鳥たちの前に姿を現し、「私は羽があるから、鳥の仲間です」と言った。
その後、鳥と獣が和解したことで戦争が終わったが、幾度もの寝返りを繰り返し、双方にいい顔をしたコウモリは、鳥からも獣からも嫌われ仲間はずれにされてしまう。
「お前のような卑怯者は二度と出てくるな」と双方から追いやられて居場所のなくなったコウモリは、やがて暗い洞窟の中へ身を潜め、夜だけ飛んでくるようになった。』(Wikipedia 「卑怯なコウモリ」)

まるっきり「佐藤優」のことである。
私が佐藤優を「コウモリ男」呼ばわりするのは、この倫理寓話に由来している。

佐藤優と池上彰の最新刊『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960 』(講談社現代新書)について、私は「〈ナイーブな読者〉は騙される: 真説 佐藤優論」と題するレビューを書いた。
その中での指摘はこうだ。

『 佐藤優が、なぜ「右派」や「保守派」の人間とも「意気投合しているかのように、付き合ってみせる」のか。なぜ、自民党と連立与党を組む「公明党」を支持し、その支持母体である「創価学会」を支持し、その精神的支柱である「池田大作名誉会長」を絶賛するのか。なぜ「電気事業連合会からお金をもらって、原発推進に協力するのか」と言えば、それは佐藤優が「現体制支持者」だからに他ならない。

たしかに佐藤は、本書で自ら語っているように、日本社会党の下部組織である「社青同(日本社会主義青年同盟)」の出身者である。
しかし、「かつては社会主義革命を志していた」というのは、ほぼ間違いのない事実だけれども、要は多くの「革命青年」たちが、道半ばで挫折して、その志を捨てていったように、佐藤もそんな「いちご白書をもう一度」青年の一人であった、ということなのだ。

つまり佐藤は、今もマルクスを愛読すると言うとおりで、その若き日には「革命青年」の一人であったけれども、その道で挫折したので、かわりに「キリスト教」の道へとのめり込んでいき「神学」を身につけることになる。
そして、その「左翼思想」と「キリスト教神学」という「二つの武器」を持って、「国家に仕える外交官(スパイ)」となって、ロシアを担当することになったのである。』

しかし、このことを最初に指摘したのは、私ではなく、佐藤とも共著のある、左派リベラルの評論家・佐高信だ。

佐高は、本年3月刊行の『佐藤優というタブー』(旬報社)の中で、佐藤優が、一見リベラルっぽく振る舞っているが、実際には、右にも左にも上にも下にも媚を売っている、言論人として、およそ無節操で信用のならない人間だ、と批判した。

そして、その実例として示したのが、創価学会、公明党、池田大作創価学会名誉会長についての、露骨で無節操な「太鼓持ち本」の刊行。
そして、佐藤が、原発事業を推進する電力会社の共同体である「電気事業連合会」から金をもらって「原発推進」のお先棒を担いでいる「原発ムラの原発文化人」の一人であるという、動かぬ事実である。

すると佐藤優は、この「事実の指摘」による批判に対し、恥知らずにも佐高信を「名誉毀損」で告発し、さらに「損害賠償」を求める、「スラップ裁判」を起こした。

『スラップ(英: SLAPP、strategic lawsuit against public participation)とは、訴訟の形態の一つであり、特に民事訴訟において「公的に声を上げたために起こされる」加罰的・報復的訴訟を指す言葉である。
 口封じ訴訟、恫喝訴訟、威圧訴訟、批判的言論威嚇目的訴訟などとも訳される。』(WIKIpedia「スラップ」)

さすがは、権力の側に寝返った人間らしい、やり口だ。

故郷・沖縄の「辺野古沖」埋立てを認めた、日本の裁判所ならばきっと、時の権力者の側に立つ佐藤の方を支持してくれると、そう判断したのであろう。

また、そんな恥知らずであるからこそ、佐藤は今の自身の立場を正当化するために、下のような発言をし始めている。

趣旨としては「歳をとったら、無理をして、意地を張って生きる必要はない」ということだが、要するにこれは、これまで公言し、人にも講釈してきた「信念」や「ポリシー」を捨てることだってありますよ、という、自分自身の「逃げ」のための「予防線」なのである。

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【 佐藤優、50歳以降は「積極的消極主義」のススメ 「うまく逃げる」も重要 】

https://www.google.co.jp/amp/s/dot.asahi.com/amp/aera/2021072800035.html

〈AERAdot.〉8/1(日) 8:00配信

 長い人生、自分らしく生きるために、50歳から新たな戦略が必要だ。どのような姿勢で人生を歩めばいいのか。AERA 2021年8月2日号は、佐藤優さんに聞いた。

*  *  *
 50歳を過ぎたら、肩の力を抜いた守りの姿勢で、意図的に消極的な選択をするよう心がけてみる。そんな「積極的消極主義」が非常に大切になってくると考えています。

 いま巷にあふれる50歳以降や定年後の人たちに対するメッセージには「まだまだやれる、がんばろう!」という話が多すぎるんです。体が動く限りがんばって働き続けないといけない。言われなくてもみんなわかっています。でも、もうこの先はがんばりすぎても、積極的に「新しい挑戦」に打って出たりしても、ろくなことはありません。

 たとえば50を過ぎてから、それまで手掛けたことのない新分野のプロジェクトチームで責任者をやってくれ、などという話には決して喜んで飛びつかないことです。そういう話はたいてい筋の悪い案件だったりで、あなたが選ばれたのは責任を取ってほしいから。そういう「組織のずるさ」も知り、消極主義でうまく逃げることが重要です。

 私は最近、イソップ物語の「酸っぱい葡萄」に出てくるキツネのことをよく考えるんです。腹を空かせたキツネが、木になった葡萄の実を取ろうとするけれど、届かない。キツネは「この葡萄は酸っぱいんだ」と捨て台詞を残して立ち去ります。負け惜しみを言うみっともないキツネ、というとらえられ方が一般的です。

 でもよく考えると肉食獣のキツネは葡萄を食べても栄養になりません。届かないものをいつまでもめざしているより、別のものを狙った方がいいはず。同じことが人間の50歳にも言えると思うんです。

 会社で働くなかには必ず、競争があります。その中で、組織の上位層に行ける人かそうでないか、というところは50歳を過ぎると必ず見えてきます。そしてその見通しに「逆転」はまずありえません。そうであるなら、「酸っぱい葡萄」のキツネのように見切りをつけて、別の生き方へと転身していく。別の自分の居場所を見つけていく。それができるなら捨て台詞くらい言ったっていい。このキツネのような生き方の方が素敵なんじゃないかと感じます。
 さらに、自分の中で「お金と役職を基準にすること」に、もう見切りをつける。たとえば50代での役職定年や、60歳で再雇用になったとき、給料が減ったり、部下だった人間が相談に来ないどころか挨拶もしなかったりすることをいちいち気に病んで、鬱(うつ)っぽくなってしまう人がとても多いんです。そうならないためにも、遅くても45歳頃から、「(見切りをつけて)逃げ出してもいいんだよ」ということを自分に言い聞かせるイメージトレーニングを始めておくことも、重要だと思います。

※AERA 2021年8月2日号

【関連論文】
・〈薄く広くかつ創造性なし〉が、雑学王・佐藤優の本質
 (2021年10月15日、管理者により削除)

・〈ナイーブな読者〉は騙される: 真説 佐藤優論
(https://note.com/nenkandokusyojin/n/nfced1c06423d)

・ボロを出し始めた〈コウモリ男=佐藤優〉
(https://note.com/nenkandokusyojin/n/na65a5c1944c8)

・プロテスタントの〈ペルソナ〉:佐藤優批判
(https://note.com/nenkandokusyojin/n/nadc6b2b553a3)

・「右でも左でもなく下」でしかない、山崎行太郎の批評
(https://note.com/nenkandokusyojin/n/n85313c7f0818)

・トラの威を借る〈ネトウヨ系プロテスタント〉:富岡幸一郎
 (2021年10月15日、管理者により削除)

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