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柿田睦夫 『創価学会の〝変貌〟』 : 日本国民の 誰もが恥ずべき 〈不都合な真実〉

書評:柿田睦夫『創価学会の〝変貌〟』(新日本出版社)

私は、幼い頃に一家で創価学会に入信し、イラク戦争への公明党・創価学会の加担を目の当たりにして、創価学会を退会した、元創価学会員である。
そんな私が、本書を読んで思ったのは「この本によって、創価学会は完全に論破されている。しかし、創価学会を妄信するコアな会員には、こんな正論も、例によって届かないだろうな」ということだった。

なぜ届かないのかと言えば、それは彼らが「批判に耳を傾ける」ということをしないからであり、常日頃から「魔の策動に紛動させれるな」と指導教育を受けているからである。キリスト教風に言えば「悪魔の声に耳を傾けてはならない」といったところだろう。

しかし、それだけではない。そもそも創価学会員は、毎日届く「聖教新聞」や月刊の『大白連華』や池田大作名誉会長の著作など、読まなくてはならないものが多くて、一般の書物に触れる機会がきわめて限定される、という客観的な事実がある。つまり、まじめな学会員であればあるほど、一般の書籍を読む暇がないような環境に、たぶん意図的に措かれているのである。
だから「外部からの声」は、冷静な批判であれ、感情的な批難であれ、いっさい届かないことになるし、それらは一括して「魔の声」扱いにされて無視されることになる。

さらに言えば、真面目な、あるいは「視野狭窄」になっている学会員の場合、上記のとおり、その「世界観」も「人間関係」も、すべて「創価学会」によって埋め尽くされており、もはや自身の「アイデンティティ」と化しているので、それを疑うことは、ほとんど「自己否定」にも等しいこととなるから、そんなものに目を向けることは、心情的にも不可能なのだ。

したがって、そういう創価学会員には、本書による正当な批判は金輪際届かないし、それは著者も重々承知しているのではないかと思う。しかし、そうであるなら、本書を読んだ者がすべきことは、創価学会攻撃ではなく、創価学会員の「デプログラミング(洗脳はずし)」しかない。
つまり、学会員を「論破」しようとするのではなく、冷静に話をして、まずは世間の常識を教えてあげる。たとえば、普通のマンガや小説を教えてあげる、娯楽を教えてあげる、信仰を持たない普通の人間の普通の生き方が決して無価値ではないことを教えてあげる、といったところから入って、例えば、比較対象としてキリスト教の歴史を教えてあげるとか、世界史や日本史の問題を語り合うといったことで、学会員の凝り固まった世界観を相対化し、解きほぐしていくことしかできないのである。

もちろん、これは創価学会への直接的な働きかけとしてできる「ささやかなこと」であって、たぶん、それで創価学会自体が大きく揺らぐことはない。
だが、いずれにしろ、創価学会は、あと二十年もすれば自ずと力を失っていることだろう。だから、私がここで言っているのは、本当の意味での「宗教被害者の救済」ということなのだ。宗教に狂った人たちを憎むのではなく、救ってあげるということなのである。

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本書は、長らく創価学会の実質的「本尊」であった池田大作(退会二十年弱を経てもまだ、「氏」付けしたくなる自分がいる)について、現・原田稔会長の下、実質的な「池田はずし」が進んでいるという状況を、各種事実と資料をもとに論証したものである。

なぜ「池田はずし」が行なわれるのかと言えば、それは絶対的カリスマの池田大作とは言え「永遠には生きられない」からで、事実、池田が創価学会指導の第一線から姿を消してすでにひさしい。

学会本部は「池田先生はお元気だが、後進を育てるために、あえて一線から身を退かれているのだ」といった無理な言い訳をしている。これに対しては、その露出の極端な少なさから、一時「死亡説」すら流れたほどなのだが、さすがに生きていることは間違いないにしても「老いて、気力体力を失った」のは間違いないところだろう(認知症も入っているかもしれない)。なにしろ、当年92歳なのである。

そのようなわけで、現在の創価学会本部(指導部)としては「池田死後」を考えないわけにはいかない。
池田の存在があまりにも大きいため、このまま死なれては、創価学会は「池田の死」とともに空中分解しかねないからである。
そこで、徐々に「池田大作がいなくても回る組織」への体制変換を進めており、これが「池田はずし」の実相なのだ。

この「池田はずし」の実態を懇切丁寧に論証したのが本書なのだが、本書の目的は、今の創価学会本部がその生き残りを賭けて進めているのは、「池田はずし」であると同時に、それに代わる「後ろ盾」としての「自民党政権との癒着」だという事実の告発だ。
この癒着が、「池田危機」によって、以前よりも格段に進んでおり、たいへん露骨かつ危険ものになっているのである。

通常、こうした部分は隠されているのでわかりにくいが、例えば、本書刊行の以降のものだが、次のような事例がある。
「新型コロナウィルスの感染拡大による緊急事態宣言」が発令されている現在、長期にわたる営業自粛を求められたために、倒産や廃業に追い込まれた会社や個人事業がすくなくない。安倍晋三総理の率いる政府は、当初、国民に対して「1世帯30万円を支給する」政策を決定し(つまり、公明党本部も承認して)進めていたが、給付には各種条件が付き、しかも手続きが煩雑だ、との批判が寄せられた。
これが野党からの批判だけなら、安倍政権はこれまでどおり意にも介さなかっただろうが、突然、公明党の山口委員長が、直接安倍総理に対し、既定の政策を翻す「無条件に、国民全員に10万円支給」案を提示し「これが実現されなければ、政権離脱もあり得る」と厳しい要求を突きつけた結果、安倍総理は、自民党内からの少なからぬ不満の声を承知で、これをあっさり吞んでしまった。

私はこれを「条件が厳しく手続きが面倒な30万円支給には、活動家の高齢化が進む創価学会にあって、多くの学会員とそれをフォローしなければならない地方の公明党議員から、不満の声が上がり、公明党中央が突き上げを食らったからではないか」という趣旨のツイートした。
私の場合、創価学会本部もさることながら「公明党が政権入りして以来、悪しき政治リアリズムに染まって、学会本部にも悪影響を与えるようになっていったのではないか」と考えていたから、このような「一般学会員 → 地方の公明党議員 → 公明党中央本部」という(学会本部を介さない)「突き上げの構図」を考えたのだが、本書を読んでみると、やはり現在も公明党は、学会本部の言いなりであり、公明党を矢面に立たせて、学会本部が陰で操っているという構図に変わりはないようだ。だから「10万円支給」の件についても、上の構図は「一般学会員 → 学会本部 → 公明党中央本部」というかたちでの動きであったと考えた方が正しいようなのだ。
要は「創価学会本部 → 公明党中央本部 → 自民党・安倍政権」という構図だったのである。

事程左様に、創価学会は公明党を介して(あるいは、もはや直接)、現在の安倍政権への大きな影響力を行使している。そしてその影響力は、自民党内で政権担当者が変わっても、大きく揺らぐことはないだろう。もはや自民党にとって公明党・創価学会の「選挙戦力」は、無くてはならないものとなっているからである。

だからこそ本書は、仮に創価学会員に読まれなかったとしても、それ以外の人が読まなくてはならない本なのだ。もはや、創価学会を馬鹿にし罵倒して、それで満足していられるような状態ではないのである。
つまり「創価学会の問題は、自民党政権の問題であり、日本の政治の問題」なのだから、国民の多くは、この事実を正しく理解して、政権与党である自民党に対してこそ、物申さなくてはならない。

私はリベラルとして、数百人もの「ネット右翼」と喧嘩をしてきた(妄信者である彼らとは、議論が成立しないからだ)が、しかし、安倍政権を支持し、それでいて「創価学会嫌い」な彼らこそ、この本を読んで、正しく安倍政権の問題を直視し、反省し、物申すべきだろう。
彼らネット右翼が、自身のアイデンティティをかけて「安倍晋三」を支持したいというのは、創価学会員が「池田大作」を何が何でも支持したいのと同種の信念なのだが、しかし、この「自民党政権と創価学会」という組み合わせは、ネット右翼と創価学会員のどちらにとっても不本意なものでありながら、しかし「現実」なのだとということを、もっと真剣に考えるべきなのである。

本書が伝えるのは、創価学会員にも、安倍自民党支持者にも、その他の政治に興味の薄い一般国民にも、決して知って楽しい「不都合な事実」ではない。
しかし、そうした現実から目を逸らす「平和ボケ」のせいで、「コロナ対策の拙劣さ」に象徴される「世界から物笑いの日本政治」になってしまったという事実を、私たち日本国民は、真剣に恥じて反省すべきなのである。

初出:2020年5月10日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)

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