植木雅俊 『100分de名著 2018年4月 法華経 あなたもブッダになれる』 : 〈法華経の真髄〉 とは何か
書評:植木雅俊『100分de名著 2018年4月 法華経 あなたもブッダになれる』(NHK出版)
本冊の画期性は、法華経の意義を「宗教的幻想から、仏教そのものを徹底して解放した点にある」と喝破した点だ。
一一こう書くと、法華経ほど「宗教的な幻想」描いた「宗教的テキスト(経典)」もないではないかと、江戸の町人学者・富永仲基のようなことを言われそうだが、そうではない。
たしかに表面的に見れば、法華経に描かれているのは、壮大な「宗教ファンタジー(非現実的なスペクタクルストーリー)」でしかないのだが、それが「比喩」的に語っているのは、あたりまえの人間があたりまえに正しく生きることこそが「悟り」であるということ、「他人の苦しみに涙し、他人のために汗を流せる人間」こそが「菩薩(人間救済の仏道修行者)」であり、同時に「ブッダ(覚者)」なのだ、ということなのだ。
そして、こうした意味で本冊は、法華経を、そして仏教そのものを、「宗教的幻想」から徹底して解放し、「苦の世界の中に、光をもたらす(白蓮華のような)人間」という「人間学」へと止揚したものだと言えるのである。
本冊の意義を正しく理解する上で「好対照なテキスト」として、同じ「100分de名著」シリーズの別冊として刊行された、仏教学者・佐々木閑の『別冊100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』がある。
この佐々木書『大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』は、植木による本冊『法華経 あなたもブッダになれる』の対極にあるもので、両者を正しく比較すれば、現実の仏教界の内実も見えてきて、「本来の(あるべき)仏教」とは何なのかを考えるための、良き契機ともなろう。
佐々木と植木、この両者の「対立点」とは、「原始仏教の教えとは、どのようなものであったのか」という点にある。これが両者では、対極的なのだ。
そして、これは「どっちも正しい」とか「どっちも一長一短だ」などという誤魔化しが許されない、「仏教の本質」に関わる論点だと言えるだろう。
簡単に言えば、佐々木閑の立場は「上座部仏教(小乗仏教)」の立場であり「大乗仏教は、釈尊の教えを歪めた」というものだ。
一方、植木雅俊の立場とは「大乗仏教・法華経」の立場から「釈尊の教えを歪めたのは、上座部仏教(小乗仏教)であり、大乗仏教は、それを釈尊の教えへと原点回帰させたものだ」という主張で、言うまでもなく、両者の見解・主張はとうてい並び立たない。
では、どちらが「真相」に近いのか。
私は、植木の立場を支持する。なぜならば、植木の方は、釈迦の教え(仏教)が、本来はとても「人間的」なものであり「平等(救済)思想」に貫かれたものであったということを、「原始仏典の内容」に即して主張しているからであり、一方、佐々木閑の主張は、原始仏典の内容に基づくものではなく、釈尊が「教団(=出家者集団)」を形成していたという「事実」を、そのまま「上座部仏教(小乗仏教)」の「教団(出家者集団=サンガ)」と同一視することで、「サンガの中で、それぞれが悟りを目指すことこそが、釈迦の本来の教えだ(よって、大乗仏教は後世の変造仏教だ)」としているだけであって、肝心な「悟り」自体がどのようなものであるのかという点については、(佐々木の他の本を当たっても)一言半句、なにも語ってはいないからである。
そこで問題となるのは、釈迦が語った「悟り」とは、一体どのようなものであったか、ということになるのだが、厳密に言えば、それはどこにも示されていない。それは本来「語れない」(言葉に尽くせるようなものではない。したがって、文字にも残せない)ものなのである。だからこそ、それは「釈迦の言動」から「推察・解釈」するしかないものなのだ。
そもそも、釈迦自身は「経典」を書いてはいない。
釈迦が「こう言った」「こう行動した」というのは、釈迦滅後に「弟子たちが語ったこと」であって、釈迦自身の語ったことではなかった。つまり「伝聞情報」であり「解釈(釈尊はこのような趣旨のことを語ったと、弟子である私は、そう理解しました)」ということでしかないのだ。だから、この「伝聞情報」を、そのまま「釈迦の教え」とすることはできない。ましてや、こうした原始仏典の形式を借りて「私はこのように聞いた(如是我聞)」というかたちで作られた、後世の大乗仏典が「釈迦の教え」そのものであるはずもない。
つまり、「経典」から、知ることができるのは、釈迦が語った「悟り」の中身ではなく、「(悟りにまつわる)釈迦の言動」だけであり、その「解釈」なのである。
したがって、すべては、この原始仏典に示された「釈迦の言動」を、どう「解釈」するか、にかかっていると言えるだろう。ここで「上座部仏教(小乗仏教)」と、後の「大乗仏教(法華経を含む)」との解釈が、大きく分かれるのだ。
端的に言えば、佐々木の選択した「上座部仏教(小乗仏教)」の立場とは「原始仏典にも示されているとおり、釈迦は出家者集団を形成し、その中で悟りを開くために瞑想なり何なりをして、それぞれに修行した」というものであり、一方、植木の選択した「法華経」の立場とは「釈迦は、出家と在家、男女の別などのすべてを差別を廃止して、それぞれが悟りうる主体だとした」というもので、大乗仏教成立時において主流だった「上座部仏教(小乗仏教)の差別性」を批判して「釈迦の原点に帰れ」とするものである。
つまり、佐々木閑は「上座部仏教(小乗仏教)のサンガの形式が、釈迦仏教の本質であり原点だ」と主張する「形式論」であるのに対し、植木の依拠する「法華経」の立場は「釈迦仏教の本質は、そうした小乗仏教的サンガ形式成立以前の、無差別性の教えにある」という「内容論」であり、どちらも「こちらが先で、釈迦の教えに近い」とするものなのだ。
だが、いずれにしろ、どちらも「解釈」である以上、「古い解釈が正しくて、新しい解釈が間違い」だということにはならない。
要は「適切な解釈=ポイントを外していない解釈」であることが重要なのであり、その場合、佐々木閑が言うような「男性出家者のみが悟りに至れる、男性出家者集団形式の修行」と、植木雅俊が依拠する「法華経」の「問題は形式ではない。大切なのは、釈迦在世当時に主流であったバラモン教の差別的(カースト的)な教えに抗して、釈迦が、無差別な悟りの可能性を開いた点にあるのだ」という立場の、どちらに「釈迦の思い」を読み取るか、にあるのである。
○ ○ ○
佐々木閑と植木雅俊の二人を対比して面白いのは、どちらももともとは「科学の徒」であったにも関わらず、目覚めた「仏教理解」については対極的だった、という点にあろう。
このことが意味するのは、要は「科学をやっていた」とかいったこと自体には、ほとんど意味がないし、そこに意味を見出すのは、つまらない「権威主義」でしかない、ということである。言い換えれば「科学者もこう言っているから、この宗教は正しい」などという発想は、最も「非科学的な発想」なのである。
だから、事実そういう「経歴」を持っていたとしても、そこを強調することは、ほとんど「ペテン」であり、その点で、佐々木閑の方は、いかにも胡散臭い「権威主義者」だと言えるのだ。
佐々木閑の他の著書をいくつか読んでみればわかることだが、彼はもともと「浄土真宗の寺の後継息子」であり、寺を継ぐことを強いられた人間である。それに反発して科学に走り、自身を縛ろうとしている「大乗仏教の一教派たる、浄土真宗」に反発して「小乗仏教に、仏教の原点を見出した」というのが、佐々木本人の原点だ。
つまり、佐々木閑の場合、「学者」と言っても、もともとは「大乗仏教」に対してルサンチマン(恨みつらみ)を抱える個人が、その反動として「小乗仏教」を支持する学者になったということでしかなく、そこに「価値中立的な、科学的視点はない」のである。
そして現に佐々木は、現在、仏教学者であると同時に「浄土真宗の寺を継いで住職となり、門徒の前では(信じてもいない)阿弥陀如来の救い」を説法しているという、驚くべき「二枚舌」の人なのである。
そんな彼が「大乗仏教において、こうしてブッダの教えは変容した(=変容させられた=ねじ曲げられた)」などと、「大乗仏教」を「小乗仏教」の立場から非難しているのだから、この自虐的倒錯性は、ほとんど悲劇的なものだと言えよう。そして、そんな彼だからこそ、近年の著書(例えば、キリスト教牧師・小原克博との共著『宗教は現代人を救えるか 仏教の視点、キリスト教の思考』)では「悲観的な物の見方」がとても強くなっていて、ほとんど病的にも見えるのである(例えば『ネットカルマ』における、被害妄想的な主張)。
つまりこれは、「自分が救われることしか考えなかった人」の末路である。
たしかに、この世の中は「苦」に満ちており「他人のことなど、かまってはいられない(まず自分が救われたい)」というのも、決してわからない話ではない。
しかし、こうして「自分一人の幸福」という「業(カルマ)」に縛られてしまった時、人は「この世の現実(六道輪廻)」に縛られることになり、そこから「解脱」することができなくなる。
言い換えれば「他者に開かれること=差別を設けることなく、他人を自分のように大切にすること」に開かれた時にこそ、そこに「六道輪廻から解脱」である「菩薩」の境地が開かれるのである。
そして、その「菩薩」とは「他人を救うことの苦労を厭わない、むしろそこに喜びを感じる」(不軽菩薩のごとき)存在であり、まさにこれこそが、この「現世」という「穢土」からの解脱であり「(如蓮華在水の)仏の境地の覚醒=悟り」だったのである(それが「悟り」だからこそ、このように口で言うのは簡単だが、実行は難しい)。
なぜ、「より古い小乗仏教」よりも、「後世に作られた大乗仏教」の一つである「法華経」こそが、「正しい」のか。
それは、「法華経」こそが「悟りへの道」である「すべての人のために生きる」という「菩薩道」の重要性を、唯一正しく伝えているからである。それこそが「釈迦の悟り」であったと、正しく「解釈」した点において、「法華経」即「釈迦の教え」であり「仏教の真髄」だったと言えるのだ。
初出:2021年3月12日「Amazonレビュー」
(同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年3月18日「アレクセイの花園」
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○