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山極寿一・ 小原克博 『人類の起源、 宗教の誕生 ホモ・サピエンスの 「信じる心」が生まれたとき』 : プロテスタントの大胆な論理

書評:山極寿一・小原克博『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』(平凡社新書)

霊長類学者とキリスト教神学者が『人類の起源、宗教の誕生』『ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』をテーマに議論した本、だと思ったら間違いである。

本書は、現代の人類が、種として直面する諸問題について、霊長類学者とキリスト教神学者がそれぞれの手札を切って、その解決策を模索した対談だと言えよう。
つまり、霊長類学的知見やキリスト教神学的知見そのものの是非を問うものでもないし、「科学と宗教」の知見がぶつかりあうようなものでもない。
「現代の人類が、種として直面する諸問題」について、霊長類学者がその知見にもとづいて、何が問題なのかを指摘して、それについてキリスト教神学者がその知見においてフォローする、といった感じだとでも言えよう。

キリスト教にあまり興味のない読者には、キリスト教神学者である小原克博のこうした態度は、いかにも「紳士で学者なキリスト者」としか映らず、何の違和感もないだろう。平均的な日本人が持つ「キリスト者」像とは、そういうものだからだ。

しかし、現実のキリスト者というものは、決してそんな「毒にも薬にもならない存在」ばかりではない。
小原もすこし触れているように、アメリカの保守的・原理主義的なキリスト者は「ダーウィンの進化論(すべての生物は、単細胞生物から段々と進化し、やがて人類を生んだ)」を「神による六日間の世界創造」(創造説)を否定するものとして敵視し、学校教育の場から排除しようと、今も過激なまでの運動をくりひろげ、他の先進国では考えられないような、一定の成果をあげている。そんな「福音派」と呼ばれる人たちが、アメリカでは大きな政治力を持って、今ならトランプ大統領を支えてもいるのである。
つまり、紳士的なキリスト者が普通で、原理主義的で過激なキリスト者はごく一部の例外だというのは、すくなくともアメリカに関してなら間違いだと言っていいくらいなのである。

しかしまた、「アメリカの福音派プロテスタント」ほど過激ではないにせよ、カトリックの保守派神学者ならば、日本のプロテスタント神学者である小原のような、受け答えは出来なかったであろう。
カトリックというのは、もともとプロテスタントよりは保守的だったので、今でも基本的に「妊娠中絶」や「同性愛」を認めないのだが、本来なら開明的であるはずのプロテスタントが、アメリカにおいては、カトリックも斯くやというほど、かえって極端に保守化してしまったのも、プロテスタントが(小原克博に典型的なように)あまりにも開明的で、近代的思考に対し知的に「物わかりが良すぎた」ことへの反動だったと言えるのである。
つまり、もともとは知的で禁欲的だったアメリカのプロテスタントも、西部開拓時代の庶民にとっては「難解で鼻持ちならず、神を実感しにくい」ものと思われたので、祈っているうちに神が降りて異言を発するような、派手でわかりやすいプロテスタント教派が力を持つようになっていったのである(信仰覚醒運動)。

で、キリスト教についての興味で本書を手にとった私には、本書の内容は、あまりにも「マトモ」であり、そこが物足りなかった。
私は無神論者なので、小原克博の良識的態度についてはむしろ肯定的なのではあるが「こういう話ならキリスト教神学者じゃなくてもできるだろう」という感想において、物足りなさを感じたのである。

ただ、そんな小原克博について、唯一「面白い」と感じたのは、こうした小原の考え方を象徴する、次のような言葉であった。

『 人類はその最初からバーチャルなものを求めていますから、その特性そのものを悪いとは思いません。ライオンマンの彫刻をつくった時代、人間は虚構をつくり出す力をすでに持っており、この世に存在しないものをつくったり、描いたりすることによって、現実の中に目に見えない存在を顕現させることができました。バーチャルなものを思考する強力な能力を人間ははるか昔から持っていたわけです。しかし、そのような人間も、自分たちの意のままにならない圧倒的な自然の力の前で身体を駆使して生きなければなりませんでした。言い変えれば、人間はリアルな現実に身体的な根を下ろし、そこからバーチャルな世界に飛び立っていたわけです。
 現代において心配なのは、人間がリアルとバーチャルの間を行ったり来たりする身体バランスを失い、インターネットのようなバーチャル世界に自分好みの情報空間をつくって安住し、猥雑で予測不可能な現実と向き合う機会が減っていることです。』(P125)

つまり、小原克博は「宗教」というものを、人間が本来的に持っている「バーチャル志向の一種」として肯定しているのである。
人間は『リアルとバーチャルの間を行ったり来たりする身体バランス』さえ取れているなら、それはむしろ「矛盾」ではなく「自然」なのだ、と言いたいのであろう。
それに対比するものとして『インターネットのようなバーチャル世界に自分好みの情報空間をつくって安住』するという態度が批判されているのだが、これは、インターネットの世界に「ひきこもる、イマドキの若者たち」を指すばかりではなく、先に紹介した「アメリカのキリスト教保守派」の態度だとも言えるだろう。どちらも『リアルな現実』に根を下ろそうとせず『自分好みの情報空間をつくって安住』するという「現実逃避」に引き蘢っている点では、まったく同じだからである。

したがって、小原が、霊長類学者である山極寿一の経験主義科学の視点に、なんら注文をつけることなく、そうした意見に屈託なく同意してみせるのも、それは山際の世界は基本的に「リアルな世界」であって、両立しうる「バーチャルな世界の一種」としての「信仰世界」を何ら脅かすものではない、というのが小原の立場だからなのであろう。
小原は『リアルとバーチャルの間を行ったり来たり』できる「学者であり、かつ信仰者」だという立場なので、「学者の世界=リアルな世界」と「信仰者の世界=バーチャルな世界」の、どちらも否定する必要はない、という立ち位置なのだ。

これは「信仰者の世界=バーチャルな世界」だとまで言ってしまえる剛胆なキリスト教徒には、まったく矛盾のない「正論」になりうるだろうが、しかし、多くのキリスト教徒にとって、「信仰者の世界」と「バーチャルな世界」をイコールで繋ぐことは、いまだ教義的にも感情的にも無理があるというのが、リアルな現実であろう。
「信仰者の世界=バーチャルな世界」と認めてしまうと、それは「キリスト教の教え=バーチャルな世界」「仏教の教え=バーチャルな教え」「オウム真理教の教え=バーチャルな教え」ということで、哲学的内容に差異はあれども、その哲学的位置づけとしては等価になってしまわざるを得ないからである。

しかしまた、それでも、あえて「信仰者の世界=バーチャルな世界」だといった「理知的な判断」を、「自己の信仰理解」において下してしまえるのが、プロテスタントのプロテスタントたる所以でもある。

カトリックの「教会」は、「神と信者の仲立ち」として、信者を導く存在であり、だからこそ信者は「教会の教導に従わなくてはならない」とするのだが、プロテスタントの信仰は、そうしたカトリック教会の「特権性」を認めず、信仰とは、あくまでも「神と私の一体一関係」だと考えるので、信仰をどう規定するのかも、信者各人に任されることになるのである。
だから、プロテスタントは、場合によっては「アメリカの福音派」のような「原理主義」にもなれば、小原克博の信仰理解のように「信仰者の世界=バーチャルな世界」とまで言ってしまえる、ある意味では、ほとんど「無神論」と呼んでもいいような立場にまで分かれるのである。

どうしてプロテスタントは、ここまで「科学的思考」や「物理学的事実」などに対して「物わかりが良いのだろう」という疑問に対する、ひとつのわかりやすい解答として、小原克博の「人間はリアルとバーチャルの間を行ったり来たりする存在であり、大切なのはそのバランスであって、むしろどちらかに偏することの方が危険なのだ。だからこそ、バーチャルの世界を代表する信仰世界に生きる者が、リアルな世界の知見を尊重重視するのは、むしろ当然のことであり、必要なことなのだ」という考え方は、説得力のあるものとして、私には、非常に面白いと思えたのである。

ただし、この「バーチャルなもの」というものの定義が、私たち非信仰者と小原のようなキリスト教信者とでは、微妙に違っているおそれは十二分にあるので、そのあたりをきっちりと詰める論理性は、今後とも必要であろう。
「バーチャルな存在=非存在=単なるフィクション」とまで小原が考えているかというと、そこはいささか疑問が残るのだ。たとえば「バーチャルな世界=もう一つの(リアルな)世界」というような考え方を、信仰者というものは、しばしば「思考の抜け道」にしがちだからである。

初出:2019年6月3日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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