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池澤優 編 『政治化する宗教、 宗教化する政治』(叢書 「いま宗教に向き合う」 4 ・ 世界編2) : 宗教と政治の 本質的不可分性の難問

書評:池澤優 編『政治化する宗教、宗教化する政治』(叢書「いま宗教に向き合う」4・世界編2)(岩波書店)

近代以降において「宗教と政治」は、一般には「分割可能なもの」として捉えられてきた。その典型的な概念が「政教分離」である。
「宗教は私的な領域に限定された営為であるべきであり、政治は公の領域に限定されたものである」というものであり、言い変えれば「宗教は公の場に持ち出されるべきではなく、一方、政治は個人の内面に踏み入るべきではない」というものだ。「それでだいたいうまくいくだろう。宗教(教権)と政治(国権)が一緒になったりしたから、キリスト教国家は碌なものにならなかったのだから、それを分割しておけば、近代的な人間主義的国家の節度が保てるはずだ」というのが、大筋での考え方だったのではないだろうか。

しかし、現実には、そう簡単に「宗教と政治」は切り離せない。
普通に考えても「宗教と政治」は複雑に絡み合っているし、地域や歴史的経緯においても「宗教と政治」の関係はいろいろであるのだから、そう簡単かつ一律に分割などできるわけはなく、今は「政教分離」のタテマエが切実なものとして必要とされた時代とは違って、むしろ「宗教と政治」はそれぞれに自身の権利とその重要性を主張しだしているのだから、古いタテマエでは、もはや折り合えなくなってきているのだ。

本書を読んで、私が考えさせられた問題は、「ブルカと十字架」の問題である。

ブルカとは、イスラム教徒の女性が伝統的に着用する、顔を隠すためのヴェールである。これがフランスの公立学校で問題になったのは、ニュースにもなって、日本でも広く知られた事件だろう。要は、イスラム過激派によるテロが頻発した時期のヨーロッパの、その中でももともと「政教分離」の原則に厳しいフランスで、学校でのブルカ着用が問題になったのである。
学校は公の場なのだから、ことさらにイスラム教徒であることをアピールするような文化を持ち込むな、ということであろうし、ひとつには「テロリストに好都合な文化」だという判断もあったのであろう。結局、この問題はフランス国内で決着がつかず、欧州人権裁判所に持ち込まれたのだが、その結果は「当事者国の判断を尊重する」というもので、結果として、政治的判断が支持されたのである。

ところが、これとよく似た裁判が「公の場における十字架という表象」という問題でも争われ、結果としては「十字架は、すでに宗教的表象と言うよりも、西欧の精神であり文化そのものを表象するものとなっているから、これを公の場に掲げたからといって、そくざに政教分離の原則に反するものではない」という趣旨の判断が下されたのだ。

キリスト教に縁の薄い日本人から見ると「ブルカはダメだが、十字架はOKなんて、手前勝手すぎる判断だ」と思う人も少なくないだろう。
しかし、西欧社会の立場からすれば、「十字架」もダメとなったら、あれもこれも全部ダメとということになることは目に見えている。例えば、十字架を含むいろんな宗教的表象を取り入れた「国旗」や「ペンダント(服飾品)」などの各種デザインなどが「公の場ではすべてアウト」なんてことに出来るだろうか? 出来るわけなどないのである。
それなら逆に、ブルカをはじめとする、あらゆる宗教文化を公の場所に持ち込んで良いとしたらどうだろう? しかし、それでは「収まりのつかない混乱」に陥ることになるのではないかという予想も当然なされるであろう。それでは、実質的に「政教分離」は機能しなくなってしまう、と。

それなら、大袈裟に考えずに「公の場所に宗教的な表象を持ち出すだけなら、それは宗教ではなく文化ということで容認し、あくまでも宗教が政治権力と結びつかないようにするという線で、政教分離を守れば良いのではないか」と考える人も少なくはあるまい。特に、外国文化との接触が少なかった日本人ならそう考えるだろう。

ところが、「文化化した宗教的表象は、宗教とは考えず、文化と理解すべきである」という線で考えていくと「愛媛県靖国神社玉串料訴訟」などの政治・宗教問題が浮き上がってくるのだ。要は「どこまでが宗教で、どこからがすでに文化になったものなのか」という線引きの問題である。

例えば、皇室の宮中祭祀は「神道」によって行われており、その必要経費は税金から出ているのだが、これが問題にならないのは、宮中祭祀は皇室の「私的信仰行為」であり、皇室の「私費」によって賄われている、というタテマエがあるからである。つまり、国家によって生活費を稼ぐことを禁じられている代わりに生活を保障されている皇室は、当然の権利として「私費」を支払われており、その金で「宗教」をやるのは、皇室の私的行為であり自由であって、「政教分離」には抵触しない、ということになるわけだ(だから、タテマエとしては、皇室が家の宗教として、仏教やキリスト教を選ぶのも、本来は自由なはずなのだが、そこは「伝統」が許さないという、ダブルスタンダード状態でもある)。つまり、線引きはいちおう為されているのである。

しかし、「政治と文化」の境界線が曖昧になれば、「靖国神社国家護持」論がそうであるように、皇室の私的祭祀たる「神道」が、「文化」の名において、全面的に「公費」で賄われるようになってもおかしくないし、事実そうなりつつあるからこそ、秋篠宮が「大嘗祭の国費支出に疑問」(2018.11)を呈したりもしたのである。
無論これについては「保守派」の反論もあったのだが、要はどこまでが「宗教」で、どこまでが「文化」かという問題になってしまう。

しかも、ヨーロッパの場合であれば、キリスト教がヨーロッパ文化の(圧倒的な)基盤になっているというのは、歴史的に否定できないところなのだが、日本の「神道」の場合は、明治政府によって、統治の道具として「国家神道」化がなされ、さらに諸外国向けのタテマエとしての「政教分離」を取り繕うための欺瞞として「神道は宗教に非ず」という論理操作による「国家神道の特権化」がなされたという、露骨な政治性が元にあるので、歴史的に新しく作られたものでしかない「国家神道」や「皇室神道」というものの現実を、神世の昔から連綿と続くものであるかのように「嘘」をついてでも正当化したい保守派か、無知のためにそれを鵜呑みにしている一般大衆以外は、「皇室神道は、文化であり非宗教」などと言われても、にわかに認めることなど出来ないのである(「それなら仏教も、すでに日本文化であり非宗教だ」となっても良いことになる)。

そうなってくると、キリスト教圏では「十字架は、もはや文化」として容認されるのも仕方ないが、日本においては「皇室神道は、もはや日本の文化」として容認するわけにはいかない、という真っ当な区分は、非常に微妙で分かりにくいものになってしまうし、この種の「個別性」は、世界各地において見られる個別性の問題となってしまわざるを得ない。
つまり「原則、これですよ」などというわかりやすい指針は示しづらく、結果としては「わかりやすい嘘」の方が蔓延する結果になりやすいのだ。まして今は「ポピュリズム」の時代なのである。

このように、私たちは非常に微妙で危険な位置に立たされている。ひとつ誤れば「宗教と政治」が一体化した時代の悪夢が、世界のどこででも甦る可能性が否定できないのだ。

そして、これに対する処方箋など「今は無い」というのは、自明である。
とすれば、私たちに今できることは「宗教と政治」のリアルな関係とその事実を知り、それを考え抜くことしかない。どこからか解決策や処方箋が降ってくることを期待することなど、出来ない相談なのである。

初出:2019年5月21日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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